ふと気づいたら、誰かの人生を生きてしまう
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ふと気づいたら、誰かの人生を生きてしまう

今週も終わった。

三連休が二週間連続で、セールスをやっている身としてはなかなか厳しい月になりそうだと思ったが、正直自分自身を整える時間としてはありがたいなと思っている。

普段、人混みに飲まれて、どこかで心を無にして歩く時間や、本当は誰もが誰かとの繋がりを必要としているのに誰も知らない空間にいると、

無関心でそっけなく、何も気にしていないかのような雰囲気になってしまうのを、私自身が感じてしまうのも、そして自分自身も自然とそうなってしまう瞬間にも疲れる。

数日前までいた実家のある田舎では、「知らない人」という概念や、そこへの警戒心がことごとく少ない。

でも、東京では、そうやって「自分をまとう」ことが、何かから自分を守る手段になっているのかもしれないな。

私だって、例外なく。


▼よく聞く、「サードプレイス」というもの


シェアリングエコノミーも、様々な分野まで広がっているのだと、普段生活をしているだけでも情報が入ってくる。

それを推奨する女性の話を聞いていた時、「人と人とのつながりをもっと持つべきであり、触れ合うと豊かになる」みたいなことを言っていた。

最近会ったイベントなどを様々企画している男性も同じようなことを言っていた。「外を歩く人が全員友達だったら、ギスギスする雰囲気はなくなるし、出会う人たちの中で仕事をうむことができたら、サードプレイスだと思っていたところが自分のファーストプレイスにもなる」

文脈はちゃんとあったしもっと濃い言葉を使っていたが、そんなニュアンスのこと。

要は、「今以上の、人との深い繋がりが、仕事やプライベート含む人生を豊かにする」ってこと。


正直、最初の女性の話を聞いた時、賞賛の声が様々上がっている中で私は一人白けていて、「そう思えるのは、この人がハートフルな家庭に育ったからだろうな」と思った。

人の人格のベースを形成するのは、幼少期の、特に家庭要因だと思っている。両親の有無、両親の人柄、関係性、経済的精神的環境、当たり前の基準、よく聞く言葉・・・

その中で、自己肯定感が高い人や、大学を卒業した後の就活で「幸せな家庭を築くこと」が夢として出てくる人は、私の経験上、「ある程度」ハートフルな環境で育っている確率が高い。

否定から入るのではなく、肯定から入り、その肯定が誰かの心を励まし、時に熱を持たせ、強いファンにさせることだってある。それが不安定なわけでもないから、常時その状態であることを本人自身が特質で美しいことだと気付きにくい。

愛の中で育ち、誰かに愛され肯定のマインドを根から培うことができた人の言葉は、特に、反対の人生を生きてきた人からすると「絵空事」にきこえ、「綺麗事でしかない」と思ってしまうことがある。

「この人は、私と違う」と思って、結局彼女に集まってくるのは似たようなマインドを持っている人たちだけ。

本質的に、つながることを必要としている緊急性の高い人たちとは、壁をどう乗り越えればいいのか、なかなかわからない。

まさに、最初の女性の話と世界観を聞いていて、私はそんな状況になった。

二人目の男性の話とすると、その男性は「自分が楽しいかどうか」で物事を判断し、そして判断することが経済的にもできる状態の人だった。

彼の世界ではあくまで自分は満たされていて、楽しいと思えるものやできることを知っていて、その面白さを軸に、人のサードプレイスをファーストプレイスにすることができる世界を作ることが人の幸せにつながることを信じている。

まさに私の田舎の例がわかりやすくて、警戒心や無関心がない人とのつながりは、人の心を穏やかにする傾向が強い。

もちろん、それを好まず家にいることが好きな人もいるだろうけど。

人とつながりたいと本質的には思っているが、手段や勇気がない人が、ハードル低く訪れる先で、同じくそれを求めている人とつながる。

つながることが連鎖していけば、その先ではもともと出会うことができなかった人や、普段話したことのない人と出会い、自分の「当たり前」が広がり、共有言語を学び、新しい自分の興味や勇気に気づく。

そして、自分が持っている接点や面が多ければ多いほど、その人たちとライトに「何かをする」ことが可能になる。

音楽なのか、仕事なのか、転職なのか、支援なのか、恋愛なのか、趣味の発見なのか、それは出会ってみないと、相手を知らないとわからない。

でもそれが、自分を不安や興奮の感情の中に持っていかれる面白さなんだよな。

人とのつながりは、どう転んで、どう自分や他人を巻き込むのかわからない。


▼サードプレイスに求めるものは、本当にファーストプレイスでは埋まらないものなのか?


今日、新しいバーに行ってみようと思った。

行ったことのない世界観で、そこで生きる人たちの声を聞くのが少し怖かった。

でも、これは自分の人生であり、誰も私の心の内側の恐怖なんて気にしていないのに、私はなぜそんなことを思って怖気付いているんだろう?と思った。

その時気づいたのが、タイトル通り。

心は弱っている時があってそれは緊急的に自分と向き合い自分をいやす必要があるけど、他に「誰か他の人の人生を歩んでしまっている時」があるということ。

そしてその時は、自分の本来の感情や、アップダウンが鈍くなり、もやがかかったように突発的な反応に弱くなる。

自分の時間を消費しているのに、自分の人生の判断軸で物事を捉えることができなくなる。誰かの声を気にして、誰かの目を気にして、誰かに愛されるために気を遣い、それを基準にしてしまう。

悲しいことよ。

その状態で、サードプレイスに足を運んだところで、心が本質的に満たされることはない。

なぜ、私はここにきているのか?なぜ、私はこうしているのか?なぜ、私はこの場所に心を奪われたのか?

そうやって自分に問いかけた時、自分の心は本当に本質的な、120%イエスと言えるような解を言えるのか。


たまに、そうやって逃げてしまいたくなる時がある。

完全に外向型だからこそ、どこかの環境に足を運ぶことで、新しい何かに触れることで、新しい気持ちにアップデートすることができるって。

でもそんなことって実は少なくて、もちろん泣きたくなるくらいに革新的で心が揺さぶられ、何かに気づいて一新されることだってあるけれど。


結局、世の中のあらゆる事象は、自分の心にフィルターを介することで、心に入ってくる。

哲学者カントの「物自体」という考え方だ。

そのフィルターが、もやがかかっていたり汚れていたり、自分本位でなかったりすると、当然心の中に入ってくるのも歪んだものになる。

その状態で、その状態をどこかで無視しながら、何か新しい発見をしようとしても無理に近くて、本質的に向き合うべきものに目を向けない状態でたまる無意識のストレスは意外と大きい。


▼今、心が本当に求めているものは何?


続きが気になる漫画を読むこと?音が素敵なバーにいくこと?気分に任せて誰かに連絡をして夜会うこと?

ずっとしこりとして残っているのは、明日からの仕事で、自分の進歩が見られない可能性があること。

なんども自分の向上に時間を使うことから、忙しさや疲れを理由に逃げてきた。

仕事の本質って、目先のことに時間を捉えられるのではない。何もかも大事な仕事の一つだとわかっていながら、時間を使うことで、「今の延長線上ではなく、飛躍的に、今いるポジションをフルに活かして、”前進”をする」ことができる。

それが、ただひたすら、仕事を楽しくし、ハラハラさせ、わくわくと自信をもたらし、良い循環として人生を豊かにする。

ツイートする言葉にも力は生まれ、共感とその定期的な発信と質の向上に心が躍り、

外部とのつながりを求めて足を運ぶことで得られることがより一層色を帯びて濃くなり、吸収が加速する。

その螺旋階段の中にいることが、フロー状態を生み、心を奪い、人生そのものの考え方へ刺激的な影響を与える。

それが、自分の人生の変化をうむきっかけになる。


最高の循環のなかに、自分を置きたい。

時間や、忙しさや、めんどくささや、大変さや、恋愛や、心に不安定さを言い訳にするのではなく。

最高の状態に自分をおいて更新していくことが、何にも依存しない自分の精神を構築し、自分が自分を愛することで、

今抱いている不安や、誰かに預けたままの承認欲求を取り戻すことができる。


だからこそ、自分自身が向き合うことで優しくなれるものを、

まずはちゃんと自分の心に向き合うことで選んで行こうと思った休日でした。


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