しんくうスキー

 登校しなくなってから半年、冬が来た。スキー合宿の予定があったが行きたくなかった。ほとんど遊びだから楽しいよと勧めてくる大人がいたけどそそのかしにしか見えなかった。バスに乗れば丸くその場が収まることは知っていた。聞き分けはよい方であった。友人関係も悪くなかった。しかし行きたくなかった。その気持ちを大人に伝えたが、無理やり乗せられそうになった。ので少し狂気を混ぜた演技をしてみた。現場には演技から洒落を抜く力場がかかっていた。笑えない状況だったと思う。幼少期からの一番の友人が大人に呼ばれて説得に来た。薄ら笑いが張り付く。絶望である。彼の前で洒落のない演技をしたことなど一度もなかった。彼に打つ芝居は爆笑の渦とともに終わらせることを目的としていた。遊びに行き渦巻きが天井に届いた気がした日の帰りは舞台をはける名人落語家にでもなった気分だった。毎日のように遊んでいた親友に真空を飲ませなければ私の願いはかなわない。

 

 偶に大人を困らせることをしたくなる瞬間があった。したくなると思うより先に動いていた。動かなかった、の方が正確か。悪戯は反抗の意思表示だった。不器用極まりないが、人の話が聞こえてないふりをし続け反抗声明とした。ピアノ教室でピアノを弾かず、バレエ教室で座り続けた。それよりは成長し衝動と沈着の波打ち際、幾ばくか衝動の深みに掬われた足は縺れ一年沈んだ。中2の1年。

 ほぼ毎日夕方4時ごろ滲んだ涙は帰宅の至福をうしなった喪失感によるものだったのだろうか。その滲みは1年の時間に対しても象徴的で、不登校の”あの感じ”を私の内側に規定している。なぜ学校に行きたくなかったのか。この疑問はあの頃の深みに入り込み取り出せなくなってしまった。想像は巡る。生きながら思い出される理由はもはや分かたれた少年の日々についての都合の良い解釈であり、所詮今の私に深みより出る影が作る形への二次的心象だ。滲んだ風景はさらにかすむ。夕方の光だろうことしか不鮮明だ。

 あの中庭にあった悪とは何だったのだろう。中学校までは登校せずとも卒業ができる。いつもの大人は学校に行く道しか知らなかった。私もそうだ。学校に行っていた事実はその後の人生をかけて巡られる回想に強化され「学校は行っとけ」になる。想定しうるあらゆる道の可能性の中で学校、という概念、は学校に行く経路しか認識できない。普通に欠陥だと思うがそれが自然であるならば受容するのもやり方だった。私の学校は規模的に毎年数名の不登校者を抱えていた。きっと今も誰かが見ている。中庭のビオトープには観察されるべき動植物と、認識すら痛ましい悪が息づいている。

 

 スキー合宿の思い出はない。早朝の演技は功を奏した。友人とはそれからも変わらず交友関係を保ち、今でも偶の連絡をしあう仲だ。