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海のルールが世界のルールになる

50年かかった、国際海洋法の批准

 人類が、「海の使い方」についてルール化しようと決めたのは、第2次世界大戦後(1945年終結)のことだそうです。
 戦後、国連で検討を開始したわけですが、実際に「海洋法」が制定されるまでには半世紀の時間を費やしました。
 「国連海洋法条約」が発効されたのは、1994年4月末のこと。

 なんでそんなに長い年月を費やしたのか・・・。

 海と陸とでは、ルールの前提となる環境があまりに違いすぎるので、人類の考え方自体も変えて来なければならなかった、というのがその原因のようです。

「陸的思考」と「海的思考」

 陸地には線が引けます。
 小学生の時に、机の上でやりませんでしたか? 定規を置いて、陣地ごっこ。「定規よりこっちには入るなよ!」「俺の陣地だから」とか、「空中はセーフね!」とか。
 バカな領土ごっこをやったものです。

 陸には線が引ける。
 そして人は、国境線を引いて、「あっち」と「こっち」を別物にして考えてきた。
 だから、線を超えると世界が分かり、ルールが変わるわけです。国が変わるので法律が違う。

 そのようにして、国境線の向こうで大変なことが起こっていても、
「まあ、あっちの話だからこっちは関係ないね」
 と、無視して生きてきた。

 しかし、海は違います。
 海には線が引けない。
 海の水は絶えず流動しているし、魚だって同じように移動している。これが誰の物で、あれはわたしの物あなたの物、と区別ができない。分けられない。

 そこで、海には、陸のように所有の観念を持ち込まない方法をとった。

 領土国家には「主権」というものが存在しますが、海では誰も主権を持たない。その代わり「主権的権利」というものを設定している。
 国際海洋法の下では、自国の領土から200海里(約370km)の範囲の海に関して「排他的経済水域」というものを設定することができるのですが、この海域にあるものが自国の所有物であるということにはしなかった。その海域で、魚を取ったり、海底から鉱物を採ったり、海洋の力で発電をしたりした時に初めて、その「とれた物」に自国の所有権が生じるという、ちょっと、それまでの陸のルールとは一線を画すルールが作り出されているのだ。

 つまり、海では、線だけ引いて「はい、ここの中の物は全てわたしの物です!」と主張できないということです。

 海は誰の物でもないけど、その海を管理して整備して手をかけて、そうしてその海から取れたものは、その取った人の所有としてもいいよね、っていうルールですね。
 「海は人類みんなのものだ」という考え方からスタートする事になったのが海洋法です。お

「人類」が歴史上初めて「主権者」になった、『海洋法』

 そして、この海洋法というものができることで、人類史上初めて法律上の主権者として「人類」という存在が設定されたというのです。
 これはすごく重要なことです。

 今までは法律上の主権者は、「国」とか「個人」とか、「市」「県」「州」などの地方自治体という形では存在していたのですが、海の使い方を考える、海という視点で考える『海洋法』ができることで初めて「人類」という主権者が出てきた。

 これはつまり、人類はがはじめて「人類は一つだ」という概念を獲得し具体的に法律上で表現したという、人類史上とんでもなく重要な事実だと考えます。
 海の視点に立つことで初めて、「人は一つなのだ」ということを法律という公的な場で表現するだけの論理を確立したのです。

地球は誰のものでもない。海だけでなく陸も同じはず

 本来は、陸もですね、同じなんですよね。
 この地球は人間の誰かが作った訳ではないので、海だけではなくて、陸だって誰の物でもない。
 その陸を活用している人がいれば、その地から取れたものはその人の物ってことでよいわけだけど、場所自体はその人が所有するべきではない。活用しなくなったらまたみんなのものに戻るべき。そう思います。

 陸で暮らしていると、その陸での運用ルールを作ります。
 それはどう言うものかと言うと、「線を引いて自陣(領土)を決めて、その領地を守る。」 他にもその領地が欲しいという勢力が出てくると、「柵を作ったり、壁を作ったり。」それで、お前たちはここにくるな! と主張する。
 それでもまだ人がやって来そうな時は、武器を持って威嚇する。

 陸にいて、陸の性質に基づいてルールを作って、陸に固執して生きていると、そういう陸的な人間になるということですね。

もし、人間がもっと海で生きれば・・・。

 海のルールになった国際海洋法にあるように、地球は誰の物でもない、という感覚が当たり前になる。
 みんなのものだ。みんなのものだからみんなで大事に管理して、そこからみんなで恵みを得よう、と、そういう発想になる。そういう文化になる。

 陸のね、縄張り文化が幅を利かせていると、あっちで大変なことが起きてても、こっちでは知らんぷりができてしまう。
 でも、海的な人類文化になれば、全ては繋がっていることを生活感覚的に分かっているので、あっちの一大事も自分の一大事として、解決に協力したりすることができるようになる。
 そういうわたしたち人類にならないと、もう、先がやばいんでないの? という感覚は多くの人が持っているのが今じゃないかと思う。多くってどれくらい?数を示せと言われれば、原田感覚で2割くらい。10人集まると中で2人くらいはこういう話にすごく共感してくれる。

日本国憲法は基本的人権を尊重する。が。・・・

 日本でも、憲法で基本的人権をうたっているけれど、基本的人権というのは人なら誰でも生まれながらに持っている権利なんですよね。ちゃんとご飯を食べて生きて幸せを追求する権利。
 この権利が日本という縄張りの中で犯されると、それは大騒ぎです。でも、縄張りの外、線の向こう側で起きている場合、それが明らかなる非人権的な出来事であってもやすやすと見ないふりができる。
 でも、そういう事ってどうもおかしいな・・・っていう風潮も近年高まっているのを感じますよね。そういう理不尽なことを何かの意図があって、マスコミというのはこれまで報道・伝達しないで来た感があるのですが、インターネットでそういうものも全部世に出るようになりまして、入ってくる情報が変わり、それらを伝えないマスコミへの懐疑やその背後にある意図に思いが至る人もかつてよりは多くなっているのでしょう。

 そんなことを考えならが、ジャック・アタリの「海の歴史」を読みます。

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