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私は、お金を稼ぐのが好きだ。

どうしてこんなに仕事をするのが好きなんですかとよく聞かれる。どうしてなんだろうと思っていたし、逆にどうしてみんなは仕事が嫌なんだろうと思っていた。とにかく仕事をした分のお金の勘定をするのが好きだった。

仕事が好きな理由はぼんやりさせていたけど、実ははっきりとわかっていた。

「虐待」

中学校くらいまで、母と祖母は水商売のオーナーママだった。かなり景気が良く、授業参観の時にベンツと毛皮のコートで登場する母は、誰よりも美しくちょっと誇らしかった。うちには家政婦さんもいたし毎週のように温泉や海外旅行に行っていた記憶がある。そんな水商売で生計を立てる2人は、私には真っ当な人生を送らせようと、週7で塾に行かせ英才教育を金の力で叩き込んだ。

8歳の時に妹が生まれて、ちょっと私の周りの事情が変わった。いつの間にか家政婦さんはいなくなり、私は妹の世話をしながら学校と塾に通うことになった。その頃から、母と祖母からの虐待が激しくなった。

30年前って児童虐待についてまだまだ認知が少ない世の中だったと思う。だけど、小学校の先生はろくに学校にもこない私を心配してよく家庭訪問に来たし、近隣から通報されてうちに警察が来たこともあった。ただ、今のようにそこから児童相談所や養護施設など行政への橋渡しが何もなかった。「毎日叩かれてる、助けて」と周りの大人に言えたとしても、その後一体何をされるか・・考えたら恐ろしくて何も言えなかった。

ちょっとしたことで始まるそれは、彼女たちなりに色んな理由があったのだろう。テレビを見ながら返事をした、おかずを残した、飲み物を置きっ放しにしたなど、子供なら普通にあるようなささいな事。子供に対して「意図のわからない謝罪」を要求する彼女たちに「私の何が悪かったの?」と余計なことを言ってしまう。なぜ叱られ殴られるのか全くわからなかった。何を言っても激昂して怒鳴りつけ、恐怖で固まっている私を「謝れ謝れお前が悪い」とひたすら殴る、蹴る、ビンタされる。叩きすぎた手の血管が切れると、代わりに30cmの物差しで叩かれ、掃除機の先で殴られる。布団叩きはたぶん布団を叩くものだったけど、なんども殴られたら折れて飛んでいった。

きっといつか死ぬんだろうな

散々殴られて泣き叫んで息ができなくなって抵抗もできず動けなくなった頃に、それは終わる。母と祖母二人掛かりで押さえつけて殴ってくるので、全く生きた心地のしない日々を過ごしていた。

中学生って思春期だと思うんだけど、そんなものがあったのかどうか。メンタルがブレる暇どころか、グレる暇もない。今日を生きて一日が終われるかどうかが最重要なのである。何かあっても平常心を保ち、彼女たちを怒らせないように息を殺して生きる日常。「私への行き過ぎたしつけ」は、彼女たちのストレスのはけ口でしかなかった。

全てのライフラインを失う

高校生になると、いわゆるネグレクト(育児放棄)が始まった。納屋みたいな窓のない部屋に「住む」ことが許されただけで、リビングで過ごすことや台所での食事は禁止され、私という痕跡はこの家から消え去った。そして高校3年間の学費や制服代、教科書代、食費、交通費など、一切の生活費を自分で払うことになった。生きるために必死でアルバイトをして食事をし、冷蔵庫やテレビなど生活に必要なものを細々と揃えていった。これは、自立して自分の生活に彼女たちが干渉しなくなることでもあり、虐待するチャンスが減ることでもあった。私にとってこんなにこんなに嬉しい環境はないはずだった。

方向性を変えた虐待の日々

そうして新しく高校生活が始まったのだが、残念ながら彼女たちの虐待行為が止まることはなかった。実は、高校生になった私は子供時代の体と比べて大きくなり、死ぬほどのダメージを受けなくなっていた。ごめんなさいと泣き叫ぶ私を見て親という絶対的な権力に酔いしれていたはずが、私に殴られる耐性がつき、痛さに耐えることができ、泣き叫ばなくなっていた。それが非常に気にくわない様子だった。

ある日祖母が私の部屋に突然入って来た。なんと手には金槌を持っていた。

死ぬのか、殺すのか。

身動きもせず祖母を見つめていると、突然彼女はテレビを金槌で壊し始めた。ブラウン菅のテレビを金槌で3,4回叩き割ったところでそれは画面にめり込んで抜けなくなってしまったが、祖母は満足げにそのままリビングに戻っていった。その時、あぁこれはしつけなんかじゃない、ただ気が狂っているんだと、その時はっきりと確証した。いち早く高校生活を終わらせて、この家を出るための準備が始まった。誰より早く大人になる必要があった。

毎日、死がすぐそばにあった

殺されるかもしれないと思いながら毎日をやり過ごし、一体どうしてこんな目に合うのか、どうして周りの友人たちのように幸せに暮らせないのか、ずっと理由を探していた。自分の未来を考えた時、命を断つ選択肢として飛び降り自殺や駅のホームに飛び込むことなど、どれが一番痛くないかをずっとずっと考えていたけど、それより何より「私は悪くないのに」という悔しい思いが強かった。彼女たちは単なる敵でしかなく、殺されるくらいなら殺してやろうとも考えていた。

ずっとずっと、どうやって生き残るかを考えていた。

ハタラケルというヨロコビ

そんな中、アルバイトをすることで私は強くなった。働いた分だけお金がもらえるということ。本当に本当に素晴らしいと思った。嬉しくて嬉しくていくらでも働けた。家の食べ物を盗み食いしなくても良い、学校に必要なものを買ってくださいと怯えながら頼まなくても良い。彼女たちに対するお金の相談がなくなったことで、一気に接点が少なくなった。オーバーワークだろうがなんだろうが自分の時間全て仕事に費やした。高校生で時給700円。200時間以上働き、大体毎月15万円くらい稼いでいた。友達なんていらなかった。

高校生で月に15万円という十分すぎるお金と少しの自由を手に入れた私は、今までの分、絶対に幸せになりたいと強く想っていた。

働きまくる中、自由になれると思っていた大人の社会が実は吐き気がするほどつまらない構造だということを知った。他人から受ける嫌味や嫉妬、愚痴、ネガティブなこと全て、それから日本の年功序列やセクハラ、パワハラ。私は自由になるために貯めたお金でひとり海外逃亡をするようになった。日本と海外をひたすら行ったり来たりする女子高生は、日本を離れているときに「自分の力だけで生きていること」を心から実感するのだった。

お金を稼ぐということ

ここまで読んで、私がどうしてこんなに仕事をすることが好きかお分かりいただけたでしょうか。自分のしたことの対価がお金になって戻ってくる、その額が大きいほど自由を感じられるからです。普通に暮らしている人のように、何かあったときに戻れる家や、頼れる親兄弟や親戚はいません。(大好きな妹はいますが) この心細さは理解しがたいと思いますが、自分の人生を豊かにできるかどうかは自分次第だとはっきり言えるでしょう。

また、こういう経験から、困っている人を放って置けない性格になってしまいました。誰も助けてくれなかったあの頃の私、どれだけこの後の人生で人に救われたことか

だから、自分のためにというわけではなく、いつか自分が助けたいと思った人に出会ったときのために、人に優しくできるだけの余裕が欲しいのです。

人を救うということは、生き方や仕事のノウハウ、経験値だけではなく、お金も必要です。1杯のラーメン、ひと晩の宿、1枚の1万円札、仕事の紹介、ビジネスのサポート。ここまではできました。次は、雇用を作りたい。今はそう思っています。

だからお仕事が好きなんですけど、これって中々説明しづらいし、どうしたらそんな風になれますかと聞かれても、うーん難しいなって思ったりします。

私が言えるのは、仕事って楽しいんだよ、ということくらいです。

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余談:そんなわけで人生相談お姉さんやってます

私とお話しをしたいなって思った人は気軽にbosyuで申し込んでください。困っていても、困ってなくても大丈夫です。

ーーー2021年1月追記ーーー
人生相談お姉さんは2020年2月-10月で100件の相談をいただき、終了いたしました。皆様どうもありがとうございました。

みねおか プロフィール

銀座とよだ 女将歴10年
アニクラオーガナイズ歴12年
アニソンDJ歴 10年
日本コミュニケーション能力認定協会
コミュニケーション検定1級
海外在住経験7年
元バックパッカー

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