ヨダレ禅師〜ひとのヨダレを見て悟りを開いたはなし〜

 終電間際の東武東上線に揺られていた。この時間の上りに乗ると中学時代の塾の帰りを思い出す。だから、当時そうしていたようにボブ・ディランを聴いていた。

 中学の時の吹奏楽部の同窓会の後同期とカラオケに行って、駅で彼らと別れた直後から脇腹をつねってくる孤独感を覚え、様々なことが頭のなかを回り始めた。朝霞には中2まで住んでいて、中3の1年間も転校せずに東京の父の実家から電車であっちの中学に通い詰めただけあって、人生の半分ぐらいの思い出がある。高校に入ってから大学に上がってしばらくは無性に行きたくなる時もあった。最近そういう感情も覚えなくなり、また年々思い出が薄くなりつつあるのは、今現在とても色々なことを吸収している反面それらが押し出されているせいだと思いたい。それらは今日みたいなことがあったときに、なんとか僕の中に留まる。でも、電車から眺める風景も、当時毎日見ていたにもかかわらず既視感も覚えなくなり、たまに普段乗らない電車で出かけるときに見る風景と同じものになった。

 そうして自分の来し方を振り返ったりこれからのことを考えようと思ったけど、向かいに座って寝ていた女の子の口からとてもゆっくり垂れ始めたヨダレが、彼女がしていたイヤフォンのコードに到達したとき、どうでもよくなった。唾液に十の牛を見た夜。さとりは日常の中にある。

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