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親の語る「自分史」はそれぞれのなかに息づいている

みなさんは「自分史」を知っていますか?
自分の歩んできた人生を綴り、残していくものです
近年この活動は広まって
主にご年配の方が終活のひとつとして
自分史を作成することもありますが
親が子どもに対して自分の歴史を語るということは
まさにこの「自分史」のようなものなんです

特に私は母親とはたくさん会話しましたから
いろんな話を聞きました
生い立ちや母の両親や戦争のこと
聞けば子どもながらに
「お母さんそんな思いしてたのか」とか
「辛い経験したんだな」とか
いろいろ感じるものがありました

そうすると、ふと気づくことがあるんです
「もしあの時お母さんがああしなかったら
 私はこの世にいないかもしれない」

たとえば父と母の出会いなんかもそうで
おせっかいなおじさんがいたらしくて
そのおじさんに引き合わされて父と母は出会ったそうです
それもたまたまタイミングが良かったから
ふたりとも出かけていった

そのおじさんがいなかったら?
おじさんが二人を引き合わせようと思わなかったら?

そう考えると人生っておもしろいなぁと
若い頃から思っていました
それは、母や父が「自分史」を語ってくれたからです

今の自分がどんな価値観を持っているかということも
親との対話にその起源を見つけることもあります

例えば、私が小学生の頃
クラスメートの子にちょっと嫌がらせなんかされたとき
それに対して私は我慢したり泣き寝入りしたりするのは違うと
思っていました

だから最初は黙って様子を見ますが
しばらくすると先生を巻き込んだりして
「私はこんなことをされるのは嫌だ」ということははっきり伝えていました

でも「◯◯さんがいじめるんです」みたいな
被害者的な言い方はしたくなかったし
相手に言い返したり責めたりということもしなかった

これは私の娘もクラスで嫌がらせを受けたとき
同じような態度に出たことがあるんです
こういうのってDNAというのでしょうか

自分に刃を向けられたとしても相手を責める気にはなれない
それはどこかにある意味の怖さもあるからなんです
だから、喧嘩したとしても平和に分かり合いたいというのが
私のモットーなんですね
喧嘩したまま別れたくないという意識が強くある

でも大人になるにつれて分かってきたのは
やっぱりこれも父や母の言葉がしっかりと自分のなかに
受け継がれているんだということ

私の両親の世代は戦争を経験していますが
でもそれは決して自分たちがやりたくてやっているわけじゃない
行きたくないのに戦場に行くことを強いられて
戦いなんてほんとうにやりたくないと
痛いほど思っていたということが
親との対話を通じて私に伝わっていたのかなと思うんです

戦争に比べれば、今私たちの目の前で起きている諍いなんて
とても小さなことだけど
それは大きくなることもある
だからどんな小さな揉め事でも
避けられるものなら避けたいし
誰も傷つかないようにしたいとずっと思っていました

両親の戦争の話から、自然とそういう価値観が
育ったのかもしれないと感じます

こんなふうに親の言葉は必ず子どもに影響しますから
そう考えると
子どもを持つお母さんやお父さんは
自分の子にどんな言葉を残せばいいのか不安になるかもしれません

子どもに幸せになってほしいからこそ
いろんなことを言いたくなるし
いろんなことをしたくなると思うんです
すごく焦る気持ちにもなるでしょう

でも私自身もそうだったように
親の言葉を理解できるようになるには時間がかかることもありますし
経験を重ねないとわからないこともあります

だから子どもにきちんと伝わっているかどうかなんて
すぐに答えを求めなくてもいいんじゃないかと思います

決して慌てないこと

でも、ブレないこと

とは言っても実際は
子育て中なんてきっとブレブレになりますよね(笑)

だからこそ自分の言葉を今一度振り返るということは大事です
失敗してもいい
そこから学ぶこともあるし
愛が教えてくれることもある

それを受け入れられるようになったら
生きてることを幸せと思えるようになる

親たちもそうやって育っていくんですよ

2021.5.20
下向峰子

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