短編小説「夜明けのファンタジア」 第一章:デイブレイク
眠りに落ちる間際のあなたに、さよならを告げた。
あなたは、私の言葉を聞いていたかしら。
寒さに身を縮ませながら、ベッドで私を抱きしめる腕。
あなたの体温を感じるのに、私の心が虚しさで満たされるようになったのは、いつからだろう。
昨晩、あなたの寝息を耳元で聴きながら、無機質で真っ白な壁を眺めていたら、カーテンの隙間から差し込む街の光が青白い波を描いていた。
それを見ていたら、「ああ、私のいたところは『ここ』なのか」と思った。
静かな白い世界。そこに映る光は私の憧れ。
二人で見たかった世界。
けれど、二人でいても私は一人で、ただ眺めていることしかできない。
朝早く、バイオリンと用意していたスーツケースを手に、彼と暮らした家を出た。
始発の電車に乗って、港の公園まで。
この国を出る最後に、ここからの景色を見たかった。
夕焼けが美しいことで知られる公園だけれど、冬の早朝の海も十分に魅力的だ。
夜明けは遅いけれど、遮るものがない海と空は、私一人のもので、清々としている。
海のすぐ側で、「人魚姫」のブロンズ像が水平線を見て佇んでいた。
叶わぬ恋のためにすべてを犠牲にした人魚姫。
魔法の短剣で王子の心臓を刺して人魚に戻ることよりも、自ら海に身を投げて泡になることを選んだ彼女。
愛に報われないあなたは、何を思っていたんだろう。
「愛してる」なんて言葉が欲しかったの?
それとも、愛する人にただ抱きしめてほしかった?
答えることのできない彼女に、私はぽつり、話しかける。
私の愛した彼は、どこか満たされない苦しさを、文章に込めることで何とか生きているみたいな人だった。
愛なんて興味ないみたいな顔をして、私の弾くバイオリンに耳を傾ける姿は、誰よりも愛を求めているように見えた。
ある日、窓辺の小さなテーブルで、月明かりを頼りに小説を書く彼の姿が愛おしくて、私から彼を抱きしめた。
真っ白な壁に、テーブルと椅子が一脚ずつ、そして二人で眠るには小さなベッド。
彼の部屋にあったのはたったこれだけだったけれど、私は明るい陽の色をしたカーテンを掛け、花を飾り、毎朝、パンとオムレツを焼いた。
私は彼に与えることで、初めて本当の愛を知った。
朝はキスをして起こすと、彼は微笑んで私を抱き寄せる。
私が彼に愛を示すことで、彼も愛を知ってくれたんじゃないかと、幸せな気持ちに満たされた。
一緒に暮らし始めて暫くすると、彼の筆がだんだんと進まなくなった。
私は変わらず、彼のためにパンと卵を焼き、キスをして、彼の背中から体温を確かめる。
「私のこと、愛してる?」と聞くと、彼も「愛しているよ」と答える。
笑顔で言ってくれるのに、いつしか冷え切った言葉に聞こえるようになった。
誰よりも愛を求めるあなたは、私の愛が必要なはずだった。
けれど、あなたの内側の世界は、私を思い切り拒もうとしている。
それでも、離れられない私達は、いくつもの夜を愛を確かめる言葉と行為で越えた。
たとえ中身が虚ろであっても、いつか彼の愛が本物になる日がくるんじゃないかって、私は信じたかった。
けれど……。
先に音を上げたのは、私だった。
目の前に留学の話が出た時、「愛してる」と言いながらお互いの心を傷つけ合う日々を終わりにできると、思わずほっとしている自分がいた。
私の話を黙って聞いていた人魚姫が、「何を贅沢なことを言っているの」と責めている気がした。
「それでも、あなたは本当に彼を愛していたの」とも。
私は、間違いなく「愛」を知ったはずだ。
だから、一時でも幸せな時間があったのだと信じている。
でも、彼はどうだったか、正直わからない。
彼の「愛しているよ」の言葉は、私の「愛してる」の単なるお返しみたいなものだ。
優しい彼に、私が言わせていただけなのかもしれない。
今でも彼のことを愛している。
けれど、彼が求めていたのは、きっと私の愛ではなかった。
私が去ることで、彼が私ではない別の人と、本当の愛を見つけられるように祈ること──。
それが、私にできる最後の「愛」だ。
冬の空に浮かぶ月が消えないうちにと、私は凍えた指先のままバイオリンを弾いた。
彼のために弾く最後の曲は、ドビュシーの『月の光』。
幸せな日も、そうでなかった日も、私達の愛の言葉はいつも月の下で語られた。
月が、私達の証人だった。
やがて、水平線の向こうから、煌々と燃える太陽が昇る。
夜の呪縛から、世界を解き放つ。
あと数時間後には、この海を越えて、あの太陽の向こう側の世界へ。
新しい私の門出だ。
彼とお別れしても泡になれない私は、ただ、バイオリンとスーツケースを持って歩き出す。
海をずっと見つめる人魚姫とも、ここでさよならだ。
私はあなたを憐れむふりをして、本当は、彼に愛されない私自身を憐れんでいた。
でも、今は愛を知ったあなたをかわいそうだとは思わないわ。
愛する人がいる新しい世界を知れたことは、とても幸福だと思うから。
どうか、私たちが見た世界を、彼も知ることができますように──。
(第二章へ続く)
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現在は長編小説執筆のため、noteにまだ掲載していなかったものも投稿しようかと考えています。
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