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遥かかなたのバニラ・ティー(4)

 僕には恋愛感情というものがよくわからなかった。
 僕はたしかに女性を性的に見る。男子高校生としてしかるべきことはしてきた。
 いっぽう、叶多に対しても、好意は感じていた。ケーキを食べながら、生クリームを唇の端につけている叶多を見ると、他に何も必要がない気がした。合唱コンクールの地区予選でのように、叶多に手を握られたり、だきつかれたりしても、温かい気持ちは、僕の中にあった。
 この気持ちは、恋愛感情なのか、友情なのか。「好意」というあいまいな線引きの感情だったのか。
 考え始めると、その「意味」は雲のように拡散していってしまう。「好意とは何なのか」。普通とは何なのか、いつもどおりとは何なのか、そんなことと同じ性質の質問だった。
 でも、意味という大それたものは必要ないのかもしれない。もっと本能的なことが答えなのかもしれない。

 僕はイスから乗り出して、叶多の額にそっと、一瞬だけ、口づけをした。叶多の喜ぶ顔を見て、思わずそうしたくなってしまったのだった。ほんとうにわずかな瞬間だったから、店内の誰も見ていなかったと思う。
 僕はすぐに座り直した。あらためて自分のしたことを反芻してみたが、僕の中には気持ち悪いという感情はなかった。
 叶多は固まっていた。
「男同士なんて、気持ち悪いよ……」
 叶多は唇をとがらせて言った。でも、赤面していた。
 そう言われて、僕は驚いた。そして少し悲しくなった。
 でも、何も言わずに僕らはケーキを食べ、バニラ・ティーを飲んで、一緒に《シオン》をあとにした。

 まもなく高校二年の二学期は終わりを告げた。
 二学期の終業式の日、学校が終わると僕は叶多の部屋にいた。
「守?」
「何?」
「冬休み、二人でどこか行かない?」
「いいけど」
「そしたら、ここに行こう!」と叶多は自分の机に向かった。
 戻ってくると、手にはガイドブックがあった。「北海道」と紫の文字で書いてあり、のどかな牧場の風景が表紙になっていた。一匹の牛はのんびりした目でこちらを見ている。
「北海道?」
「そう、北海道」
「なんで?」
「だって守、バニラ・ティーが好きじゃん」
 そう言って、付箋の貼ってあるページを僕の目の前に開いて見せた。
「近くて見えない」
「あ、ごめん」
 二人でガイドブックを覗き込む。その見開きページには「名店・隠れ名店特集」という見出しがついていた。
「これ、これ」と叶多が指をさしたのは、「サイハテ」という名前の店だった。
 説明書きによると、「メキシコから直輸入しているバニラで作った、こだわりのバニラ・ティーは絶品の一言。小樽市の隠れた名喫茶!」らしい。
「守にぴったりだと思ってさ」
 僕は思わず笑った。
「そこまで遠くに行かなくても。冬の北海道は寒いだろ」
「せっかくガイドブックを買ったのに……」と頬を膨らませる。
 ガイドブックの裏表紙を見てみると、バーコード近くには千円と書いてあった。
 健気なやつだな、と僕は思った。

 でも結局、双方の親も北海道の旅行を許してくれた。
 
「あのガラス、綺麗だね」と叶多は言う。僕はうなずく。
 叶多は棚においてある花びんを指していた。あわく橙がかった、手のひら大の花瓶だった。
 僕と叶多は小樽大正ガラス館にいた。ガラス館といっても、ひとつしかないわけではなくて、工房と店が一体となっているところもあれば、展示しかしていない館もあった。
 いくつかあるガラス館のうち、堺街店というお店のなかにいた。店内はまるで美術館のようだった。肘やかばんが並べられたガラスにあたらないように注意しながら、見回る。赤や橙や黄色や緑、ありとあらゆる色と形のものがあった。
 僕はそこまでガラス館には興味がなかったけれど、ガイドブックには「カップルに人気」と書かれていたので、叶多は絶対に行きたいと言って、僕も連れて来られていた。
「次はどこに行く?」
 堺街店を見飽きた叶多がそう聞いてきてくれたので、僕は「宇宙」というガラス館を提案した。
「宇宙」には星座の描かれたガラスコップや、ガラスを星に見立てたプラネタリウム型の飾りもあった。
「守はどれが好き?」
 叶多はプラネタリウムの惑星を回していた。
「これとか」、僕はコップを手に取ってみた。
 群青に染まったコップ。星は、ほんとうに小さく描かれていた。群青空に浮かぶ星たちはどうも心細く見えた。
「そういうのが好きなんだ」
 真剣にそのコップを吟味している叶多の表情がかわいかった。

 旅館は落ち着きのあるところだった。四十路を迎えたくらいの女の人が部屋に案内してくれた。
「友達とご旅行ですか」僕と叶多を交互に見て聞いてきた。
 叶多は振り向いて、僕のことを見る。いたずらっぽい目だった。でも、悲しげな翳を隠している目でもあった。その目は案内の女の人からは見えなかったと思う。
「そうです」と僕はとりあえずうなずいておいた。
「いいですね」と女の人はにっこりしながら、部屋に案内してくれた。
 部屋に着いて、僕らは夕飯を食べてお風呂に入り、布団を並べて寝ていた。
「もし俺か守が女子だったら、この旅行は絶対できなかったね」
 掛布団から顔の上半分をのぞかせて、叶多は言う。どちらかというと、天井に向かって言ったひとりごとに近かった。
「うん」
「男の人が好きでよかったかも」
 叶多は、「ホモ」という言葉が嫌いだった。「ゲイ」という言葉も嫌いだった。「言葉でくくるのは簡単だけど、そうすると何かが失われてると思うんだよね」、そう言っていた。だから、いつも『男の人が好き』と遠回しに言う。
「俺も」と僕は言った。
 男性を好きになることに、僕は抵抗がなかった。それは今、好きになっている対象が叶多だからなのかもしれないけれど。
「これって普通なんだよね」
「うん」
「好きな人と一緒にいたいと思うことは何もおかしくないよね」
「うん」
「そしたら、みんな普通なのかもね」
「そうだね」
 そうして叶多は何も言わなくなった。布団から身を出して、叶多の顔を見てみると、話し終った叶多は満足げな寝顔をしていた。僕はずっと叶多の寝顔を見ていたかったけれど、僕もいつの間にか自分の布団で寝ていた。

 その翌日――つまり二泊三日の北海道旅行の、実質的な最終日――僕と叶多は例のバニラ・ティーの喫茶店、《サイハテ》に行った。
「バニラ・ティーとチョコレートケーキをひとつ」
「俺もそれでお願いします」
「かしこまりました」
 店員が行ってから、
「いいところだね」
 と叶多は言った。僕はうなずいた。
 テーブルもイスも木でできている。壁も木目模様のデザインだった。
「バニラ・ティーとチョコレートケーキになります」
 ほどなくして僕らはバニラ・ティーとケーキを堪能することができた。
 僕と叶多はひとくちバニラ・ティーを飲んでみた。
「おいしい」
 お茶に詳しくない僕と叶多でさえ、思わず声をそろえて言ってしまった。
 《サイハテ》に行ったあとは海鮮丼を食べたり、またガラス館に行ったりした。そうしているうちに夕方にになったので、僕らは旅館に戻った。一日前と同じように、夕飯を食べ、お風呂に入り、布団にもぐった。
 旅行はあっという間だったね、とか、そんな話をしていた。
「守」
「何」
「今日は一緒に寝よ」
「……いいよ」
 北海道の冬は尋常ではなかった。粉雪は美しいのだけれど、積雪のせいで夜も寒い。暖房をつけていても、寒い。でも叶多が僕の布団に入ってきた途端、布団の中は暖かくなった。
 叶多の顔はすぐそこにあった。遊び疲れてくたびれた顔だ。
「叶多」
「何?」
「いや、別に」
「なんだよー」
「なんでもない。おやすみ」
「おやすみ」
『このまま時間が止まってくれたらいいのに』という言葉の意味を、僕はやっとわかったような気がした。


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