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遥かかなたのバニラ・ティー(2)

 中学一年から高校二年の今までずっと、僕は合唱部にいる。テノールだ。といっても、そこまで大した部活ではない。強豪は部員が百人はくだらないらしいけれど、向丘の合唱部は中高合わせても、三十人弱だ。地区予選の突破もままならない、言ってしまえば、弱小合唱部なのだ。

 ほんとうのところ、僕はあまり面倒くさくない部活に入ろうと思って、合唱部に入ったのだった。どうせ中学・高校のうちは「青春謳歌組」の一員にはなれないだろうと思っていたから。ならば、中学・高校はそこまで面倒なことのなさそうな合唱部でいいだろう、と(向丘では、必ず部活には所属しなければならなかった)。
「田中叶多です。みんなと一緒に合唱を頑張ります。よろしくお願いします!」
 中高一貫校の向丘では、高校からの入学者も受け入れてはいた。そして叶多はいわゆる「高入組」。だから、中学までの合唱部の状況を何も知らなかった。それゆえ、やる気のある叶多は最初、厄介者にしか見えなかった。
 叶多は童顔だし華奢なものだから、見た感じは、か弱い男の子だ。でも、叶多には人一倍の情熱やエネルギーがあった。
「先輩、その音、違います」
「もっと軽やかな方が、ここはあってると思うんですけど……」
「守、もっとピアニッシモを意識した方がいいよ」
 率直に言って、入部してきてから叶多は頑張っていた。僕は僕で中学の頃からテノールのパートリーダーを務めたから、面倒くさいと言いながらも、やる気のある部員だったとは思う。
 けれども、高校合唱部からは、叶多がテノールのパートリーダーになった。どう考えても、叶多が適任だったからだ。

「守、そこの音、違うよ」
 テノール全員で歌を合わせる練習をしていると、叶多は指摘してきた。
「俺はあっているつもりだけれど」
「あってないってば」と叶多は笑っている。「キーボード鳴らすから、守もその音を出して」と叶多は鍵盤を押す。僕はその音を出す。
 ……たしかに、僕は間違えていた。
「ほらね」と無垢な笑顔を見せる。
「……」
 少し馴れ馴れしいな、と僕は高一の頃は思っていた。それに、叶多よりも合唱歴の長い自分が間違いを指摘されるのが恥ずかしかった。
「自分がある音を出しているつもりでも、他の人が聞いている音は違うことがあるんだよね」
 わかるわかる、がんばれ、とかわいらしく僕を励ましてくれる。気に食わないことがあっても、健気に頑張っている叶多のことを邪険に扱えるはずもなかった。

「一緒に帰らない?」
 たまたま僕は叶多と帰るときがあった。高校一年生の五月のことだった。
「ああ……別にいいけど」
 五月病シーズンになると、きまって学校の周辺で不審者の目撃情報が増える。実際、何年か前に切りつけられる事件が発生したこともあったらしかった。 
 通学路の住宅地から出るところで、後ろからスタスタスタ、と急いた足音が聞こえる。
「電車に乗り遅れたくない会社員かな」、冗談めかして叶多は言う。
 さあ、と僕は首をかしげた。僕の頭のなかでは、通り魔だったりするのかな、と面白半分で思っていた。
 叶多がうしろを向いた。僕もうしろを向いた。そして、僕は固まった。
 僕は黒フードの男と目が合っていた。男は大体十メートル離れている。叶多の横顔を覗いてみると、叶多は貫くような視線を男に向けている。再び男を見てみると、街灯の光が手元で反射している。
 僕は察した。反射しているあれは包丁だった。どの家庭にもあるような包丁だ。僕は後ずさろうとする。スニーカーが路面とこすれて音を立てる。小石が靴裏にひっかかる。血のような包丁の鉄の臭いがする気がした。動転して、身体が硬直する。
 男とにらみ合う時間は、三十分にも、一分にも、十秒にも感じられた。
 男はこちらに向かって歩き始める。
 やばい。
 でも僕の足はそのままだ。男に握られた包丁の光が迫りくる。
「守、逃げて」、と離れていく叶多の声が聞こえる。
 でも、僕は動けない。
「守!」
 叶多に怒鳴られて、身体の硬直がとれた。逃げなきゃ――。
 そう思った時には、包丁男は僕から二メートルのところにいた。男は腕を上げる。
 すると、僕の横からすばやい影が包丁男に向かっていった。
 叶多だった。
 男が包丁を振り下ろす前に、叶多は空中の手首を取って引っぱった。
 包丁を持った手は地面に向けられる。叶多は包丁をはたきおとす。からん、と無骨な音が鳴る。そして叶多は男の腕を引くと、男は地面に倒れ込んだ。
 華奢な叶多からは想像できないくらい、力強い動きだった。
「守、逃げよ」
 そう言って僕らは急いで駅に向かった。電車に乗るまで、僕らは走り続けた。通報はどうするべきか、と思っていたが、もうすでに電車の中にいた。
「あの技、何?」と僕は聞いてみた。
「昔、合気道を習ってたんだ。役に立つとは思わなかった」
 叶多は照れくさく笑っていた。
 合唱以外でも、頼りがいがあるじゃん、と僕は思った。
「ケガはない?」、と聞かれたので、大丈夫、とうなずいた。
 それ以降、今まで一人で行っていた《シオン》に、叶多を連れて行くようになった。

*      *      *

「どうして守は、そんなにバニラ・ティーが好きなの?」
 叶多と《シオン》でお茶をしていたときに、聞いてきた。
「観察してるんだな」と苦笑した。
「え、まあ……」と叶多はたじろいだ。「だって前も、前の前もバニラ・ティーを飲んでたし」
 叶多とお茶をするのは三度目だった。
「前、タイ旅行で飲んだんだ」
「へー、タイ旅行ねえ」
「それで、ホテルの近くの喫茶店でたまたま飲んだらうまかったから」

*      *      *

「どうして音程ってずれるんだろうね」
「わからない」
「自分の身体が音を出すのに、自分で音を管理できないなんて変な話だと思わない?」
「たしかに、そうかもしれない」
 最初の相槌が無愛想だったので、もう少し愛想をよくしてみた。
「楽器は外にあるものなのに、きちんとした手順を踏めば、出したい音を出せる」
「そう、そう」と叶多はうなずいている。
「自分で自分を変えることは、すごく難しい。場合によっては、危ない。それを俺らの身体はわかってるのかもしれない」と僕はしめくくった。
 僕はそれっぽいことを言って終わらせたつもりだったが、叶多は前のめりになって、僕が言葉を継ぐのを待っていた。でも、僕が外の通行人を見ていると、叶多はあきらめたように居直った。僕は通行人を観察しながら、叶多をからかえたことに対してニヤニヤしていたことに気づいた。
 《シオン》でとりとめのない話をしながら、一年間は過ぎ去っていった。

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