見出し画像

【悲劇か】戦争と音楽1──序章【娯楽か】

はじめに

「戦争」なる事象を巡り、さて我々は如何に考察すべきであろうや?──仮にそう問われたと規定した上で、斯く事象を如何に客観視し得るかというのは枢要でありかつ、決して生半かには咀嚼し得ぬ「人文学的」それですらある。
 往古におけるそれが「エスニック・クレンジング」をさえ出来し得る歴史的経過(立体的・垂直的史観)をも招来せしむ事象たるやを諒解事項として共有しておきたい。しかしながら時に「娯楽」なる側面をさえ有していたのも覆すに能わぬ真実である。
 例えば本邦においては、室町後期から織豊政権下における時代区分をして「戦国時代」とも呼び習わすが、往時においては、村や町などの聚落が戦闘圏域と想定された場合、圏域住民は家財などを安全圏内へと移動した上で「逃散」行動=抗議へと打って出る。その上で彼らは、謂わば「物見遊山」感覚にて弁当や酒など携行しつつ戦闘行為を「見物」していたのである。蛇足ながら付言するが史学者たる勝俣鎮夫氏らの研究により、戦国時代の「戦闘行為」の大半は、水争い(水利権闘争)や境相論(土地区画を巡る諍い)を契機とする主体的住民=衆庶同士のそれが大半を占めていたと考えられている。いずれにせよ、耕作地等を荒らされる住民からしても、実際の戦闘行為というのは、彼らが主客の別なく、一面にては「祭り」的な要素をすら懐胎していたのは間違いない(また多くの場合、彼らは土地領主層からある程度の賠償を得ていた事実についても、決して見逃してはならない)。
 それは遠くエウロパ世界においても大差ない。戦争=娯楽的側面を有していたのは、例えばユマニスム(ルネサンス)期に描かれし多くの絵画からも明白であるが、しかしそれらは大抵、勝者側領主(盟主)を称賛・顕彰するために制作された場合が殆どではあれ、例外もあろう。絵画ではないが、クレマン・ジャヌカンという、実質的には「一市井」人たる作曲家になる有名なシャンソン「マリニャンの戦い」のそれに実にも明らかである。
 ジャヌカンという作曲家の生涯については、未だ詳らかにはされていないが、おそらくのところ聖職者(主に助任司祭)であったとの見解はほぼ揺らいではいない。高位のそれを希求し大学に学んだらしき形跡も認められる。晩年へと到り、ギーズ公を通じフランス宮廷との伝手を漸く築くも、その死に到るまで名誉職の他はギーズ公フランソワの礼拝堂楽長任命など極く限られていたのも間違いなかろう。何より彼が遺したる作品のほぼ全てが、世俗楽曲たるシャンソンであり、殊に「鳥の歌」によって往時からその名は少なからず膾炙されてはいたのであるが、そんな彼の代表作の一つが先述「マリニャンの戦い」であり、このシャンソンは、所謂一連の「カンブレー同盟戦争」へと終止符を打つ、まさにタイトルにての戦闘において、ヴァロワ朝フランスと都市国家ヴェネツィア連合軍が勝利を得たる歓喜が産物である。彼クレマンを彼たらしめる特徴として「鳥の歌」に顕著たる「オノマトペ=擬音表現」を挙げるべきであるが、それは「マリニャンの戦い」にても如何なく発揮されている。まさしく「娯楽としての戦争」を描く代名詞的作品である(尚、これらのテクストは制約の緩いロンドー形式と看做されるが、リフレインの扱いをも含め実際にはより自由な無脚韻律詩)。
 やがて時代はユマニスムからバロックへと遷移するが、ユマニスムつまりはヒューマニズムが中世の象徴たる存在であったローマ教権(強権)へのプロテスト=アンチテーゼとして勃興したる結果として、斯く端境期には宗教的緊張もより混迷の度合いを深刻たらしめ、個別的問題を抱えていたイングランドを除く、ほぼ大多数のエウロパ諸国・諸邦が巻き込まれし三十年戦争へと突入、この断続的な国際間紛争以降、戦争の齎す災厄、惨状、悲劇が意識され始めるのである(実際のところ、今日におけるドイツ圏域にての死者は各史資料・研究の平均値からして、推定で600〜800万人は下らないと考えられているが、これは往時ドイツ圏域が占めたる人口の、凡そ二割前後に上ると看取するのが今日的理解である)。
 斯く三十年戦争が与えたる影響は広汎に及ぶ。
 直截的に戦争と関わるかの音楽とは無縁たるシュッツの諸作品にも、そんな陰は暗く翳している。例えばシュッツ作品目録338番(SWV338)などは、「War──戦争」に関わる、おそらく彼唯一の作品ではあるが、当作より寧ろ相前後する宗教的作品にその「爪痕」は確かと繋がり辿り得る。シュッツ番号を巡ってはバッハのそれとは聊か異なり、ある程度「篇年的」に辿るも容易きは傍証より明らかなれど、例えばかなり若いSWV番号から「三十年戦争」戦後たるSWV400番台前半に渡る後期作品など、取り分け楽曲終結の「イディオム」において「厭世観」ゆえに惹起されよう消極的解決(終止)を多々認め得る事実から我々は如何に学ぶかを問われているやもしれない。
 いずれそれでも、暫くの間は戦争の「負」を描く音楽作品は現れない。少なくともバロック〜古典派から初期・盛期ロマン派時代は、顕彰的作品(ヘンデルは「王宮の花火の音楽」など)、娯楽面を滲ませる作品(ベートーフェンは「ウェリントンの勝利」など)、実態としてはヤン・フスの焚刑に端を発する15世紀初頭を嚆矢とし、やがて18〜19世紀より次第に勃興せし民族自決を扇動するが如き作品(スメタナが一連の交響詩群「我が祖国」や、チャイコフスキーは「スラヴ行進曲」「1812年」など)が主流であり、やはり相対的に眺めてもスペクタキュラーな娯楽としての横顔は払拭し得ない。
 様相が一変するのは第一次世界大戦からであろう。

 大量殺戮戦としての第一次世界大戦(以降WW Iと表記)というのは、ある意味にて三十年戦争とも似通う側面をさえ有するが、当初は短期戦に終結を見るであろうと楽観視されていたものの、各国の思惑が錯綜をしたる帰結として、まさに三十年戦争同様、否、それ以上の泥沼へと全欧州を突き落とす。しかも近代化と化学・生物学などの諸学問、技術の急進が拍車を駆けて挙句、である。最早人々は、それに娯楽を見出す術さえ失ったと捉えて如くはなかろう。
 とは雖も、例えばWW I最中に描かれし様々なジャンルになる音楽作品のうち、戦意昂揚・鼓舞激励を意図せる作品はかなりの数に及ぶ。一方で反戦歌(一例を挙げるなら、アメリカにおけるヒットナンバーたる「I Didn't Raise My Boy to Be a Soldier ── 私は我が息子を兵士には育てなかった」など。しかし同曲を巡っては、戦局の膠着と17年のアメリカ参戦、就中、セオドア・ルーズヴェルトによる辛辣な非難や保守層の反撥をも招き反・反戦歌たる皮肉を込めたパロディを多数生ましめる)は未だ多くはなかった。寧ろ、実験的音楽で有名を馳せるアイヴズなどは、アメリカ参戦以降、実に大量の愛国歌をものしている。間違いなくそれは、当時においては掛け値なしで「正義」と看做されていた「民族自決」の欺瞞たるやが微塵も露わにはされてはいない「牧歌的であり青春的な時代」ゆえに赦されし現象であったやもしれぬ(付言するなら、エルガーも相当数の戦意昂揚・鼓舞激励、あるいは戦時チャリティのための作品を作曲している)。
 そんな渦中において、中立国たるデンマークが代表的作曲家たるカール・ニルセンの交響曲第四番(所謂「消し難きもの」あるいは「不滅」)は、クラシカルなジャンルにおける「戦争」なる事象を決して「肯定的に描かなかった」嚆矢と呼んで強ち過ちとはし得ぬおそらく最初の「メッセージ性」を託す楽曲ではなかろうか。戦間期に描かれし後続する第五番についても、ある種の表象を以てWW Iの無意味を叙述しているように筆者の耳には届く。また極めて偶然なる産物ではあれ、グスターヴ・ホルストの「火星──戦争が齎すもの」がまさにWW I勃発前後にものされたのは、ある意味にて「予言的」ですらある。しかしながらこの総動員戦、大量殺戮戦としてのWW Iなる戦争が帰結として、これまでにはない種類の音楽作品が世に送り出されたのも確かな事実である。例えば戦傷者の「表現手段」たるラヴェルは「左手のためのピアノ協奏曲」かつ、経済的混乱を象徴すべきストラヴィンスキーは「兵士の物語」などなど⋯⋯。
 そして我々は、近未来的「破滅」の序曲たる第二次世界大戦(以降WW IIと表記)からこの方、極限られたる表現手段(例えば米ドラマたる「コンバット」シリーズなど)の他に、戦争=娯楽手段たるやを錚々見出せずに今日を迎える。さりながら、ポストWW II以降を巡ってもある種の「仮託的娯楽」としての戦争をも享受してはいる。制作物としての「スター・ウォーズ」シリーズの当初的意図がそうであり、現実としての「イラク侵攻」に「非日常的傍観者=見物者」としての我々自身を知るべきやもしれぬ。
 いずれにせよ局地的戦闘行為は、未だ已む気配すらない。なれど、来るべき世界大戦が勃発するとなれば、それは確実に「人類滅亡」へと繋がるであろう。しかしながら広島、長崎の再現は確率として低い可能性を指摘し得るやもしれない。イディオムとしてのそれは、成層圏など高層大気圏における核分裂作用=対象圏域内の地海空あらゆるインフラストラクチュアの、強力な電磁パルス(EMP)発生が引き起こす即時停止による無効化無力化であり、今日的社会における最も効果的手段かつ直接戦死者を最小限にとどめるという意味で寧ろ「悪魔的」ですらある(High Altitude Nuclear Explosion=略称HANE)。所謂「金氏朝鮮=北朝鮮」が試みるロケット発射事案にて、航続距離とほぼ同等に、否、それ以上に飛翔高度が重視される所以である。
 いずれ斯くなる今日──。
 改めて芸術的表現手段としての「音楽」と「戦争」を巡り思惟するのは、極めて要を得たる行為であろう。とまれ「詩的時代の音楽」「散文的時代の音楽」の二部構成にて、適う限り「その連関性」を諸作品と並立しつ主として「十字軍戦争」以降の「戦争と音楽」を取り巻く諸相について考察したい。


【クレマン・ジャヌカン(c1485〜1558)】

ドミニク・ヴィス&クレマン・ジャヌカン・アンサンブル

クレマン・ジャヌカン・アンサンブル「鳥の歌」シャンソン集(ハルモニア・ムンディ)
ジョルディ・サバール「マリニャンの戦い──ジャヌカン:シャンソン集」


 おそらくのところ、嘗てはイングランドとの緩衝地帯であったアキテーヌは北の外れたるシャテルローにて生まれ育まれたであろうと推測される彼クレマンは、同地の教会にて聖歌隊に加えられ、音楽とキリスト教に接し感化される。今日に遺されたる記録を繙くなれば、1505年には後のリュソン司教たるランスロー・デュ・フォーに仕えつ聖職者を志す彼の名を我々は確認し得る。どうやら彼はそのままデュ・フォーの許にあり、彼の歿年(1523 or 1529両説あり)まではボルドーにて聖職者の一人であったのはほぼ確実とみてよかろう。その後は先述の通り、助任司祭として諸所にて活動していたのも推測ではあれほぼ間違いなかろう。
 聖職者たる彼の名が再び記録と邂逅するのは1534年であり、それによればフランス北西部はアンジェ大聖堂聖歌隊にて指導に当たるというそれである。しかしながらその間、往時パリにて名うての楽譜出版者ピエール・アテニャンにより、今回取り上げる「マリニャンの戦い」「鳥の歌」を含む最初のシャンソン集が1528年に刊行されている。その後も彼クレマンとアテニャンとの関係は続く。加えておそらく37年には、ニコラ・ゴンベールが編曲せし「鳥の歌」がエウロパ各所にて評判を上げ、世俗楽曲(シャンソン)の書き手たる彼クレマンはより認知されるに到る。なれど聖職者たる彼の不遇は、悩みの種が如く続く。
 借金問題に端を発する親族との係争もあってか、俸給を与えられていたであろうアンジェにてのポストをさえ失い、以降の彼の足取りは再び謎へと包まれるが、その流浪期にはパリへと辿り着いたらしく、聖職者たるポストを確実にと考えてか、パリ大学に在籍をしていたらしき傍証も認め得る。なれどそれもおそらく経済的問題もあり維持すら適わなかったのか──48年前後にはパリに定住しつつ、おそらく交友関係にありし詩人のピエール・ロンサールらが保証の許にまたもや助任司祭となったようである。尤も、このパリ定住が彼に幸いしたのは間違いない。彼はその後、やはり交友のあった詩人マロなどのパトロンであったロレーヌ枢機卿シャルルの知遇を得て、シャルルの実兄であり共にヴァロワ朝フランス宮廷を牛耳るギーズ公フランソワの庇護の許、フランソワが礼拝堂楽長へと就任するに到る。おそらくこれが彼の「実態ある」ポストとしては唯一の顕職でありかつ、絶頂であったと看て如くはなかろう。
 以降の彼クレマンは、ギーズ公フランソワの周旋もあり、ヴァロワ朝国王アンリニ世(ミシェル・ド・トートラダムの例の予言にて有名な王)より55年に王室聖歌隊常任歌手へと取り立てられるが、既に齢七十前後たる彼クレマンへの、それは名誉職的「叙任」に過ぎない。58年には「国王付作曲家」なる称号を与えられているが、あるいはこれは、彼クレマンへの「死後追贈」の可能性も否めなかろう。
 いずれ彼は、結果として晩年になるギーズ公時代に、自らの旋律になる「パロディ・ミサ」などやっと宗教曲へと手を染めるのでるが、斯様に眺めればやはり、彼が世俗音楽の妙手であり一「市井人」として華開いたのは確たる歴史が結果である。


【カール・ニルセン:交響曲第四番「消し難きもの」】

ヘルベルト・フォン・カラヤン&ベルリナー・フィルハーモニカー

カール・ニルセン:交響曲第四番 ヘルベルト・フォン・カラヤン&ベルリン・フィル


 以前「カラヤンは一顧だにせぬ」と嘯くも、実際のところ彼の音源を契機にのめり込む楽曲数多にして、そう思うだに感謝の念をすら憶えるのであるが、デンマークが生みたる大作曲家ニルセンを初めて体感させてくれたのも結局のところカラヤンであった。寧ろ、カラヤンが振る所謂「不滅」を仮に聴かぬなれば、例えば「戦争と音楽」を思惟する今もなかったやもしれぬ。
 ニルセンが同曲をスケッチし始めたのは、まさにWW I 勃発したる1914年であるが、この作品にて彼カールは、従来的「和声」の轍より外れる。それが結果論として、WW Iによる「価値観の変転」故か否かは措いて、少なくともより「オリジナリテ」に富むテクスチュア・イディオムを獲得したのは確実ではある。否、後続「第五番」のそれをも念頭に置くなれば、やはり従来的価値観の崩壊が、作曲家たるカールに「新たな地平」を齎したと看取してよかろう。
 尚、当作は一楽章構成になるが、それでも従来的「四楽章」構成になる交響曲的「雛型」に準え得る構造を有する。

 カール・アウゴスト・ニルセン自身が懐胎する、この交響曲第四番という作品の「非標題音楽」的それなる事実は、彼の文章的叙述からも、最早明白であろう。つまり──
「これはプログラム(標題)として捉えられかねないが、寧ろ極北である。交響曲の素材や構造的推移が、謂わば土木工学における閘門や堤防のように、その設計者=作曲家の熟考の結果であるにせよ、一定の思想的表現を伴うものでは決してない。結局のところ鶏鳴や啼声、咆哮、あるいは自然における人類の原初的感情の表出に過ぎぬ。この交響曲(第四番)は、そうした根源的情動を形容したのみであり、生涯つまり人であれば『人生』を擬えているだけである。寧ろ、斯様な表現手段こそ人生とも言えよう。かつ人生とは不屈であり「消し難き」ものである。それらを巡る闘争・競闘は過去から今日、未来へと続くにせよ、それこそが本来的特質であり、重ねて付言するなら、人生=音楽であり、消し難きものたる所以である」(彼の自伝より。筆者訳出)
 斯様に彼カールの回顧を捕捉するなれば、この第四番における「標題」そのものが、極めて抽象的概念である事実さえ炙り出されよう。そう思惟すれば猶のこと、所謂「不滅」という本邦訳になる「標題」は本質を見失わせる懸念すら胚胎しよう。実際のところ、扉に付されたる副題はデンマーク語にては「Det Uudslukkelige」であり、英訳は「The Inextinguishable」であって、精々のところ「消し難きもの」という抽象的概念であるは留意すべきであろう。かつ、この交響曲が実質的には従来的「四楽章」たる交響曲としての構造・構成になれど、飽くまで単一楽章になるそれとして、我々は理解・咀嚼すべきであるは確かである。
 しかしながら、純粋にアナリーゼを施すなれば、結果的にソナタ形式になる第一部、歌謡形式になるスケルツォ的第二部、悲劇的たる緩徐楽章としての第三部、ほぼソナタ形式に準拠したる三部形式としての第四部なる構成にて設計されているのも否めない。それでもやはり、一定のモットーよりなる単一楽章交響曲として、我々はこの作品と対峙すべきである。
 それらモットーたるライトモティーフ的なる動機は、実質的に第一楽章と看做される第一部は第一主題群、及び「戦時的心理」がおそらく投射されし下降する第二主題に集約される。と同時に、第四部で主役の座を占めるティンパニが、実のところ第一部から「孤立的」なリズムパターンを繰り返し、あるいは逆にリズムパターンを規定する役割を与えられているのは象徴的やもしれぬ。
 とまれ自伝における述懐から推しても猶、やはりこの交響曲第四番に翳す「WW I」の影を払拭する能わずであろうは確実である。殊に大団円──例の下降する「戦時的心理」を投影する第一部第二主題要素にて見せかけたる「華々しさ」で閉じるは、恰も三十年戦争時のシュッツをさえ彷彿させる。

(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?