境界線
コンビニから出る。夏の日差しは暑くて明るくてとても暑く。サスペンス映画みたいな陰鬱な曇り空じゃないと気持ちが晴れない。ネットで見かけたその言葉を思い出し、一人頷く。猫が駐車場の日陰で寝転んでいて、アナコンダのように伸びやかにぐんにゃりしていた。
日向と日陰の境界線にいた彼女のことは見知っていて、でもわたしは忘れていた。彼女はすぐに気づいたらしい。少しためらいがちに近づいてきて、立ち止まると、その冷たい手をわたしの肩に添えて、踵を浮かした。理由は知らない。彼女の唇も冷たい。防腐剤のレモン香が鼻をくすぐり、くしゃみが出そうになった。変な顔をしたのか、彼女はすぐに薄れて消えそうな、熱量のない笑みを浮かべた。
「大丈夫、噛まないと感染しないよ。……それとも噛んだほうがいいですか?」
彼女はすとんと、ダンスの途中みたくバックステップする。お互いがそっぽを向くのが自然な間のあと、ダンスを誘うみたく再び近づいてくる。彼女の手が、今度はわたしの腕に触れる。冷たい手。死体の手。指に提げたレジ袋を落とさないよう、私は脊髄反射みたいに指先をクッと曲げる。
彼女の手と自分の腕の温度差に、気持ちがしゃらりと溶け、するするとまたやわらかな氷が張っていく。シャーベットを食べているようで心地よかった。という表現は日本語が不自由だろうか。顔が近づく。着ている制服が冬服なのは、日差しの熱から肌を守っているのだろう。彼女がわたしの顔を観察するように覗き込んでいる。わたしは促されるように、「手が冷たくて気持ちいいね」と言った。
わたしの腕にはうっすらと汗がにじんでいた。駐車場の猫は白黒のシャチ模様だった。地面が冷たくて気持ちいいのだろう。車が入ってきてすぐそばを車が通っていったけれど、猫は車のタイヤが通り過ぎてから、やる気なくしっぽをぱたんとした。
「死体だから」
わたしの腕を触る彼女の手に、クッと微かな力が入った。熱量のない笑みに微かな熱量を待たせて、彼女は「死体ですから」と言い直した。
冷えた死体は気持ちよかった。彼女が死体になったのはいつだったか。つい最近のような気もするし、ずっとずうっと昔のことだったような気もする。踵を浮かして、彼女がまた少し顔を近くする。わたしのほうが頭半分くらい背が高い。どこを見ていいのかわからず、わたしは彼女の唇に目を落とした。
やがて彼女はうっすらと口を開け、「噛む?」と唇の形で言った。「噛んでいいですか?」と掠れた声で言い直した。それからすっと、わたしの首筋に冷たい唇と鼻の先をくっつける。首筋を噛むのは死体じゃなくて、吸血鬼のような気がする。そのことは言わない。いいよ、と言いたいと思う。
「痛い?」
「……少し、ちくりとすると思う」
「注射、苦手」
「そう。……注射が怖くなくなったらまた聞きます」
怖いなんて言っていない。
彼女はわたしから離れ、シャチ模様でアナコンダのような猫のほうに歩いていった。猫は彼女に気づいてしっぽをぱたんとする。すぐそばに彼女がしゃがみ込んでも、猫はアナコンダのままで、日陰のアスファルトの冷たさを身体に移していた。冷たい指先が猫の首筋をくすぐる。冷たそうで気持ちよさそうで羨ましかった。
「猫に噛まれたら、猫になるかな」
彼女がぽそりと言った。
「猫の手で、こう手首曲げて、にゃあって言ったらなれるよ」
わたしが実践するのを、彼女は横目で見やる。冷たい目。
「……そんな大怪我しそうなのはいやです」
ひどいにゃあ。
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