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じいじの祝辞

「あつしさんはおりますか?」

家に訪ねてくる人、家に電話をかけてくる人のほとんどが、うちのじいじと話したがった。

私がじいじと出かけたら、必ずと言っていいほどじいじの知り合いとばったり出くわす。出くわした相手と、スーパーだろうが道路だろうが、どこでもどうもどうもと恐縮そうに挨拶する。

そんなじいじは、私がもっとも尊敬する人である。

町内で名の知れたじいじ

じいじはちいさな町の議員さんとして40代で立候補し、(私の覚えている限り、)3期は勤めた。

途中、地元の農協のそこそこのおえらいさんになったり、土地整備の事務局に勤務したりと、人の上にたち、人を育て、町のために尽力してきた。

じいじを頼って、町内の人たちが家に来たり、電話を掛けてきたりした。毎年たくさんのお中元やお歳暮が送られてきて、じいじはお礼の電話に追われていた。お正月になれば、ものすごい束の年賀状を出さなければならなかった。

かっこつけたがりのじいじ

じいじは戦争で亡くなったお兄さんの代わりに家を継いだ。議員に立候補し、当選するまでは、自身が感じていた高卒というコンプレックスを抱えながら、たくさん努力して地元の建設会社の専務にまでのぼり詰めた。

仕事は会社員だけではない。兼業農家としてお米を作っており、仕事前の薄暗い早朝から水田の様子を見に行ったり、草刈りをしたりしていた。だいたい私が家で見るじいじは、いつも汗にまみれて黄ばんだ作業着姿だった。

そんなじいじも町議会議員になってから更に忙しくなった。農作業の合間に調べものをしたりして勉強していたし、町の議会がある時でも作物は容赦なく成長したりしなかったりするので、時間が許す限り、ぎりっぎりまで農作業をしていた。

当時だけかもしれないが、議会の時はハイヤーが家まで迎えに来た。それまでに支度しなければならないので、じいじは急いで田んぼから戻ってきて、お風呂に入って汗を流し、スーツに着替えて身なりをシャンと整える。

スーツに着替え終わるか終わらない頃に、迎えのハイヤーがきて家のインターホンを鳴らす。

さっきまでばたばたと支度していたのに、外の人前に出るとなんかすまして出てくるので、幼心に「カッコつけてるなあ」と思った。

努力をみせない努力家のじいじ

入学式や卒業式シーズンになると、町のおえらいさんが学校に来て祝辞を述べる。

私が通っていた小学校と中学校の祝辞は、町議会議員であるじいじの担当だった。とにかく入学卒業式シーズンのじいじは大忙しだった。

辞書を片手に汗まみれの農作業着姿で机にむかい、紙に何かを書いている。いつものように調べ物でもしているのかと思ったら、数日後にはぶつくさと独り言を言い始める。祝辞の内容を考え、その原稿の内容を暗記しようとひたすら復唱していたのだ。

お風呂でもトイレでも、ひとりの時はとにかくブツブツと練習するじいじ。最初は率直に見ていて変な人だと思ったが、一生懸命頑張っているということが、小さかった私にも伝わってきた。

式当日、体育館内に綺麗に並べられた椅子に、全校生徒や入学生・卒業生の親が座って開会の言葉からスタート。いくつかプログラムを終えて、いよいよ来賓の祝辞がはじまる。

来賓のほとんどは、折りたたまれた白い紙を持って、定形文を並べたような文章を淡々と読み上げていく。白い紙は祝辞のカンニングペーパーだ。一人5,6分くらいかかる祝辞を、私たち学生は硬い木の椅子に座って聞く。だんだんお尻が痛くなって、まだかまだかと体育館の時計を見る頻度が増えていく。当時未成年の私らにとって、それは耐久レースだった。

何人か祝辞が終わって、じいじの番になった。ステージに昇るための小さい階段を上がって、ステージ中央のマイク前まで行き、じいじの祝辞が始まる。手元には白い紙がなかった。じいじはステージ上から私たち一人ひとりの顔を見ながら、気持ちを込めて話しだした。

じいじは小学生でも分かるような言葉で、私らに向けてしっかり話していった。分かるような言葉といっても、小学生・中学生だからといって変に幼稚な言葉は使わない。丁寧な言葉で相手への敬意とエールが込められたじいじの祝辞は、もう他の誰よりも良かった。

身内だったというのもあるが、おそらく卒業生入学生よりも私はじいじの祝辞を楽しみにしていたと思う。

これまで先輩たちの卒業式、後輩の入学式でじいじの祝辞を見てきた私にとって、じいじの祝辞が楽しみで仕方がなかった。

「自分の卒業式ではどんな祝辞になるんだろう。」

当時は無邪気に、「卒業式でどんな祝辞するのー?」なんて聞いたりもしたが、今思えば野暮な質問だったと思う。照れたのか答えてくれなかったし、練習している様子も、その時はあまり見かけなかった。

私がじいじを尊敬するわけ

「いつか私の結婚式でも、じいじに祝辞をおねがいしたいなあ」なんて思うのは、自然なことだった。

こじらせ女子だった私も奇跡的に結婚することができ、早速じいじにお祝いの言葉をお願いした。幸いにも、夫もじいじも馬が合い、お互い仲良しになった。それもあって、夫もじいじのお祝いの言葉に関しては乗り気だった。

が、じいじは頑なに嫌がった。

あんなに人前で出ることに抵抗のない人が何故?と思い、しつこく理由を聞いてみたら、「うちは嫁に行く側なんだから、旦那さんの家をたてなければならない」とのことだった。

私は母子家庭の家で育った一人っ子である。父親代わりとして、小さい頃からじいじも私の面倒を見てかわいがってくれた。

じいじとしては、私にお婿さんをとってもらって、それで自分が父親役としてお祝いの言葉を述べたかっただろう。(今はいろんなかたちの結婚があるので、そういう考えは古いと感じたりする方もいるだろうが、)その時私は初めて、自分の家を出て夫の家に嫁いでいくということの意味を理解した。

同時に、決して自分の経験や立場だけで主張せず、相手をどこまでも思いやり、尊重する姿に頭が上がらなかった。じいじの周りに人が集まる理由が分かった気がした。

そんなじいじは、今70を過ぎて今も元気に農作業をがんばっている。じいじには長生きしてほしい。多分、そう思っているのは私だけではないと思う。

今年は世の中の状況もあって、私ら夫婦は地元に帰省することを諦めた。夫も私もじいじに会いたいと思っている。次帰るときにはじいじのすきな甘味を買っていこうと思う。

尊敬するじいじを祝して、ハッピー敬老の日!!

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