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優しくはありたいけど、利用されないようにする


私は親やおばあちゃんから、人に優しくすることをまず学んだと思います。

友達とか、困っていたら相談を聞いてあげたり、力になる。それには見返りを求めないんだよと学んでいました。

でもそれが私は行きすぎると、大人の今になっては「利用される」という可能性に気づきました。
むしろこれまで気づかずとも自分の善意が利用されていたことは多くあったかもしれません。

私は、高校から付き合いのある友達がいて、その子に就活の相談をされていました。
その子は、いつも、「どうしよう、私無理だ〜」「このままじゃ内定とれない〜」と私に連絡してきて、突然電話をかけてきて2時間くらい相談に乗ることもありました。

私がESを添削してあげたりすることもあって、もはや私の文章になってるなあと思ったりすることもありました。
よくないとは思ったけど、友達だから力になりたいと思って手伝っていました。

でも、今考えると、その子は自分で考えることもせずに自分のことを私に任せることで面倒なことから逃げるために私を利用していたのかなと思いました。

たとえば炊き出しのボランティアをするとか、見返りを求めずに困ってる人の力になるのは良いことだと思います。

でも、同じ困っている人の力になるということだとしても、今回のことは、「利用された」と思ってしまいました。

その点の違いって、困っている人が自分でどうにかできるかできないかというところにあるのかなと思います。または、今回のようにある程度自分でできる場合に協力するならば対価(take)があるかというところです。

私は自分がその子に同じようにES添削をお願いしたりしたことがなかったので、自分のtakeできる部分がなく、「利用された」と感じてしまいました。
前にはSPIの受験を頼まれたこともあって、さすがに違法なのでそれは断りました。

結局、友達とはいえ、やはり私も誰にでも無償で何かを提供するほどの余裕は持っていませんし、それをしていたら、利用されてしまうことが当たり前になり、自分が自分のために生きられないと思いました。

今思うと、友達だからこそその子に「自分で考えなよ」というべきだったと思います。

とくに、就活であればみんな自分の力でやっているものだと思います。

私がもしその子の志望する企業に入っているOBならばまた違いますが、私も同じ就活生であるのに、なぜ自分の時間を削ってまで手伝っているんだ、とハッとしました。

困っている人には手を差し伸べる人間でありたいけど、都合よく利用される人間にはならない、とそう決めた出来事でした。

その友達とは、距離を置こうと思います。

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