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なんで勉強しなきゃいけないの?

「小学生の姪っ子に、何で勉強しなきゃいけないの?って聞かれて、なんて答えたらいいのか分からなかった」
勤めていた頃、お世話になっていた方がそう話していたことがありました。当時は「思春期になると大変ですね」くらいの返答しかできませんでしたが、今2児の母になり、思うところがあるので、私なりの考えをまとめてみました。

同じように迷ったり悩んだりしている親御さんの思考のヒントになればと思っています。前半は私の経歴、後半は勉強の必要性と人生観についてまとめていますので、興味が無い部分は飛ばして読んでください。

私はこれまで、いかに労力をかけず、最短距離で一定の成果を出して、楽に生きていくかを考えてきました。将来これになりたいなという漠然とした夢や憧れはあったものの、そのために支払う犠牲(主に生活の安定)を考慮した結果、夢を叶える努力はせず、できる限り高い学歴を求め就学し、安定した収入を求めて就職しました。就職先は興味のある分野ではありましたが、好きな仕事をしていたわけではありません。

結婚と同時に専業主婦になりました。二十代半ばでしたが、それまで洗濯や掃除は必要最低限、自炊は放棄していたので、料理に関しては包丁をほぼ握ったことがない状態からのスタートでした。そこで、この機会に生活スキルを磨こうと考えました。半年ほど試行錯誤(生活費の目標予算を決め、その中で家事の手間を最小限に抑えられる日用品と家電を選出し、家事に費やす手数や時間を最適化)した後は、あまりにも暇になったので、それまで我慢していた何かをやってみようという気持ちになり、思いつくことをポンポンとやってみました。バンド活動をしたり(ボーカルでした)、専用ソフトを買って作曲したり、絵を描いたり(エッシャーが好き)、詩を書いたり(谷川俊太郎が好き)、スイーツ1人旅をして、検索でお世話になっていた食べログに投稿も始めました。

その活動の中で偶然、ドモーリというブランドのチョコレートを知り、私の人生は大きく変わります。一般には馴染みのないブランドだと思うので簡単に解説すると、単一産地、単一品種のカカオと砂糖のみで板チョコレートを製造しているブランドです。市販のものとはかなり違った香りがする、摩訶不思議な食べ物です。

その食べものに衝撃を受けた私は、今までやっていた趣味はすべて中断。そのチョコレートのために、自分の生活スタイルを激変させました。
まずは月3000円程度を目安に、入手できる限りの市販の板チョコ、製菓用クーベルチュール、洋菓子店や専門店のチョコを食べ比べ、味や香り、油脂量や砂糖量の違いを脳にインプットし始めました。その生活を約1年続けた後は、年10万と予算を決め、自分がこれぞと思ったチョコを選別購入し、そのブランドについても調べるようになりました。
朝早く深夜近くに帰ってくる夫を送り出すと、昼までチョコのテイスティングと考察。昼過ぎから取り寄せたドモーリの書籍(英語版)を翻訳。夜は食べたチョコの感想をまとめたり、今後購入する商品の選定をしたり、ドモーリの素晴らしさを知ってもらうために、どのようなアクションをするべきかを考えていました。
書籍翻訳が一段落すると、チョコの味や香り以外にも、興味が湧いてきました。原料であるカカオのこと、多様な品種や、それを育む環境と国の政治事情。カカオの香りを引き出す発酵や焙煎のこと、チョコが固まる温度やなめらかな舌触りにするための技術。カカオからチョコが発明されるまでの歴史、大量生産によって生じた品種や民族の衰退。Bean to barというムーブメントやクラフト製品が生き残るための市場戦略など。チョコを食べて、店を巡り、本やネットで情報を集めながら、自分なりに考察していました。

今思えば、なぜそんな奇怪な行動を始めたのか不明ですが(その行動が奇怪であること自体、Twitterを始めてからようやく気が付いたくらいですが...)とにかく楽しいから、としか言いようがありません。ドモーリのチョコレートに出会い、それまで適当に積んで散らかって放置されていた知識が、自分の五感と繋がった時に、まさに世界に色がついたような感覚になったのです。
「世界に色がついた」という表現は、誰かを好きになった時によく使われますが、こういうことだったのか...とドモーリにのめりこんで、ようやく理解できました。好きなことに没頭する、という体験を通して、私の価値観は大きく変化したのです。

好きなことを続けていると、その中でも自分が特に好きなことが見つかって、それを理解するためには、あらゆる分野の知識が必要だと分かります。自分が得た情報を発信していると、素敵な出会いがあるし、つまづいたときのヒントも得られるし、今の自分に足りないものも分かる、苦しい時の心の癒しにもなります。人生は学びの連続だから、知らないことを恥ずかしがる必要はまったくないし、無知を晒しながら挑戦し続けようというメンタルの強さも身につきました。
大切なのは知識を得ることではなく、活用すること。なぜその結論に至ったのか、どうやって証明したのか、そもそもどうしてそんな疑問を持ったのか。そこに潜む人間の喜びや苦悩を知ることこそ、真の意味での学びなのではないかと感じるようになりました。

母になった今、その経験は子育てにも生かせると確信しています。自分が育てる上で意識していることは下記3点です。

・好きなものを見つけるために、学校以外のリアル(可能であればプロフェッショナルの世界)にどんどん触れる機会を作る。
・気になったことを突き詰めるために、必要なコストはしっかりと払って使い倒す(道具でも、専門書でも、食べ物でも。)
親自身が好きなものを語り、どんな活動をしているのか、しっかり公開する(たとえそれが打ち明けにくいことでも、本当に好きでやっていることなら、心に響くと信じています。)

アンスクーリングの概念を取り入れながら、五感を鍛え、自ら学ぶ姿勢を見せる。言葉だけ見ると難しそうですが、たくさんの知識やお金は必要ありません。
例えば、GABANのハーブをいくつか買って、好きに匂いを嗅ぎ、一緒に食べてみる。ホームセンターでいろいろな材質の商品を買って、触ってみる。それらの用途を考えたり、叩いて出る音が違うことを実感する。色見本を買って好きな色を指差しあったり、トリックアートを見てどんな仕組みなのか意見を出し合う。そんなやりとりを通して、気持ちの伝え方、言葉のバリエーションを増やしていく。
最初は廉価品で、子供が興味を持ったものだけ、少しずつグレードを上げて、縦と横の認知を広げる。親の財力の範囲内で、心が折れない程度に見守っておけば良いと思っています。目に見えるアウトプットはできる限り強要せず、自然に任せます。
正解を教える必要なんてない。適当にきっかけを並べておけば、子供達は自分に必要なものを選び取ることができるはずです。ハーブを知ることで香りに興味を持つ人もいるし、料理や園芸を始める人もいるでしょう。材質の違いから理科系の科目に興味を持つ人もいれば、好きな材質で芸術作品を作る人もいるのです。その過程で、欲しい情報を得るための能力も伸びるでしょう。

私は、幼少時は漫画雑誌を、中学卒業まではゲームソフトを、定期的に買ってもらえました。ゲームが好きになったのは他ならぬ母が楽しそうにやっている後姿をずっと見てきたからです。自分で買うソフトを選べるようになってからは、お年玉を全額それに注ぎ込んでいました(ガラケーすらなかった時代なので、アプリをダウンロードして好き勝手楽しむことはできず、専門店に連れて行ってもらいその場で時間をかけて物色し、欲しいものを自己申告していました。)
休日に1日中熱中していることもありましたが、途中でやめろと言われたことはありませんし、その趣味を否定されることもありませんでした。むしろ、それらの内容を隅々まで把握し、口頭で報告していたので、母に「天才」と連発されていました(完全に親バカです)。人間は、どんなものからでも学ぶことができるし、そこに込められた思いを受け取ることができます。
親や教師が答えを教えるという発想自体に、危うさがあると私は考えています。そもそも教える側が世界のことをどれだけ知っているのでしょうか。特定分野において多量の知識を有している人は星の数ほどいますが、全知全能の人間はこの世には存在しません。正解は時代ごとに変わる。分からないことは共に学べばいい。そもそも子供がどう生きるかなんて、親が決めることでは無いのです。そこに気が付くだけで、子供への接し方はかなり変わると思います。

ちなみに私は、どうして勉強するのか、考えたことはありません。高校まで住んでいた田舎での生活はとにかく暇でしたし、遊園地も美術館も水族館も動物園も、修学旅行以外では行ったことがありませんでした。外食の記憶もファミレスだけ。外出といえば、近くの大型ショッピングセンターによく連れて行かれたな、くらい。死ぬほど好きだと思える友達も恋人もいなくて、与えられた課題をゲーム感覚で遂行し、評価されることに喜びを感じていた、ただそれだけです。

けれど、周囲には悩んでいる子がたくさんいました。多感な時期、自分がどう生きるべきか、迷っていたのかもしれません。理想と現実の狭間で苦しんでいたのかもしれません。もしくは、ただ勉強が面倒臭かったのでしょう。勉強をしたいと思える動機がなければ、やりたいと思えなくて当然です。
自分が何を知りたいか分からないから、どうしたらよいのか分からないし、熱中できない。大人だってそうですよね。

好きな趣味1つ、何年もやり続けることで、学校の教科書を暗記するよりも、ずっと勉強になりました。なぜ心が惹き付けられるのか、なぜ売れているのか、どんな技術が使われているのか、どんな歴史があるのか。知識は五感と繋がってこそ、意味を成し、腑に落ちるものです。
本当に自分が知りたいことを知ろうとする過程で、国語も算数も社会も理科も必要になります。好きなことを深く知るためには、読み書きや論理的思考を身につけていないと先に進めない時が来るので、次のステップに進むハードルを下げるためにも基礎となる教科はやっておくに越したことはないのです。何かに夢中になっても現代日本語の資料が見つからず、何語かも分からない専門書と格闘する羽目になる可能性もあります。
学校の雰囲気が嫌なら、行く必要なんてありません。学校をどう克服するかより、どうしたら稼いで生活できるようになるかを考える方が合理的です。お金があれば大抵の問題にカタがつきます。

ただ私は、好きなことだけやり続けろ、とは微塵も思いません。なぜかというと、才能に溢れているからといって、すぐ自立できるような収入を得られるとは限らないからです。これはむしろ、漠然と夢を描く前より、趣味が少し収入に結びつくことが判明した後で、より強く体感しました。
例えば、どれだけ好きなシェフや歌手や作家がいたとしても、自分一人の財力で、その人の生活すべてを支えることは不可能です。貴族でもない限り。お金を支払うという行為は、とても覚悟と愛が必要なことなのです。
私は、安定した収入を得ていた時期があったからこそ、その後趣味に没頭した時に心置きなくお金を使えましたし、自由気ままに旅行もできて、物の見え方が多少変わり、心にゆとりが持てるようになりました。自然って美しい!歴史的建造物凄い!博物館や美術館面白い!と感じるようになったのもその頃です。都会のような刺激もない、緑豊かでもないコンクリート多めの田舎町で高校生まで過ごしてきた私にとって、お金は夢を叶えるチケットでもあったのです。
また、試行錯誤を重ね、苦手にチャレンジすることで開ける道もあると実感しています。好きな仕事ではありませんでしたが、業務上、さまざまな書類の作成に携わったことで、思い描いたものをゼロから書き起こし、分かりやすく表現する文章スキルの基礎も築けました。ほとんど英語を話すことができないのに、海外との会議を仕切れと命じられ、その時期になると毎月憂鬱でしたが、理解できないことを適当に捌く度胸もつきました。これは、お金をもらえていたからこそ、一生懸命がんばれた、とも言えます。

もしまだ「好きなものが見つからない」というなら、とりあえず、何でも興味が湧いたことを思いっきりやってみたら良いと思います。まずは目の前のことに、全力で取り組んでみる。きっかけはどこに落ちているか分かりませんし、やってみなければ、何が好きか嫌いかなんて分からないのです。無理なものは無理でいいのです。無理だと分かればそれで十分。中途半端にして次に進むのです。自分だけではどうにもならず、ずっと思い悩んでいたけど、人に相談したらあっさり解決した、みたいな例はよくあります。自分一人で完璧を目指すよりも、信頼され協力したくなるような人間になった方が、やりたいことはたくさんできるのです。そのためにも、自分は何が得意で好きなのか、はっきりさせておくことは非常に重要です。

私はチョコレートを通して、自分は食べることが好き、考えることが好き、伝えることが好き、なのだと分かりました。たったそれだけのことを実感するのに30年以上かかったのです。ロスとコストを減らすために生きていたのに、とんでもない回り道をしていた。そして好きなことに気がついた時には、既に自分の人生を大幅に切り替えることができない地点にいた。
私は私の人生に悔いは一切ありませんし、年を重ねるごとに幸せが大きくなっていると実感しています。今はもう、過去に戻って人生をやり直したいとは思わなくなりました。正直、これまで積み重ねた努力と、めぐってきた幸運が、なかったことになる方が何十倍も怖いです。何より、これまで無駄に過ごしてきたような時間もあってこそ、抱えていた気持ちを文章にまとめることができるようになりました。だからこそ、もし現在、思い悩んでいる子供達がいるのなら、親御さんがいるのなら、背中を押したい。

なんで勉強しなきゃいけないのか。
本当の自分を知るための、第一歩になるから。
全教科を無理にやる必要もないし、テストで高得点を取る必要もない。
勉強は、興味があることを選別していくためのウォーミングアップ。

だから、学校という枠に囚われずに是非挑戦して欲しい、と。

どの分野も玉石混淆です。みんな最初は名もない石ころで、どれも継続して磨けばそれなりになる。才能があれば宝石になるでしょう。才能がなくとも、知識があれば効率よく磨くことができます。「思い描いたように磨く」ことができるようになれば、長く楽しく続けられます。
たとえ磨いたものがダイヤモンドにならなくても、見たこともない面白い形の石になれば、宝石以上の価値を感じてくれる人がいるかも知れません。価値が付かなくても、磨いているその姿が誰かの心に深く残るかも知れない。

生きがいなんて、そのへんには落ちてません。もし落ちてたのなら、それは多分、承認欲求が見せている幻です。理想の奴隷を続けるのは辛いし、疲れてしまいます。生きる上で我慢しなければならないことはたくさんあります。だからこそ、好きなことを掘り起こして、自分が楽しいと思える時間を少しでも増やしてみませんか?人生はいつ終わるか分からないし、本当に一度しかないのです。

好きな分野を見つけ、活動を始める。知識や技術を磨いて、自分の行動に他人を巻き込み、モノやお金を動かす。それを継続してようやく、プロとしてのスタート地点に立てます。そこから何を目指すかは、また自分で考えて、道なき道を行くしかないのです。皆と同じ頂上なんて目指さなくていいし、1つの山を無理に登り続ける必要もない。いろんな山に少しずつ登るのもいい。とびっきりのスーパースターになれなくても、自分にしか見えない景色に価値を見出すことができれば、幸せに生きることができるのではないでしょうか。

SNSやブログで自分の経験を発信すれば、ネット上をさまよう誰かしらの糧になります。それは今ではなく、数年後かも知れません。私もたくさんの名も知らぬ人から学んできました。素敵な記事を見つけたけれど、投稿日が数年前だったこともありました。とても勇気をもらったけれど、ちゃんと感謝を伝えきれてない人がたくさんいます。恐れ多すぎて見守ることしかできない人もいますし、その人は私の存在など知らないでしょう。スポットライトを浴びる必要なんてない、好きな人に振り向いてもらうためではなく、自分のために他者への愛を叫ぶ、とにかく自分にできることをやり切る。自分の積み重ねてきたものが、いつか誰かの背中を押す勇気になるかもしれない、私はそう信じています。

覚悟を決めて、外に出てみれば、色鮮やかな世界が広がっています。世界はもともとそれ自体が不思議で面白いもの。そしてそれを理解するためには学び続ける必要があります。社会に溢れる情報の、どれが本当か嘘か見極めるためにも、知識は心強い味方になります。ですので、まずは親が食わず嫌いせずに、勉強を始めてみてはいかがでしょうか。ハマると案外、楽しいものですよ。

*もしご興味あれば、過去記事「味覚は意図的に変えられるのか?」も併せてご覧いただけると、私の生態がよく分かると思います。肩の力を抜いて、楽しく子育てしていきましょう!

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