"心をさらけ出す"、ということ
今日はもう暑くて暑くて溶けそうだった。寒いより暑いの方が最近まだマシだと思えるけれど、最近オンライン授業のおかげでニートが加速していたので、暑さにやられてますます体が疲れた感じがする。
近所の人に最近ニートって思われてる感じがしてちょっと悲しい。ずっと家にいるかしょうがないけれど。
まぁそんなことは置いておいて、今日は"心をさらけ出すこと"について考えたい。
あなたは心(=自分)をさらけ出せるような相手はいるだろうか?
逆に心をさらけ出してくれるような人はいるだろうか?
私の個人的意見としては、世の中にはどちらかと言えば"心をさらけ出すことが苦手な人"が多いと思っている。
あくまで私の経験に基づく推測だけれどね。
心をさらけ出すことがあまり得意ではない人って、
心をさらけ出されることも得意じゃないような気がする。
というか、心をさらけ出すにはどうしたら自分で分からないから、
さらけ出したくてもどうさらけ出せば良いのか自分で分からないから、
他者にも心をさらけ出してもらえないのではないか。
他者に、この人は私の信じてくれている感じがないなぁ
私に心を開いてくれている感じがないなぁ、と
感じさせているのではないか。
あるいは心をさらけ出したことがないから、
相手が自分のことを信頼して心を開いてくれているのに、
もはやその事実に気づくことさえできないのではないか。
そう考えると"心をさらけ出すことが苦手なこと"はすごく悲しいように思えてくる。
私はいわゆるそういうタイプだが、私の場合は心をさらけ出すことが苦手というよりは、
相手を信じることが苦手、という感じだ。
自分の心をさらけ出すなら、相手にも自分にさらけ出してほしいし、
自分が心をさらけ出したことに対する"見返り"のようなものを相手に求めてしまうのだ。
本当に私たちって信頼関係が築けているのかな?
相手は私のことを信用してくれているのかな?と疑ってしまうのだ。
もちろんこれは過去に物凄く酷い裏切られ方をしたという経験に基づく考えであるが、
色々な意味で"心をさらけ出すこと"は難しいなぁと思う。
また、人間というのは人によっては何重にも仮面を被っていたりする。
あるいは、集団や場所によって仮面を使い分けている人もいる。
そういう人たちの中には、"心をさらけ出す"相手がいるかどうかの問題以前に、
自分が さらけ出したい"心"、"本物の心、本心"がどれだか自分でもわからなくなっている部分があるのではないか。
他者にこう思われたい、こういうイメージを持たれたい、
というような感情に基づいて仮面を被ったり時には自分を偽ったりした結果、
"本心"、心の底から信頼できる相手に"さらけ出したい自分の想い"がどれかわからなくなってしまっているのではないか。
いつどこで誰と過ごしている自分が、仮面を被っていない"素"の自分なのか、
自分でもわからなくなっているのではないか。
私は誰かに心をさらけ出せるのならば、さらけ出したいとは思う。
ただその相手には一定の信頼と一定の見返りと、一定の期間一緒に過ごした思い出のようなものが必要だと思ってしまうのだ。
だからって自分のことを自分で「生きづらい人間だなぁ」とまで思ったりはしないが、
じゃあどうすれば自分が少しでも「生きやすい」人間になれるのか、と聞かれれば
その答えはまだ、出せていない。
去年の今頃、この頃本当に文章力皆無だし成長ないなぁ。ちょっと悲しい。