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最近の若者は深い友人関係を築くことができないのか?を考えてみる

大変興味深い記事を見つけたので、これについて少しだけ触れてみる。
この後21:00から学生団体の会議なので、そんなに内容は濃くならないかもしれないが。


2ページ目より

各種社会調査上でも友人関係に対して抱くのは80年代半ばまでの「開放的で楽しい」という感覚よりも、「付き合っていくためには気を遣わないといけなくて心配」という側面が強くなっていく――この傾向は今に至るまで続いています。

友人関係というものは80年代以降、「自由で自発的なもの」に変わったらしい。どちらかと言えば私が幼かった頃(保育園〜中学校くらい)は70年代までの友人関係に近いものだったように思えるけれど。地域コミュニティが小さく、周囲の人間との関わりが良くも悪くも密接だったし、「親同士が仲が良ければ子供同士も仲良くしなければならない」(逆も然り)雰囲気があったように思う。

積極的に振舞わなければ友人関係が維持できない。不安定なつながりには働きかけを続けないと いつの間にか孤独になってしまうかもしれない。
友人関係の維持というのはそんなに「頑張る必要性」があるものになってしまったのか、少し悲しいような。かといって友達0がどんなに生きづらいか、否応無しに「学校」という場所で実感させられてきた人もいるだろう。

おそらく私は大勢の若者よりも「友人関係を維持することを頑張っていない」タイプの人間なのだろう。来るもの拒まず、去るもの追わず....というわけでもないけれど、なんとなく流れに任せているというか、相手の出方に任せている感がある。

「このコミュニティではこのくらいの友達がいれば過ごしやすいかな」くらいの感覚なので。例えば大学の友達は○人。ブログというコミュニティ上での友達は△人。サークルで特に親しい友達は□人、みたいな。

3ページ目より。若者について。

「自分を晒すと拒絶されるかもしれない。だからできない」。しかしお互いに自己開示しないと何でも言い合える理想の関係は手に入らない――そんな厄介なジレンマの中にいます。

うーーーん、おそらく私は上記のようなスタンスなのでそんなに自己開示をしていないと思っている。何より、相談相手が「すごく親しい昔からの友達」である必要性を感じるようなことや、その必要性を感じるほどの相談内容が私にはないのだろう。(と思っている。)

ただ親しい(身近な)人にほど自己開示をしづらいという気持ちには共感できる。私は目の前の友達に自分のことを話すよりブログで自分を書くことの方が好きだし、大学で何年もお世話になるであろう教授に自分のことを話すより、たった1度しか会わないかもしれない会社の面接官に自分のことを話す方が簡単だと思っている。自己開示に対する抵抗が、「相手が見知らぬ人」である場合の方が小さくなるのだ。

それは"拒絶されることが怖い"というよりかは、"相手に自分のことを全て知られること(弱みを握られたような感覚になること)が怖い"という感じだけれど。


4ページ目より。若い人について。

誰かが何かを言ったりやったりしたことに対して「人それぞれだからね」という処理の仕方をする。これは他人の意見や多様性を尊重しているようでいて「私は関わりません」と言っているのに非常に近い。

うわああああ!!!「人それぞれ」は自分でも驚くほどに(?)私の口癖である。「人それぞれだから良いじゃん」みたいな。まぁ確かに相手のことを"どうでも良いと思っている"....という風に捉えられなくもないけれど。(私は「尊重」の意味でで使っているけれど、もちろん....)誰にでも優しい人はどこかで相手に対して無責任?みたいな感覚と同じような。

ただ「自分に深く踏み込んでほしくない」からこそ相手に「私は(あなたに)関わりたくない」と言っているのか。
それとも、本当は自分に深く関わってほしいから、相手が踏み込んできてくれるのを待っているのか。逆に自分から踏み込んでいくしかないと思っているのか。


色々なパターンがあると思うけれど、そりゃあお互いに「自己開示」に抵抗があるようでは、距離も縮まらないよな...というのも納得だ。
もはやある意味開き直って、お互いに「なかなか自分のことを赤裸々に話すの難しいよね〜」なんていうことから打ち明け合って。そこから「実は私さ〜」なんていう話に持っていければ良いのかな?なんて思ってしまうけれど。

こんなにも友人をつくるために、勇気と頑張りが必要だったんだっけ。

この2つを使わずに友達をつくりたければ、ネット上でいくらでもつくることができてしまうのも良いような悪いような....。



話が少しそれてしまったけれど、この記事の内容は興味深いので是非目を通してみてください。若者も、大人の方も。


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