知ることができて良かったけれど知らなくても良かった
なんとなく納得がいかない生徒指導論のレポートを1つ書き上げた。
先生が求めている答えが明確にわかってしまうからこそ書きづらい。
本当はそう思っていないのに、と思いながら今日も”正しい”ものとして存在している考え方を紙に書く。
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Twitterには「リツイート」という機能があるし、アメブロには「リブログ」という機能があるし、Instagramには「リポスト」という機能がある。
自分が「良い」と思った情報を、あるいは自分の周りの誰かにも「伝えたい」と思った情報を、簡単に人に「共有」できる。
もちろん便利なこともある。多くの人に自分の主張や意見を届けやすい。
例えば Twitterで "#拡散希望 行方不明になっている少女を探しています"
などとツイートすれば、あっという間に画面の向こうにいる誰かが拡散してくれる。
けれど「リツイート」されて自分のタイムラインに流れてくる情報の多くは、
「知ることができてまぁ良かったけど特に知らなくても過ごせた。知らなくても良かった。」
そんな情報ばかりだ。そういう情報を見ることに無駄な時間を使うのは、やめにしたいなと最近思う。
誰かが「これ良いな」「フォロワーのみんなにも伝えたいな」と思う情報の多くは、
なんだかんだ自分にとってみれば「特にわざわざツイートをクリックして内容を丁寧に読むほどの興味はない情報だな」
「拡散されたツイートが回ってくるのは良いけど別に自分が拡散しなくても良いかな」と思うものばかりだ。
「リツイート」は要は自己満だ。他のSNSアプリでできるリポストやリブログとはレベルが違うわ!って感じでリツイートは自己満足の塊だと思っている。
リツイートすることが良くないとかそういうことを言っているわけではない。
Twitterという自分が共有したいものが一瞬で多くの人に伝わるSNSにおいて、
案外自分が「良い」と思ってタイムラインに流した情報は、
誰かが1秒もかからず通り過ぎてしまうような情報だ。
「誰かに自分が良いと思ったものを共有することで自分の価値観を伝えたい」
リツイートとは要はこういうことのような気がしている。
「あなたのリツイートがいいねされました」という通知が届いた時、
リツイートした人は「共感してくれた人が居たんだ!」とさらに自己満足を加速させるのだろうか。
そう考えるとリツイートをそういう目的でしている人が面白い人のように感じてきた。
バカにしているわけではないけれど、なんだか不気味なほど面白く感じてしまうことってあったりするものだ。
ちなみにいわゆる行方不明者とか行方不明のペットとか落し物の持ち主を探しているとか、
「拡散」されることが目的のツイートというものがある。
もちろん善意でリツイートする人もいるだろうし、
自分の生活する範囲の付近であれば実際に探す人もいるかもしれない。
そういう人にどうこう言おうとは全く思わないが、
「自分はこのツイートを拡散するという善い行いをしたんだ。」
と自己満足に酔っている人がいることが不気味なことに感じる。時がある。
「見て!私も協力してあげたんだよ!」という気持ちでリツイートしている人の方が多いんじゃないかなと思う時さえある。
まぁ総じて言いたかったのは、リツイートが無くなれば良いとまでは思わないが、
フォローしている全員のリツイートをまとめてオフにできる機能というのは便利なのではないだろうか。
今私が見ている情報は、知らなくても良かったどうでもいい情報、ばかりなのかもしれない。案外。
(去年のこの時期のブログ)