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感性と顕微鏡

理科の授業で顕微鏡を使ったことがある人はかなり多いと思う。私は普段は眼鏡をかけているのだが、覗いて観察物を見るためには 眼鏡を外して乏しい視力のまま見るか、眼鏡をかけたまま見るというどちらかの方法がある。
私は視力のせいでよく見えないことが嫌だったので(せっかく顕微鏡のおかげで普通なら見えない世界が"よく見える"のだから)眼鏡をかけたまま見ることを選択していたけれど、たまに距離感がつかめず接眼レンズと眼鏡がぶつかって、「カチャ」と音を立てた。

この音が本当に不快だった。


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noteを読んでいると優れた感性を持つ人たちが書く文章にたくさんたくさん出会える。私には抱えきれないくらいの凄まじい"感性のパワー"のようなものを、1つ1つの文章から感じるのだ。
人の感性を味わう時は、誰かと誰かを比べるのは良くないと思う。自分の感性と比べるなんて、もってのほかではないだろうか。
自分の感性を"乏しい"と感じてしまうとはいえ、自分の文章にも何かしらの少しくらいの「良さ」があるから一昨日も昨日もこうして私のnoteを読んでくれている人がいるのだろう。


誰かの感性は優れていて誰かの感性は劣っている、という考え方よりは
あの人の感性はこんなところが優れていて、また別のあの人の感性はこれとはまた違ったところが優れていて....なんていう風に
"感性"の良さや鋭さが具体的にどんなものなのかを味わうのが良いのではないだろうか。あるいはその思わず尊敬してしまうような"感性"の良さや鋭さは文章のどの部分やどんな書き方から感じるのか、考えてみてはどうだろうか。

自分の感性を磨くためには、他者の感性を知り、それを認め、自分のものとすることが大切なんじゃないかと思う。そのためには色々な人の文章に触れなければならない。(noteにおいては、の話。)
すべての人の感性を受容しろとかそういうことではないし、何でもかんでも取り入れれば良いというわけではないが、自分の感性を磨きたいなら、まずは他者の感性を知り、それを思考するところから始めるべきなような気がしている。


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誰かの見る世界を見てみたいなぁと考えていたら、顕微鏡のことを思い出した。「接眼レンズと対物レンズ、先にどちらをつけるのか」、「観察対象を見るときは対物レンズとプレパラートを遠ざけるのか、近づけるのか」なんていう問題はもう今でも見飽きたなぁと感じるくらいの回数見たからなのか、強く印象に残っている。


誰かの見る世界をのぞいてみたい。誰かの感性を味わうために、誰かの見る世界をのぞいてみたいなぁ、と思いながら今日も誰かのnoteを読んでいる。

きっと誰かが見ている世界というのは、顕微鏡で見たら面白くないのだ。"肉眼"で見るから良いのだ。
"見えすぎない"ということが良いのだ。詳細まで見えてしまったら、少しぼんやりしているからこそ綺麗に見えている世界が台無しである。
肉眼では見えない、というか味わいきれない、感じきれない 部分を自分で考え、想像(あるいは創造)するという営みが楽しいのだ。
誰かの見る世界をのぞいて、見切れなかった部分を自分なりに補うという営みが、なかなか興味深いような気がしているのだ。


もちろんnote以外のものも通して、私は"感性"を磨きたい。
まだまだあまり外に出かけたくないのが本心である。1歩外に出なくても、逆にずっと室内にいるからこそ磨ける感性のようなものを、今だからこそ磨いていきたい。





浪人生時代のころの自分のブログでも晒しておこう。


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