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「学力」って結局何なんですかね / サドベリースクール

求められるようになった「確かな学力」
1 知識・技能
2 課題解決力
3 学習意欲
求められるのは"主体的・対話的で深い学び"、アクティブラーニング。

何となくアクティブ・ラーニングの意味を正しく理解していない人が多いのが現状な気もするが。


今日も今日とて授業で「教育」について考えたわけだが、「学力」というのは時の流れや社会の変化によって大きく変わってくるものなのだろう。

授業の中で挙げられていた「これからの時代に求められる学力」には
・自分の頭脳+デジタル機器→知識・技能や認知スキルを複合的に駆使することで、決まった解法・正解のない非定型的な問題を、チームで解決していく力。
・職業上の実力もしくは人生における成功に直結するような社会的スキル、同期、人格特性も含めた包括的な能力。
・「何を知っているか」ではなく、実際の状況を見て判断し、「何ができるか」を問うものが学力。
・生涯に渡って学び続けていく力。
があったが、どうなのだろう。

これらは学校で身につくものなのか?学校で身につける「学力」なのか?
それとも「学校では身につけられない、このままではダメだ」と思っている人が多いからこういうことを考える機会が授業に存在するのだろうか?



他に授業で取り上げられたことの話をしておく。

二項対立的な問いの立て方の問題点

「あちらとこちら、どちらが正しいのか?」という問いの問題点。こういう問いが自分は思っている以上にあふれている気がする。そしてnoteの中で、自分もこういう問いをしてしまっている気がする。かなり。そしてこういう問いの立て方をしたnoteをよく見かけるような気がする。気のせいではないだろう。

特にそれを一方的にダメだと言っているわけではないが、二項対立的な問いでは「必ずどちらかが正しい」ことが前提となってしまうのだろう。これはディスカッション(授業内の)では望ましくないねぇ....というのが今日の授業の話だったわけだが。
大切なのは自分が正しいからと言ってひたすら相手を否定することではない。自分の価値観を押し付けて相手を押さえつけることではない。

自分が今まで経験してきた「ディスカッション」を行う授業は、「共通関心」を見出すようなものではないような気がした。

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主体的・対話的に学校生活に関わらざるを得ない"サドベリースクール"の話

デモクラティックスクールとしてのサドベリースクールでは、"誰かに決められた規律によらず、自ら定めた規律に従うときにのみ、自由である" 

自分たちでルールを決める。教師はおらず、大人(スタッフ)とは対等。カリキュラムも時間割も授業も学年もクラスも試験も成績もない。卒業のタイミングは自由で決められる。
サドベリースクール、「世界一自由な学校」の存在を私は初めて知った。

1日のほとんどが自由時間で、毎日勉強しなくて良いし決まった時間に学校に行かなくてもいい。自分たちで決めたルールにさえ従えば良い。

大人が"学ばせる"働きかけはせず、生徒が"学びたい"と思った時に学ばせる。やる気が頂点の瞬間に学ばせる。確かにそういう学び方をすれば誰もが「心から楽しんで、意欲的に」学べるのかもしれない。

流石に今の知識量でこの学校を肯定も否定もできないのだが、ただ"通ってみたい"という気持ちは確かに残った。

このスクールをつくったグリーンバーグ氏の考えがある。

人間には、自ら必要なスキルを学んでいく潜在的な能力が遺伝的に組み込まれている
子どもたちは、人間性の本質である生来の好奇心に突き動かされることで、自分を取り巻く世界に分け入り、それを我がものとしていく途方も無いエクササイズを続ける努力家である

アバウトといえばアバウトのような気もするが、ただ思うのは今の学校における「教育」は潜在的能力を伸ばせるものなのか?引き出せるものなのか?
子供達は好奇心旺盛に学んでいるのか?外の世界を自分のものにしたいと思えるような学びを享受できているのか?


ただただこういうことを考え続ける。
そしてこの考えを深めるためにも、やっぱり教壇に立ちたいという思いが強くなるのだった。





参考文献:
苫野一徳『教育の力』 講談社現代新書 2014 年
井藤元『ワークで学ぶ教育学 増補改訂版』ナカニシヤ出版 2020年。