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足元から、ここからでいい

好きなこと、やりたいこと、喜んでもらうことを喜ぶこと
をすべての選択の基準とする生き方を選ぼうと決めた私たち夫婦

本当に食べて行けるのか
80歳になっても自分が喜んでできる仕事でずっと働いていたい

共に生きるオットが同じ考えでいてくれるからこそ実現可能だと思う。

まあ、、、私たち夫婦もいろいろあったし、ここまでたどり着いた感でいっぱいですけれど😅

今日は朝からオットと、伸びすぎた木の枝の剪定をして
ボトボト頭の上に落ちて来るどんぐりに
「いてて、いてて」と笑いながら
その後は、庭に落ちたたくさんのどんぐりと落ち葉と枝を掃除して。。。

そんなことをしながらふと思いました。

私は、こういうこと…庭の木や草花との共生を学び実践すること…を一生元気に楽しくやっていたい。
そして、そこで自分なりに得たことを発信して、人に伝えたり教えてあげたり、いっしょにやったりしたい。

だから、トライ&エラー、思考錯誤を繰り返し、近くにいる詳しい人から学ぶこと、本や動画で、たくさんの情報の中から、必要な知識を得て、
「自分なりの見識」を深めていきたいと思った。

家族のそれぞれが得意分野がある中で、器用貧乏な私はなにをすればいいのだろう???と常に思っていて、娘には「なんでもできるやん」と言われるが、本当に何ができるんだ?と自分ではさっぱりわからない状態だった。

でも、何ができるか?ではなく、何がしたいのか?というところにフォーカスすると、ふっと浮かんだのが上記のようなことだった。

実際、春からずっと、ほぼ毎日、寒い日も暑い日も、小雨の降る日も、蚊と戦いながら庭で1日のうちかなりの時間を過ごしてきて、全く飽きることがない。気が付けば、育児期や会社員時代には想像すらしなかったガーデナーとなっていた。

今は、パーマカルチャーという言葉が気になったり、園芸士という資格なんかにも興味があって、専門家から学び、疑問を早く解決して、庭仕事を軌道に乗せて自分の思い通りの庭に早くしたい!という願いが浮かぶが、
待て待て待て、、、
「私なりの見識」を持つために、試行錯誤と学びをもう少し続けよう。経験に勝る学びはない。失敗からも学べる。調べて探して試して考えて。

畑を20年ほどやっているオットがいつも言っている。
「畑で今年やってみたいやり方がうまく行かないと、次のチャンスは1年待たないといけないから時間がかかる」と。
でも、だからこそ面白いんや、と。

私はにわかの駆け出しのガーデナーだけど、たとえば70歳になるころには15年の経験が積み重なる。その頃には、私はどんな庭にいるんだろう?
今の駆け出しの私には想像できないけど、なんせ、自然が相手だから、
豊かで、美しくて、心地よくて、地球のたくましさや優しさに包まれながら学べるのだから、なんて幸せなことだろう。

パーマカルチャーとか、そんな言葉にも惹かれちゃうけど、誰かが体系立てた何かから学ぶのではなく、逆の方向で、
私は、私の足元から学び取って行こうと思う。
行き着く先は、その先にあるから。

私の足元に生えてくる雑草たちと話をし、虫たちを観察し、木の成長を待って、実が成る日を楽しみに待つ。

ここにいる草花から学び、虫や鳥たちから学び、
私もそこに入れてもらって、共生できるように、心地よく生きる。

人間だから、虫や鳥のようには生きられないし、それでは面白くないので、
自然の中に共生しながら、その美しさや豊かさを利用させてもらって、居心地の良い庭や我が家を作り上げていく。

こつこつ、でいい。そして、ここからでいい。私流でいい。

雑草とは何か?

庭では、人間が植えたい植物を植え、種をまき、きれいな花壇や菜園を作りたいと願うが、そんなところに招かざる客として、雑草は勝手に生えてくる。
つまり、人間の活動にともなって、自然植生の失われたところに、生えてくる植物たちである。
つねに人の活動が行われるところでは、その状況の変化に合わせて、もっとも適応できる雑草たちが、入れ代わり立ち代わり生えてくる。ということは、雑草は、自律的に人間と共生できる自然の力と言う見方もできる。
<中略>
それは見方を変えれば、この日本では人間がどんなに自然を壊しても、自然はつねに手を差し伸べてくれているということ。そのとき最初に、そして一番身近に現れるのが雑草たちだ。

「雑草と楽しむ庭づくり」菊池書館より

私は「雑草たちと共に作る庭」で生きていくことを学び実践していきたい。


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