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平野啓一郎『マチネの終わりに』(毎日新聞出版)

平野啓一郎はツイッター上での発言をよく目にする作家で、その意見はたいへん信頼しているのだが、小説を読むのは初めてだった。少し前に100分de名著の三島由紀夫の回を見たあとだった。三島を右翼作家としてではなく戦争後の価値観の激変に彼なりの反応を示した作家であるという持論を展開していた。(どうでもいいことだけど、番組中で彼が伊集院氏ではなく、女性アナウンサーに向かってしゃべるシーンが多くて、珍しい気がして印象に残った。)

そういう人がどんな小説を書くのだろう。読み始めてすぐに感じたのが文体だ。それほど傾倒しているとこんなに似るのかと思うぐらいに、三島の文体に似ていた。ちょっと可笑しくなるぐらい。読み進むと、何やら逢いたくても逢えないすれ違いのメロドラマになってきた。二人は住んでいるところも遠く離れていて、お互いに忙しく複雑な事情を抱えており、やっと逢えそうになったらあまり現実的とは思えない邪魔が入るのだった。(このあたりでアホらしくなり読むのをやめようかと思ったが最後まで読んだ。)

たぶん平野啓一郎という人はすごく真面目な人で一生懸命この小説を書いたのだろう。いや、どんな作家も一生懸命書くのだろうけど、その一生懸命さがわりと表面に出ているのだと思う。参考文献として挙げられている本をしっかり読んで取り入れている。さらには「クロエの白いワンピースにジャケットを羽織った」「繊細なニットにからんだアクセサリーをはずすような気持ちで」(正確な引用ではないです)みたいなオシャレ要素もあちこちに入れてあって、クラシックの音楽ホールも出るし、エレガントでゴージャスな雰囲気もある。イラクの情勢やアメリカの経済問題などが詳しく書き込まれて、知的な材料がつまっている。映画化もされたらしいし、こういう華麗な恋愛ドラマが好きな人は好きなんだろう。わたしにはどうも<国際エリートのメロドラマ>、<すごく知的な渡辺淳一>としか思えなかった。おまけにクラシックに無知なので、こまごまと書き込まれる曲のあれこれが読んでもわからないのだ。わたしとこの作家はどうも相性が良くないみたい。

ひとつ、どうも気に入らないのが、主人公のギタリスト蒔野が洋子に惹かれるきっかけなんだよね。美人で聡明で、イギリスとアメリカのエリート大学を出ていて、ヨーロッパ育ちで、何カ国語もできて、というのはまだいいとしても、彼女の父親が自分が敬愛する映画監督だったというのが大きいように思う。でもそんなん恋愛に関係ないじゃん? そういう文化的ハイレベルが彼にとっては大事なの? こういうヒロインの造形に作家のコンプレックスが現れてるんじゃないの? ここあたりがわたしにとっては一番引っかかったポイントでありました。粗雑なニットにアクセサリーが引っかかったような気分で読み終わりました。

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