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日本人、日本

連用日記代わりのFBから。

毎朝、過去の今日はどんなことしてたかなーとFBの『思い出』を読んでから1日をスタートするのが日課です。

それを読んで、今現在思う事などを追記したり。

2018年の今日は、この写真の投稿を読んで山本七平さんの本を読み返していました。

本って、その時の自分のレベル次第で何度読んでも「あれ?こんなこと書いてあったっけ?」と新鮮な気持ちになれることって多いので、いいなと思えるものは何度も読み返します。

ってか、単に私の記憶力の問題で覚えていないってのもあるのですが。

これ、また読もうかな。

※「日本人」という大きな主語で書いているのは、あくまでも自分の中の日本人のイメージです。希望的観測も多分に含まれますので大目に見てくださいね。


(2017年4月24日)


表紙がめっちゃかっこいいですよね。

日本はずっとシナから学んできたと教わってきましたが、それは違うんじゃないかと。

例えば文字。

『日本は未開でものを知らず、文字を見てこれを文字として理解する段階にも至っていなかったという前提ですべてが論じられがちであるけれども、それは文明の側から見た誤解なのであって、ひょっとすると言語生活がはるかに発達していて、入ってきた若干数の文字の使用にある種のためらいと抵抗があっただけではないだろうか。どうして逆にそう考えないのだろうか。さもなければ、口承文学の巨大な包容力は説明がつかない。

  文字に頼ることで言語は傷を受ける。言語は音であるとは前にも言った。当時、いくらか文字を知っても、複雑で高度に達していた言語生活を表記できるとはだれも思わない。自らの神話や物語を文字によってではなく、言葉を暗記し、記憶によって伝えるという技術が高度に発達し、それゆえに外来の文字に対し一定の距離をもつという意識が働いていたのではなかったか。あらかじめ伝達形式と伝承形式が確立していて、文字を介するということでこれがかえって毀損されるという恐れを抱いていたというふうに、なぜ考えることができないのだろうか。古代人一般の深い宗教心理、あるいは信仰心の奥深いところにあるものとは、いったい何かに思いをいたせば、文字の伝来が、単純に「文明の夜明け」であるというふうに考えることは必ずしもできないのではないだろうか』(決定版国民の歴史・上より抜粋)

これは、日本語の『音』のもつ不思議といいますか、文字にしてしまうと死んでしまう言霊のようなものが関係してる気がします。

日本語は、5・7・5・7・7に内包された宇宙的な広がりを表せる数少ない言語で、私達が考えている以上に高度な言語文化なのではないかと思います。そしてその背後にある深い精神性に思いをはせると、もしかすると古代の日本人は、非常に高度に発達した文明を持っていたのではないでしょうか。

実際、日本人が漢字に触れてから取り入れるのに5百年程かかっているそうです。それは、もともと日本には深い言語文化が既にあり、永い年月をかけて外来のものを取り入れ、日本文化に変えてゆく、というプロセスがあったからだというような事が筆者の考えのようです。

よくガラパゴス化と言われるように、確かに日本人はあらゆる外国からの文化や技術を取り入れ、模倣しながらいつの間にかオリジナルとは全く違う日本のものにしてしまうのが得意ですよね。

何でもかんでも取り入れて主体性がないように見えて、実は日本人というのは非常に頑固で、自分達に合った形にして自分達のものにしてしまう民族なのではないかと思います。フレキシブルな頑固。

だから、どんどん変化しているように見えて、実は日本というのは芯の部分はしっかりと日本なんですよね。

明治維新以降、ものすごい勢いで西洋化したことに関しても、外国によって文明が開かれたのではなく、もともとそれを受け入れるだけの成熟した文明文化が日本には既に育っていて、西洋から入ってきたものはそれが花開くきっかけにすぎなかった、というのもうなずけます。

もうすでに器の中には水がいっぱいになっていて、外国からの文明文化というものは「最後の一滴」にすぎなかったのでしょう。

そういう日本人の持って生まれた、ある気質は、個人レベルでも同じ事が言えるんじゃないかと思います。うまく言えませんが。なんとなく。



(2018年4月9日)
言語とエゴについて。

英語というのは、他者と自分の境をはっきりと分断し、知らず知らず自己主張するような性質になってしまう言語だと感じます。

日本語は、主語を省いて話すことが多いので誤解も生じますが、責任の所在をはっきりさせないという特徴がありますよね。

どちらが良いとか悪いとかではなく、生まれた時から話す言語によって、日本語はどちらかというと自他を分かたない和の心を育てて、英語は自我というエゴを育てる傾向があるように感じます。

・・という事をよく夫に話すのですが、夫もそう思うと同意してました。国民性というのは、話す言語によって育てられる一面があるのかもしれないですね。

あと、日本語は想像力も育てますね。場の空気や前後の文章から判断して多分そうであろうという意図をはかりながらの会話。空気を読むというのはその最たるものですよね。

英語は、写実的というか文章で詳細まで全部を表現するので、想像力や共感力に乏しいかな。。と思ってしまう人が多い気がします。

これもどちらがいいとか悪いとかじゃなく、そういう傾向があるかなと。むしろ私は言語化が苦手で苦労する場面も結構あります。英語圏の人は、ぶわっとした、とかほっこり、とかそういうオノマトペもきっちり言語化出来るのはすごいなあと感心します。

私は未だにI とかyou とかピンポイントで人を特定して話すのに抵抗があって、よく受動態の文章にしています。これまでのところ特に主語をぼかすことでの弊害はないです。



(2018年4月24日)
ずっと思ってたんですが、日本を離れてより一層そう思うこと。

日本人て、どちらかというと個が埋没するような共同作業とか皆で協力とか苦手ですよね。

一人一人の我(が)というか個がすごく強くて、基本的に自己完結できるソロの人が多い気がします。教育や環境で変に抑えられちゃってるだけで。

和をもって貴しとなすというのは、ほっとくと個性の強い人たちがばらばらになっちゃうからわざわざ定められたんじゃないですかね、きっと。だって元々そうだったらあえて言及しなくてもいいですもん。

謙遜とか自虐的とかそういうのは案外、ものすごいプライドや自信の裏返しだったりしますからねえ。。

別に否定してる訳ではなく、日本人て自分たちが思っているよりもずっと芯が強くて自立できる民族なんじゃないかと思ってます。民族でひとくくりに語れるものでもないですが、印象としてそう感じます。



(2018年12月25日)

山本七平さんのおっしゃる日本人特有の感覚“空気を読む“。

以心伝心とか、西洋人でもごく親しい者同士ではありますが日本人は親しくなくても多くの人が一度にぱっと感じる事がありますよね。

思うのですが、言語によるところも大きいんじゃないでしょうか。

というのも、アメリカ生まれアメリカ育ち、半分アメリカ人の息子も空気を読む感覚を持っていて、帰省して私の両親と接する時の方が楽らしいのです。

赤ちゃんの時からずっと日本語で話し続けて読み聞かせも全て日本の絵本や本。今は英語も日本語と同じくらいかそれ以上喋りますが、母語はやっぱり日本語だと思います。

母語による精神的な成長の違いってあるかもしれないなあと思います。(私も日本語の方が細かいところまで話せるし。)




(2018年1月9日)
日本人て、普通の人のスキルが他国の人と比較して高いですよね。外国で暮らすと、それが顕著です。日本人が普通にやってる事が、こっちではプロ並みのレベルってことはよくあります。めっちゃ器用だし。

優劣は置いといて、日本人は多くの事に関してもう一歩進んだ視点を持っていると思います。

日常生活においてもそれは言えると思います。本当に細かい事なのですが、日本で暮らしていると日常での作業のストレスがほぼないようにあらゆる面で創意工夫がなされていますよね。

海外・・というと語弊があるかもしれませんが、私の暮らしている北米に限って言うと、「ああ、ここをもう少し改良したら格段に使いやすくなるのに」「発想はいいんだけど、商品化する時に適当にデザインされてて台無し・・残念!」という事ばかりで、私は必ずひと手間加えてストレスなく使えるように改良してます。(私がデキる人みたいに書いてますがそんなことなくて、日本の商品だったら普通こうする、という事ばかりですよ。)

人間関係にしても、日本人はカンがずばぬけていいと感じます。外国では敵意がない事を言葉や態度ではっきりと示す文化になっていて、それはそれで大事だと思うのですが、言葉にならない部分を読み取ることは逆に不得手なようで(もちろん人によります)、ああ・・なんか・・鈍感なのかなあ・・と、思う事ばかり。

日本人すごい!日本人は優れた民族だ!と手放しで礼讃している訳ではないですよ。

ただ、声の大きな国や人が正しいと思い込む必要もないし、日本はもっと他国と精神的に対等になって良いと思うのですよ。事実ではない事や理不尽な事で非難されても即謝罪する必要はないし、自分は自分、人は人!と毅然としていればよいと思います。

そのあたりはまだ慣れていないせいか、極端なヘイトや無視に傾いてしまいがちですが、自分を保って交渉したり対話するのはテクニックなので、練習すれば出来るようになります。そういう教育も取り入れるといいと思います。だんだんと振り幅を狭くしてバランスとれるようになると日本も大人の外交が出来るようになるのではないでしょうか。偉そうに言ってすみません。

日本人はもともと謙虚すぎるくらい謙虚でそれを通り越して今は卑屈になってしまっているので、普通に、もっと自信を持ってよいと思います。

どの人種が上とか下とか、全然ないです。戦後、なぜ日本は徹底的に叩かれ、潰され、卑下され続けてきたのか。他国はそれほどまでに日本を恐れているという事。

戦後のプロパガンダや教育が日本に不利なように操作されていた(現在進行形ですが)というのは明らかだと思います。今後は、まず対等という意識まで持ってゆけるような教育は必要ですね。

(私も白人や外国人が上・・となんとなく思っていて、そこを克服するのに何年もかかりました。実際、「ええええ~、馬鹿なの?」と思うような事があっても、「いやいや、きっと自分の考えがおかしいのだろう」と必死で自分の間違いを探してたりしましたもん。卑屈を通り越して逆差別してましたねえ。迎合するのに慣れ切っていたので違いをそのまま認めるのは結構難しかったです。)



↓日本人として
(2019年2月10日)
味噌汁が片手鍋にほんの少しだけ残っていて、洗い物増えるしちょっとだけだからこのまま食べちゃう?お玉を器代わりにする?いやいやそんなお行儀の悪いこといかん、と数秒間の激しい葛藤の末、器によそって頂きました。

ふう、危うく超えちゃいけない一線を越えるところでしたε-(;ーωーA



(2019年5月6日)
物事を偏りなく認識・理解する力は努力無しでは得られないものだと思います。

自発的な人間というものは、大人になってから自力でなることは出来ますが、やはり教育は大事だと思います。

『偽りなき現実認識、広い世界的観点、冷静なる科学的認識、そして自主的態度の形成』

本居信長に足りなかった観点、その日本精神論を悪用して無辜の民を闘争と破壊へと扇動した明治以降の為政者達の間違い、そして自分の頭で考えることなく翻弄される大衆。今も変わらない構造ですよね。

日本精神とは何か、平和国家とは何か。
考えさせられます。


(2019年6月16日)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~kwatanab/Ztaikai/2013/chap-1.htm?fbclid=IwAR1zmGAC3XHaAX5m-IcS9wHJGNB_wgckShWcScvxkFEW61p9wha7LSk4dXI



(2019年7月8日)
人との関わりを断って(たって)ある程度の気付きを得て解脱する事は、人と接し日常生活を営みながら解脱する事の百倍容易いと思います。

厳しい修行よりも100冊の本よりも、人と直接関わって会話する事による気付きの方がずっとが大きいし血肉になる。現実に対処出来る自信がつくと精神的にブレにくくなる。

日本は色んな意味で密度がかなり高いので、本当にしんどいなあと思うことが多分ほかの国と比べて多いかもしれませんが、精神的な学びや成長という面ではとても恵まれた環境だと思います。

年に一度、2ヶ月程帰省するのですが、外と比較してみて本当にそう思います。

人は、人と関わり交流することによって人になる。今の時代は誰もが在家で2500年前の出家僧の気付きのレベルに達することが出来る気がします。日本はそのチャンスが多い宝物みたいな場所。



(2019年9月3日)
ひとくくりにするのも乱暴ですが、ざっくり言って日本人と日本人以外の人(主に西洋)の違いって、笑いと怒り、このふたつがポイントかなと思います。

こっちの人って、日本人の笑いのポイントが謎らしく、うっかり笑うと怒りだすこともあって最初の頃何度か面食らった経験があります。

日本人同士って、笑うのに理由がいらないんですよ。誰かが笑うとみんなに笑いが伝播する。何かをポロリと落としたとか目があったとかそんなレベルで笑っちゃうことって多いですよね。

でもこっちの人は、ちゃんとした理由がいるみたいで、理由もなく笑うと自分が笑われていると勘違いして怒り出す人もいたりします。(にっこり微笑むのは別。微笑みは万国共通かと。) 多分、対人関係の恐怖心がすごくあるんじゃないかな。

逆に、私が最初の頃分からなかったのが、こっちの人の怒りのポイント。世界一どうでもいいと私が思うような事でいきなりキレるので、最初はびっくりしました。今はポイントが分かるので怒らせるような事はしません。

文化交流とかって、こういう日常の感情に関わる違いをお互いに知ることも大事だよなあと思います。



(2019年9月21日)
いつも思うのですが、どんなに暑くてもきちんと服着てる日本人てすごく日本人らしいなあと思います。

あんなに暑ければ、ヨーロッパ人だと上はビキニ下はホットパンツとか、ほぼ半裸率がかなり高いと思う。



(2020年1月9日)
ひとりごとです。

なんか・・アメリカ人ってと一括りにするのもあれですが、日本人以外の人っていちいち言葉にしないと分からないし言葉を額面通りに受け取るから(相手を傷つけないように)言いにくい事をやんわりととか言葉を濁してとかいう時の雰囲気で察する事が出来ないみたいで、時々あーめんどくさい!ってなります。どうしてテレパシー使えないんだろう。(←そっち?

一応いいところも書きます。あれとかそれとか雰囲気とかでピピッと察する事は苦手みたいですが、状況とかを言語化するのは上手いなあと思います。道案内も言葉ですごくうまく説明するし、擬音とか使わなくてもああそういう状態ねと映像が浮かぶような言語での表現はへえ〜と感心します。日本人だと察したり絵に描いたりするところが全部言語なので、こういう訓練というか練習は国際社会では大事かもしれないとつくづく思います。



(2020年5月28日)
先日アフリカンアメリカンが警察の度過ぎた行為によって亡くなったことに対するプロテストがエスカレート。一部の地区で暴動や略奪が起こって、ミネアポリス市長がナショナル・ガードの出動を要請しました。(こういうプロテスト自体北米では結構あります。)

西洋が全てにおいてすすんでいる、模範とするべき、と日本を始めアジア各国では何となく思われていますが、それはどうなんだろうと思います。

確かに、一見ちゃんとした研究だったり学問だったり、西洋が進んでいるようには見えます。

でも、精神的にはかなり未成熟な社会なんじゃないかと思うことが多いです。

一見立派に見える自由とか友愛とか平等とか正義だったりそういうのも、裏を返せばわざわざ大きな声で主張しなければいけない状況がまずあって、だからこそ表に表して言わないといけないということなんじゃないかと。

私は、先日初めてアメリカで複数のカウンセラーさんと話をする機会があって思ったのですが、西洋的なカウンセリングって、浅い。どうして人の心の機微や、精神的な深い部分が分からないんだろうとすごく不思議に思いました。シロウトが何様かと言われるのは承知の上で書きます。勿論宗教的な背景もあるのでしょうが、浅いんですよ。1+1=2じゃないのに、これはこう、と、明らかな答えしか出さない。私の英語力もあるのでしょうが、複雑に絡み合った因と果みたいなものがよく理解出来ないというかそういう概念が無いのかな?と思うようなことが多いんですよ。

日本を離れて思うのは、日本人は精神性の深い人が格段に多いです。勿論全員じゃないですよ。

戦後の日本は〜とか明治維新後の日本は〜とかよく悪い意味で言われますが、あれは"文明開化"によって入ってきた西洋の未成熟な文明によってどんどん退化していってるんじゃないかと最近思うようになりました。

日本人の気質に全く合わない教育制度。日本人の気質と逆行する社会制度。

その歪みに耐えられなくて、日本人はどんどんおかしくなってきている。引きこもりって、ある意味自己防衛ですよね。この学校はこの社会は違う、間違っている、という魂の叫び。

いいとか悪いとかじゃなく、そう思います。

日本はもうそろそろ、西洋信仰は捨てて本来の良さを取り戻す方向転換をしないと。

ついでに書くと、西洋は目に見える触れるもの証明できるものを追求した文明で、日本は目に見えないものを大事にしてきた文明。

どちらも大事だけど、両者ともに一方にのみ傾きすぎてバランスを失っているように思います。

西洋は目に見えないもの(人の気持ちをおもんぱかったり、白vs黒の二極の考え癖を見直したり、見えないつながりを認識したり)を、日本は目に見えるもの(たとえば、言葉にして伝える技術とかに弱いですよね)を、バランスよく学んでゆくといいんじゃないかなと思います。

また話が大きくなりました。出がけでばーっと思うままに書いたので後で訂正するかもしれません。



(2020年7月6日)
文明開化により西洋よりもたらされた、特許や商標などの『所有する権利』という概念によって日本もどんどん毒された結果、民度も下がりましたね。(民度という言葉自体あまり好きじゃないのですが他にぴったりの表現が出ないので使いました。人間の品位が下がった、とでも言いますか。)

↓こういう行為は、はしたないと思う。

まだ昭和の半ば頃の話です。

私の父は、ある業界で新しい技術を考えて仕事上特許を取ることもあったのですが、その父から聞いた話。

業界でみんなが当然と思っている共有技術があって、当時そういうのは誰も所有権を主張したりしなかったそうなのです。マナーとして。

それが、ある時誰かがその、みんなが知ってて当たり前に使っている技術を特許申請・登録してしまった。

当時はまだまともな感覚の人が多かったので、そういう他を出し抜いて自分だけ利益を独占するような行為はとても珍しく、父はその卑怯さにものすごく怒っていました。

この記事で、その話を思いだしました。

なんかこういうガツガツした意地汚い行為は、日本人らしからぬふるまいに見えます。そんなこと言ってたらこの弱肉強食の資本主義社会では生き残れないと言われれば、そうですか、私はそういう社会はノーサンキュウって感じです。

現実的には、著作権とかパテントとか無視は出来ませんが、そもそも人間の活動で「自分が最初」とか「自分がオリジナル」とか、あり得ない話で。絶対に誰かがやってることなのに早いもんがちで権利を取り合うっていうのが、何だかねえって思います。

たとえ長年の研究の成果だったとしても、セイコーさんのクリスタルテクノロジーみたいに無料で使っていいよっていうやり方は、日本人としてとても誇らしいと思います。それと、忘れちゃいけないのがオープンソースのトロン。あれ、世界中の家電やら自動車やらロケットやら色んな所に使われてるんじゃないの?あれも日本人らしい精神だと思います。



(2020年9月4日)

(アフィリエイトじゃないです)

日本人は鎖国で甘やかされた幼児のようなっていうのは、今でもそうだと思います。

面白いのは、日本人だけの社会のままであれば多分、とても成熟した社会のようなものを築けると思うのですが、それが外部と交流しなければならなくなった途端にどうして良いのか分からずにフリーズしてしまう。それも長い自閉的生活に安住してきた後"開国"によって精神分裂症になってしまったと考えると納得です。

でもそれは違いへの対処法のスキルを磨けばどうにかなることなので、海外に出なくても子供達に教えることは可能だと思います。まずは親が人間として成熟自立すること、ですね。

私は若い頃、どうにかして精神的に自立したいと色々模索していたのですが、加藤諦三さんの書籍で目から鱗が落ちました。でも岸田秀さんが毒親という概念を出された方だったのですね。知らなかった。30年前の自分に教えてあげたい。

個人的に毒親という言葉と概念を一般化・社会問題化することには否定的ですが、次のステップへ踏み出すために勢いをつけるという意味で、一時的に使える場合はあると思います。そこから抜け出して成長しないと。



(2020年9月4日)
さっきの続き。

子供の育て方について。

とんでもないと言われそうですが、子供は産みの親が育てなければいけないというのは、そうなのかな?と思います。

大昔、誰も知りませんが、多分縄文時代あたりは子供は社会全体で育てていたんじゃないかなと思うのですよ。

親は狩猟採集や機織りやら色んな仕事で忙しく、子供達は子供達で手の空いた大人や現役を引退した老人が交代でまとめてお世話してたんじゃないかと。

江戸時代あたりまで多分、子供を含む家族というものの境界線って曖昧だったと思うのですよ。都市部においても長屋とかそうですよね。丁稚奉公や養子養女も割とおおらかだった。

それが戦後核家族化がすすんで、母親の役割父親の役割子供の義務がどんどんおかしな方向へ行って今の家族制度というものはとてもとても病んでいるように思います。

子供は親の所有物であるという考え方も疑う人は少ないですが、それっておかしいですよね。

勿論命を繋いでいただいたことに関して両親含む先祖への感謝は大事ですよ。でもそれが子供への一方的な押し付けになると間違えると思うのです。

今の病んだ教育システムは、核家族化による子供の所有化、それによる親の歪んだべき論や期待、感情による虐待だと思います。

母性とか父性とか親の愛情とかそういう曖昧なものを「親だったらあるはず」と断定することの危険性も、子供を育てたことのある多くの方は薄々感じているのではと思います。

理想としては、洗脳とか悪いこと企む人がもしもいなければ、子供は親が育てないというシステムの方が余程健全なんじゃないかと思う事があります。

加筆するかもしれません。



(2020年9月27日)
今朝ガガイモのニュースからスクナビコナノミコトの名前を思い出したら、これを読み返したくなりまして。本棚から取り出してきました。

大国主の子孫が口伝で受け継いだ出雲側の歴史物語。ほぼ恨みつらみ😅

出雲族の方が天孫族よりも正統性があるけど、数の力で負けてしまったという話や、薩摩の大隈は大国主の血筋という話もありまして、あんまりよく分からないながらも出雲関係はなんとなく読んでしまいます。

神々と呼ばれてはいるけど人間同士なので、やっぱりドロドロの奪い奪われの争いはあったはずで、国譲りとかそういう綺麗事ではなかったのでしょうね。

どちらの側から話を聞くかにもよりますね。水木しげるさんの漫画も面白かったです。

それから、【渡来人】って、一般的に思われている半島人ということではないようでして。世界各地に住んでいた日本人が、どこを経由して帰ってきたかによって系統が違うだけみたいです。

もしかすると、今のエジプトがエジプト文明を築いた人の子孫とは限らないですし。その辺りは先日のバイキングのニュースのように、DNA鑑定とかで分かってくるかもしれないですね。

今の地理の先入観を外してみると、日本の歴史も他国の歴史も全然違うのかもしれませんね。



(2021年1月29日)

利他の精神

日本人の道徳感

そうです。行き過ぎないよう、程よいバランスが取れるのが、本来の日本人の気質だと思います。

もうそろそろ、西洋の幼児性と偽善独善に満ちたやり方をありがたがるのはやめましょうよ。

西洋に倣って大声で自分の正義を叫んだり他を糾弾したり、我の主張をすることが、どれほど日本人を劣化させているか。

わざわざ声をあげなくても、スルーして良心の思うところに従って黙して行為する、それだけです。そして煽動・支配したい人達にとって一番厄介なのは、そういう人達ですよ。

「一配慮・一手間」

を、個人で黙して行為する、それが日本人らしい気質だと思います。

誰かと一緒にとか、みんなもそうするべきってなると同調圧力で全体主義や自粛警察に繋がる。

自分のことばっかり大事で自分以外に対する不平不満が多いと、ブラックだのなんだのという破壊のエネルギーが大きくなる。利他の精神がどんどんなくなってしまっている。

あくまでも行為はひとりひとりの自己完結した良心で(利他の精神で、見返りを求めないということ)。そういう人が集まって、成熟した社会は出来るんだと思います。

北米のこの未熟で粗暴な社会の一面を見てつくづく思います。何でもかんでも西洋を有り難がるのはやめて、反面教師にしないと。

日本人はそろそろ本来の日本人気質に戻りましょうよ。

この記事で使われている、目をむいて声を張り上げ主張するプロテスターの写真の醜悪さ。多分これを日本人がやってたら、違和感感じる人多いと思う。日本人はここまで劣化しないで欲しい。


(2021年2月16日)
何が日本人らしさを作るのか。

まずは、日本語。

人間の性質というものを形作る要因のひとつは、言語にもあるんじゃないかと思います。

必ず主語をはっきりとさせる英語は、文法的に自我が肥大しやすく責任の所在をはっきりとさせないと成り立たないので、・・まあ大体は『自分』は悪くないということをはっきりさせるために強調される訳ですが・・、そういう言語を生まれた時から使っていると自己保存・自我我欲が育ちやすくなるんじゃないかと思います。

日本人の話し方は曖昧とよく言われて、外国の人からはビジネスでは不評ですが、あれは『誰か』を糾弾するのではなく責任の所在を曖昧にするという智慧であり、あなたも私も似たようなもん、お互い様というのが根底にある、愛ある表現だよねと思います。使い方によっては逆にもなるので、バランスは大事ですが。

日本人本来の美徳って、

耐え忍ぶこと

・・我慢ではなく、忍辱(にんにく)。

己(の欲)に打ち勝つこと

利他の気持ち

お互い様という考え

頑張り通す力

だと思うのですが、最近そうじゃなくなってきている。我慢できない、不平不満が出やすい空気が充満している。それは何故なのか。

まず、この世界は、現実的に見てはっきりと認土(にんど)であるということを認めることが大事なんじゃないかと思います。

そこを否定して、嫌なことには目を瞑り、楽しいこと美しいことのみを求めることこそが苦悩を生み出していると思うのですよ。

根性論、いいじゃないですか。古くは巨人の星から鬼滅まで、やっぱり日本人の強さしなやかさは、苦難の中で魂を鍛えて強くすることから育まれるんじゃないかと思います。

天災が多いというのもそうですね。人間のちっぽけな力を超えた、どうにもならない大きな力。それは何度も何度も立ち直るしかなく、地震や台風の多い日本は、自然にも鍛えられている。

よく喩えられるように、鋼は熱して何度も何度も打たれては急激に冷やされることによって強く粘り強くなる。

魂を強く丸く育てること。

それがやっぱり大事だよねと思います。

そう考えると、今は人生の荒波を超えてゆく強い心を育むチャンスですね。



(2021年2月25日)
(こういう類の、身内をけなすような事を公の場で言ったりするのって日本人特有じゃないかと思うので、このカテゴリーに入れました。)

何が言いたいのかよく分からなかったコラムだけど、ひとつ違うよねと思ったのは、高齢者なのに、じゃなくて高齢者だから大きな音を立てるんですよ。

引き戸・・特に雨戸などを静かに立て閉めするには、かなりの腕力が必要で、筋力の落ちた腕では勢いをつけないと物は動かせない。

歩くのも、物を持ち上げたり置いたりする時も同様に、筋力がないと静かな行動は出来ないと思う。体験からそう言えます。

加えて、耳も遠くなるので自分の出している音のボリュームが分からないんじゃないかな。

でもまあ、元気だったらそれでいいじゃないですか。と思います。

あと、こういう身内をけなしたり下げたりする愛情表現のスタイルは、多分日本独特のものだと思うのですが、あんまり好きじゃないです。関西系のお笑いの影響なのかな。このスタイルは日常の至る所で散見されますよね。



(2021年3月25日)

この方のコラム、面白いです。本も読もうかな。

日本の女性は若さに価値が見出される。

この価値観、別に海外がどうとか全く関係なく、子供の頃からずっと苦手です。

何故若さが異常なまでに評価されるのか。

地元のラジオ番組で、割と歳いった夫婦が外出先で親子と間違われた、というエピソードが紹介されるお便りコーナーがありまして。勿論奥さんが娘に見られたというパターンです。

あれ、何というおぞましいことを嬉々として話すのだろうとぞぞぞ〜っとしてたんですよ。

あと、娘と姉妹に見られるというパターン。

いやもう、気持ち悪くてしょうがないんですが。

老女が若い娘さんに間違えられて喜ぶ姿って、ホラーでしかないです。何故若いことがいいことなのか。全く理解不能。

年相応に成長した姿でいいじゃないですか。皺だらけでも白髪あっても、年齢をちゃんと重ねて凛としている人はかっこいいと思います。

自分自身は、早く実年齢精神年齢共に大人になりたくて、常に10歳ぐらい上を目指してるのですが、まあそれも実年齢よりも上に見られたいという異常な願望ではあるのかもしれません。

これ、もしかすると私の母から影響受けたのかも。彼女も、若作りの年配の女性にはジョークですが「ババお嬢様」と辛辣なので。ぶりっ子も嫌いです。

パパ活っていう言葉も、聞いたことはあるけど非常に特殊なごく一部の人が使ってるんじゃないんですか?普通なの?



(2021年3月27日)

江戸時代までの日本の家は【社会】だった。

この観点で見ると、会社と家庭での女性の役割が自然と同じになっていった日本の社会の特殊性が納得できますよね。

個人的には、西洋の価値観で日本の社会を判断することは、もう確実に分断と争いを生むことになるので、日本独自のシステムで進化すればいいんじゃないのかなと思います。

お茶汲み問題だって、権利とか契約とかそういう話でやってくと闘争になっちゃうのは当然だし誰も幸せではないですよね。

西洋から輸入した価値観(人種差別、性差別なども)でそのまま日本を判断することは無理だと思います。

日本は日本のいいところを伸ばす方向で、これまでにあったいい点にもっと注目すればいいんじゃないかな。日本社会って、西洋の価値観が善だと思われる以前は、世界でも稀に見る女性や子供に寛容な社会だったんじゃないかと思いますよ。

ついでに書くと、家庭が社会だったということは逆に言えば社会が家庭と同等というのも成り立つわけで、昭和の時代の会社社会主義とも言える仕組みはとても人間に優しかったと思います。

権利を主張するということは、一方で失うものもあり、今会社が西洋と同じように弱肉強食実力主義の競争社会になってしまっているのも、ある意味私たち自身が選んだことですよね。

ガラパゴスでいいじゃないですか。

親の介護の記事だけどちょっと脱線。

今日本に存在する『弱者の苦しみ』は、日本社会のこれまでの価値観と新しい価値観の相違から生じる苦痛もかなり大きいと思う。当然と思って普通にやってたことが、外側の価値観でそれはおかしいと言われた途端に苦痛になることって案外多いですよね。

勿論精神論を話してるんじゃないです。社会のシステムが新しい価値観に合わないことによる物理的な大変さもあります。問題は、西洋思想や老若男女、多様な価値観に振り回されてどっちつかずになってしまっているところからも来ているんじゃないかな。

かと言って老人は引っ込めとか若者は黙ってろとか言うのも乱暴で、民主主義社会は難しいですね。


(2021年3月31日)
とりとめのないひとりごとです。

ヴァレンティノがプロモーションビデオについて謝罪していた件、日本人の感覚って何だろうと考えさせられました。

“普通の”日本人の感覚だったら、室内で土足とか帯っぽい布の上(帯っぽくなくても外に敷かれた布の上を)土足で歩くとか、出来ないし撮影現場で強烈に違和感を覚えるんじゃないかと思うのですよ。

あの子はもしかすると仕事と思っていたのか何も感じなかったのかは分かりませんが。

でもその“普通の”日本人の感覚、たとえば遺体やお骨に自然に手を合わせるとか、他人の前を横切る時に身を低くするとか、道路を渡る時に停まってくれた車に気を遣って小走りになるとか、畳のへりを踏まないとか布団の上を歩かないとかそういう外国ではあまり見られない感覚って、どこから来ているのかというとやはり育った環境ですよね。

小さい頃からおじいちゃんおばあちゃんと一緒に生活している子は、教えられなくとも見てそういう感覚を養っていけますが、核家族が代々続いたり、親が子供の頃から親元を離れてしまった人達に育てられたりしたら、そういう日常の日本人の感覚はそのうち無くなってしまいそうです。

若い頃は私も本当に非常識で、あ、間違った。今もそうです。これじゃいかんと作法の本を読んだりして一般常識を一生懸命勉強したので、家庭で受け継がなかった人は積極的に身につける努力をしないといけないことなのかもしれませんね。それともそういうのはもう古い考え方なのか。美しいと思うのですが。

本人への批判はしないけど、所属事務所とか何も言わなかったのかなってちょっと思いました。



(2021年5月5日)

書籍からの短い抜粋ですが、ここに書かれていることは大事なところだと思います。

人間が理解し合うためにはスキルが必要で、日本人は一般的に言ってそこが非常に弱いと痛感します。

日本人だけで鎖国状態ムラ状態で出来上がった察する文化、空気を読む能力が長けている人が多かった時はそれでもやって行けたのでしょうが、個人が切り離されてしかも多様化している現代社会では、コミュニケーションのスキルを得ることはとても大事だと思います。

スキルなので誰でも習得可能。どの国の人が優れているとかそういう括りではなく、違いは多分コミュニケーションのスキルがあるかないか。

表現することが出来ないから違いが恐怖になる。相手が正しいか自分が正しいか、負けるか勝つか、支配されるかするかの二択になってしまうので壁を作って拒絶・断絶する。

自分を理解して表現し、違いを見分けて話し合う、お互いを理解して歩み寄るためのスキル。その適切なツールを持てれば、自分を必要以上に守るために他を拒絶する必要もなくなる。

自分の殻に閉じこもるだけじゃない解決方法は沢山あって、そのひとつとしてのスキルがある、と知ること。まずは第一歩としてそこが大事。そう思います。

個の自立とは、ひらかれたコミュニケーションの中にあるもの。

ついでに書くと、引きこもりがちな人はプライドの高さ(自己認識が出来ていない可能性もあり)と現実処理能力スキルの無さにあると思います。そこを訓練すれば治ると思う。神頼みじゃ絶対に変わらない。



(2022年5月28日)
日本ではこれ、昔はありましたよね。出来の良い娘婿に跡目を継がせる。二代目がバカ息子で財産を食い潰して家を潰しちゃうっていうのを防げる。

(これっていうのは、2018年に書いたこの雑文。以下、コピペ)
〜・〜・〜・
『古代エジプトでは王位継承権は王の娘にあった』という説は古い説で今は否定されているということですが、本当ですかね。

以前の説だと、王の娘に継承権があるのでその夫がファラオとなる訳ですが、実際は長男が形式だけの結婚をしてファラオとなるケースが多かったそうです。(このことから古代エジプトでは近親相姦だらけだったという人もいますが、こういう形式上の結婚で実際の後継を産むのは側室だったそうです。)

王が亡くなった後に継承権を持つ娘がいなかった場合は、今度は未亡人となった妃が息子と形だけの結婚をする事もあったそうです。

例えば、アメンへテプ3世は亡くなった時に娘がいなかったため、妃のひとりネフェルティティが、正妃と亡き王(夫)の間の長男(ネフェルティティにとっては義理の息子)と結婚し、めでたく長男がファラオアメンへテプ4世となる訳です。

王族とか血筋とか男系がどうのとかいうのって、今私達が思い込まされている“正統性”っていうのは、歴史上ずっとそうだった訳じゃないんじゃない? とか思うんですよ。

娘に王位継承権があった理由のひとつが、息子が王(為政者)の器じゃなかった場合でも娘の方に継承権があればどこからか王にふさわしい婿養子をとることができるから、というのがあるそうですが、それっていい知恵だと思うんですよ。父親が優れていても息子はそうとは限りませんからねえ。

だから、もしかすると昔の王族とかは本当にふさわしい人がなればいいというのが大事で、血とかそういうのは重要じゃなかったのかもしれませんよね。想像ですが。

そして『偉大なる王妃』が産んだ子供は全て神の子ということで、(たとえ王妃の愛人の子でも)ファラオの子供とみなされていたという説もあるみたいなので、父親の血はさらにどうでもよかったのかもしんないですね。

でもそういう事を認めちゃうと、今の王族とかまあそういう血統を大事にする人達にとってはすごく都合が悪いですよね。だからそういう説は間違いだったと訂正されてるんじゃないかということもちらっと思います。

でも専門家じゃないので分かんないですよ。鵜呑みにしないでくださいね。

諸説あるようなので、どれが正しいのかは分かりません。
〜・〜・〜・

家督もそうだけど、世の中って家父長制度ではなく家母長制度の方が色んなことがうまく回るんじゃないかと思っています。

嫁姑問題も無くなるよねきっと。(固執するような事でも無いとは思いますが、ファミリートラディションという名の“我が家流のやり方”を継いでゆくのは、そういうことを母親と一緒に実際にやってる娘が継いでいった方が理に適っていますよね。息子の嫁に対して姑からの味噌汁の具とかくっだらない世界一どうでもいいような物言いも無くなるしね。)

冬彦さん(?の人は検索してね)や息子に執着する気持ちの悪い母親も、家父長制度廃止したら減るんじゃないかな。逆に娘に異常に執着するような母親が増えたりして。まあそういう人はどんな状況に於いても論外ですが。

育児も奥さんの方の女性が協力し合えば楽だし。類人猿とか動物の社会では割とそういうのはありますね。


(2022年6月23日)

伽耶から日本人の高貴な(高い地位を持つ)人物の遺伝子を持った人がいたという研究。そりゃそうでしょう。

いつの間にか歴史の教科書から消されていた任那日本府。

任那が無かったことにするのは、もう無理でしょう。

弥生人・弥生文化という嘘、黄河文明という文明の疑わしさ、漢字や稲作を始めとするいわゆる『文明』が中国から伝わったという点も疑わしくなっていることも証明されつつあります。

縄文文化が世界最古の文明だったということは、多くの研究から信憑性が非常に高いにもかかわらず無視され続けています。

アカデミックから排除・無視されている研究には理由があるよね。

全て書籍等で書かれているので、興味のある方はご自分で調べてみて下さい。コメント欄での議論は不毛なのでしません。


(2022年7月31日)
経済的な貧しさと心の貧しさは比例しない

それが日本人



(2022年8月30日)

同意。

約2680年といわれる皇室の歴史を、たかだか数十年で変化した価値観、その時々の情勢(流行)に惑わされて変えることの危うさ。

伝統というものは、継続する事が最も重要であって、もしも先例に無い事をやってしまうと、これまでの全てがリセットされてしまう。

そして記事中にもあるように、男系男子を守り抜いたことによって『易姓革命』を防ぐことが出来た。男系を守るということは、女性蔑視ではなく、その逆で男性排除の意味を持つこと。だから藤原家がしつこくしつこく皇室に入り込もうと長年に渡って嫌がらせを続けたんですよね。

【先例、男系、直系】

が、皇室を語る際には重要と、倉山満さんもおっしゃっていますが、その通りと思います。

自分達の世代で、千年を超える歴史を積み重ねてきた日本の歴史をリセットしてはいけない。言い換えれば、取り返しのつかないことは迂闊にやってはいけない、ということです。

これだけ長い年月、守り抜いてきたことには重要な理由があるからだと思います。

そして、世界最古の日本の歴史(イコール皇室の歴史)を自国の物にしたい国はあると思います。女系を認めればそれが可能に。

未来に禍根を残すような先例や変化はだめ。


(2022年9月27日)
何度でも言いたいこと。

渡来人イコール半島人っていうのがまるで史実であるかのように語られていますが、違うんじゃないの?って思います。(以前シェアした記事で、半島の“高貴な人の墓”に入っていた遺体のDNAが日本人だったっていうのも)

渡来人って、日本へ帰ってきた日本人、かもしれず。

日本人が海洋民族で、かなり昔から世界中に進出していたということも言われていますよね。少なくとも3000年前から鉄を加工して使っていた日本。当時世界の中でも高度な文明を持っていた可能性大ですよね。

現代の地理や科学技術のレベルから“みなす”のではなく、もっとフレキシブルに考えると事実は異なるのかも。

今のアカデミックでBanされている研究者達の声が認められる日は近いかもしれません。自分が生きてるうちにそれが起こるといいなあ。



(2022年12月27日)

古典を読めなくすることは、精神の成長を妨げること。流行りのキャンセルカルチャーと同じメンタリティ。

古典を読めなくさせると新しい(エセや捏造も)情報を刷り込むのが簡単になりますよね。それで利するのは日本人じゃない。

日本にある、蓄積された豊かな文化や精神性を知られたくない、日本人を劣化させたい人達は反対するんじゃないの?

いい例がお隣の国々。

記事中の、

“文章を正確に理解するには文法の知識が必要だが、「已然形+ば」と「未然形+ば」の違いがわかったり、「ぬ」の識別ができていたりすれば、あとはどんどん実際の文章を読んでいくことで自然に理解できるようになる。”

“江戸から明治までの平易な古文をざっと読み進められる訓練も必要だろう。”

というのは大事だと思う。とにかく読む。どんどん読んで慣れると、本来使われていた漢字も覚えるし、せめて明治時代の文章くらいは読めた方が人生豊かになると思います。



(2024年8月9日)
日本が大好きで日本に住みたい、という外国人は大勢います。

日本は、綺麗だし食べ物も美味しいし病気になっても安心して病院へ行けるし普通に外を歩けるし襲われたり殺されたりする心配もないしどこもかしこも綺麗だし何もかもきちんとして、世界で最も住みやすい国のひとつだと思います。文句言う人は、日本以外の国がどれほど汚いし優しくないかを知ってるのかな。

そんな日本に住みたい人が沢山いる。それは何故なのか。

日本には日本人が住んで日本人がそういう国を作り上げているからです。

今の日本に、本当の日本人がどれほどいるのか分かりませんが、国の政治を動かしている人達の多くは、日本人ではないんじゃないかと疑ってしまいます。

差別じゃないですよ。明らかに日本の国益に反して日本人の為にならない事をする人達は、日本人じゃないと思う。

日本が日本らしくあるのは、日本人が住んでいるから。それは、場所が変わってもそうなのだろうと思います。

たとえば、今の地図上の日本という場所から日本人がいなくなってしまったら、そこはもう外国人が移住してきたくなるような場所ではなくなると思います。

だって、彼らが憧れてやってくる日本は、台風、水害、地震、津波、火山の噴火などの自然災害がいつきてもおかしくない場所だし、その厳しい自然と共に生きてゆく覚悟と智慧と技術を持たないといけない。

今の美しい日本を保ち続けることが出来るのは、日本人だからです。

どこに根差してもそこでまた何千年の歴史を紡ぐことが出来る。それが日本人、そして日本。

そこに、日本を日本たらしめる重要なファクターは、ここに記す必要はないと思います。(誰もこんなとこ読まないと思うけど、ネットは結構変な電波が飛んで来たりするのでボカします。すみません。)


出生率が下がって日本人は絶滅するとか言ってる人もいますが、そうかなあと思います。

他の所にも書きましたが、労働人口の減少はAIで補える分野は沢山あるし、ほんの数百年前までは今よりもずっと少ない人口で完全自給自足していたじゃないですか。まあ生活様式は全然違うけど、もしも今日本が外国からの輸入が無くなったとしても、創意工夫とテクノロジーで何とか出来てしまう気がします。日本人ってそう。

労働人口イコール経済力っていうのは、もうひと昔前の常識で。人間しか出来ない労働って、今の時代、もしかすると意外と少ないんじゃないの?って思います。



(2024年8月8日)
ここ数年、いつも息子がピアノで弾いて朗々と歌っている曲。

日本のこの頃の歌って、気持ちが上向いてよっしゃーとやる気の出るメロディが多いですよね。歌詞もめちゃくちゃかっこいい。うちの子、軍歌とかも好きでよく歌ってます。

今こういうこと言うと、極右とか言われるんでしょうか。「あおげば尊しの歌詞が現代にそぐわないから卒業式に相応しくない」とか言う方がよっぽどおかしいと思いますが。



(2024年9月27日)
自民党総裁戦の結果に思うこと。

どこから目線で言うんだと思われるでしょうが、今はこの結果がむしろいいと思います。

まだまだ機が熟していないんだと思います。まだ中途半端なこの状況では、混沌に押されて大事なことは何も出来ずに終わってしまいそう。今このタイミングでの真打登場は、時期尚早だと思います。勿体無い。

もう、とことん落ちてどん底になって、にっちもさっちもいかない所までならないと。

腐った林檎はほっといてもそのうち落ちて朽ち果てるので、その時こそがタイミングなんじゃないのかな。

そしてその頃は他国の役者も揃ってきてるんじゃないかな。タイミングって大事。



(2024年9月28日)
高市早苗さん。
彼女については、以前こんなことをつぶやきました。

長年男性が仕切ってきた社会は、やっぱり男性のルールでなければ村八分にされてしまうことって多いですよね。

男性社会の、同じ釜の飯を食った仲間とか土下座文化とか“腹を割って話す”ことなどで仲間意識を育てて結束を固める、みたいな泥臭い風習って、やっぱりまだまだ根強く残っているんだろうと思いました。

本来であれば、為政者にはそういう感情の部分は無い方が日本のためにいいと思うのですが、現実は違うようで。男性社会である以上は派閥とか無くならないのだろうと思います。

その点、女性は案外徒党を組まない。ひとりで闘う強さがあると思います。

一国の首相としては、そういう義理人情とか面子とかのしがらみの無い人の方が毅然とした態度を期待出来そうですよね。内外にソンタクしすぎるあまり迷走されても国は守れない。

まずは、政治家さん方の村ルールを無くすことじゃないですかね。為政者同士誰が誰に好かれようが嫌われようが、世界一どうでもいい。

そんな世界一どうでもいい村社会で、彼女は色々とどうでもいいルールを批判されながらも善戦されたと思います。




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