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【連載小説】 オレンジロード17

夕食の後、僕は部屋に閉じこもった。
机の上には、佐藤がくれたメモが広げてある。
四つの丸のうち、最後のものには赤い丸が重ね書きしてあった。

僕の自転車に纏わる事件は火曜日の夜に起きた。
それを時系列に並べればこうなる。
まず、午後六時四十分過ぎに橙色の自転車が盗まれた。そして午後七時十分頃、線路内に放置された僕の自転車が発見され、その結果、電車には四十分程度の遅れが生じた。

電車が止まっていた午後七時三十分頃に、片山さんの奥さんはショッピングモールで青色の皿を購入している。
片山さんの家からショッピングモールまでは、車で三十分はかかるから、奥さんが家に戻った時刻は八時を過ぎていたはずだ。
その頃、片山さんは止まったままの電車の中でイライラしていたのだ。

奥さんは、青色の皿を割ってしまい、ご主人が帰るまでに新しい皿とすり替えようとした。だが、時間が足りなかった。
そこで、家の近くにあった僕の自転車を盗み、それを線路内に放置した。電車を止めることで、片山さんの帰宅を遅くし、時間を稼いだのだ。

しかし、この仮説には大きな欠点と腑に落ちない点がある。
欠点は、片山さんの奥さんには、自転車を運ぶ時間がなかったことだ。
奥さんがショッピングモールの雑貨店に姿を現したのが午後七時半頃。鳥のように空でも飛ばない限り、七時十分に犯行現場となった線路に行くことはできない。

腑に落ちない点は、片山さんがいくら大切にしていた皿だといっても、割ったことを正直に打ち明ければ、許してくれたのではないか、ということだ。
自転車を放置するという犯罪に手を染めてまで、皿をすり替える必要があったとは思えない。

もしかしたら、僕にはわからない、夫婦の問題がるのかもしれない。
健太が口にした「男と女は難しい」という台詞が頭の中に浮かんでは消えていく。
父と母にも、僕の知らない問題があるのだろうか……。

いずれせよ、時間が経てば答は出る。
奥さんは、違った皿を買ってしまったのだから。
あれほど、皿を大切にしていた片山さんが、見間違うはずはない。

これ以上の詮索は、止めるべきだろう。
自転車が戻らないのは残念だが、他人の家をかき回す真似はしたくない。
学校で疑われ続けるのは癪だが、人の噂など長くは続かないだろう。

「真一、お友達が来ているわよ」下の階から母の声が聞こえてきた。
時計の針は午後八時二十分を指している。
こんな遅くに友人が訪ねて来たことはない。誰だろう……。
まさか、白川流菜じゃないよな。
僕は一握の不安と期待を抱きながら階段を駆け下りた。

玄関には、学生服姿の佐藤の姿があった。
俯いているせいで、小さな体が、いつもより小さく見える。
「どうしたの?」
僕の問いに、佐藤は顔を上げたが、口は開かない。黒い瞳が、思い詰めたように小刻みに揺れている。
「あがれよ」
佐藤は小さく、たが強く首を横に振った。
「それなら、外へ行こうか」
僕と佐藤は公園に向かった。
佐藤は一言も発しない。僕は二人分の足音を聞きながら歩を進めた。

公園には誰の姿もなかった。
土の湿った匂が鼻孔を刺激する。
枯れた植物に雨水が混じったように匂いは嫌いではない。

僕たちは、一人分のスペースを開けて、ベンチに並んで腰を下ろした。
遠くから、車のクラクションの音が聞こえて来た。人の声は聞こえない。
僕は、佐藤の口が開くのをじっと待った。

「線路に……置いてこようと思ったんだ……」
僕は息を呑んで、佐藤の横顔を見つめた。白い頬は夜の闇に沈んだように灰色に染まっている。

「伊部の自転車を……」
佐藤は足元に視線を落とし、肩を震わせた。
「でも、できなかった……度胸がないんだ……情けないよ……」
「仕返しのため?」
佐藤は、弱々しく顎を引いた。

「いつも馬鹿にされて……。あいつらは、いじめられる側の気持ちなんて考えたこともない。だから、仕返しをしてやりたかった」
小さな体から洩れる声には涙が混じっている。

「もう、いじめは、なくなったんだろ?」
「うん……。でも、忘れられないよ。あんな酷いことをされたんだ。それに、今は僕の代わりに、高見沢君がいじめられているから……」

佐藤の心を抉った痛みは、ずっと続いているのだろう。
僕の心だって、そんなに強くはない。いじめられるのは嫌だ。毎日、学校で伊部たちの姿を平気なふりをして見ているだけなのだ。
怒りと憎悪は膨らみ続け、いずれ、はち切れるかもしれない。
そうならないようにと、「たいしたことじゃない」と自分に言い聞かせている。それだけのことだ。

「線路に自転車を放置した事件があったから、あいつの自転車を線路に捨てて、めちゃくちゃに壊してやりたかった。上手くいけば、犯人として伊部が疑われるかもしれなし……」
弱々しかった佐藤の声は、いつの間にか熱を帯びている。

僕と佐藤は、いじめを受ける側の気持ちを知っている。
先生に相談はできない。親にも心配をかけたくない。できれば、いじめられている事実を、誰にも知られたくない。
同情されるのも嫌だし、弱い人間と見られるのも辛い。

「そんなことは考えちゃダメだ。絶対にやってはダメだぞ。それをしたら、伊部たちと同じになってしまう」
口を閉じると、二人は静寂に包まれた。
虫の音が、いつもより物悲しく感じるのは、なぜだろう。

佐藤が呟くように言った。
「どうして、いじめなんてするんだろう……」
「きっと心に隙間が空いているんだよ。その満たし方を間違えているんだ」
いじめも、自転車による電車の妨害も、心の隙間を、外界の喧騒で埋めようとしているだけなのだ。
人が苦しんだり、困ったりする姿を見ることで、自分の存在を確認する。
そんなことをしても、心の隙間は決して埋まらないのに……。

「佐藤、もう少しだけ頑張ってみろよ」
僕は、自分に言い聞かせるように、その言葉を佐藤に向けた。
佐藤は、返事をしない。石膏像のように固まったままだ。

やれるべきことはある……。
僕は胸の中で呟いた。

オレンジロード18へ続きます。

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