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【連載小説】 オレンジロード20

土曜日の午後、ホームルームが終わると同時に教室から飛び出した。
こんな日に限って、橋本先生のお説教が長引いたのは不運としか言えない。

伊部との対決の後、エロ本が机の中に入っていることはなく、靴が行方不明になることもなかった。一時的なことかもしれないが一安心である。
また、嫌がらせが始まったら次の手を考えるだけだ。

佐藤も少しだけ変わった気がする。伊部たちの姿を見ても、おどおどする場面を目にすることが少なくなった。
でも、僕にはわかる。佐藤の心の中には、苦しさと怖さが渦巻いていることを。そして、自分の力で乗り越えようとする気持ちが芽生えたことを。

開き直った人間は強い。
佐藤にも吹っ切れたものがあるのだろう。
人の強さは、腕力だけではないのだから。

物理の新田先生が高校時代に、いじめに遭っていたというのは初耳だった。
授業で本人は、他人事のように淡々とその話をした。
先生は、このクラスでいじめがあったことに気づき、あんな話をしたのかもしれない。「心の隙間の質量」については、まだ、答えを教えてくれないが、卒業するまでには聞き出したいと考えている。

自宅には、父、母、弟の三人の姿があった。
土曜日の昼過ぎに父がいるのは珍しい。いつものことながら、仕事がなくなったのではないかと心配になる。

階段を駆け上がって自分の部屋に飛び込むと、急いで学生服を脱ぎ、ジーパンを穿き、紺色の長袖のシャツに腕を通した。その上に、青いジャンパーを羽織る。
普段は学生服で事足りるから、私服はほとんど持っていない。
鏡に映った姿は、イケているとは言えないが、悪くはないだろう。

ドアのノックがして、「何?」と声を上げると、控え目に扉が開いて、父が入って来た。
「カッコいいじゃないか」父は口許に皺を浮かべて微笑んでいる。
父が、僕を持ち上げることは珍しい。つい、よからぬ想像をしてしまう。
「仕事がなくなった」と告白するのではないのか、と不安になる。

「何か用?」口から出た声は少しだけ掠れていた。
「『幸福を呼ぶ橙色の自転車』の話しを覚えているかい?」
「うん」僕は、探るような目つきで、笑みを浮かべたままの父の顔を見た。

「父さんが、真一と同じくらいの年の頃、夕陽の中を自転車で走ったことがある。辺り一面、橙色に染まっていて物凄く綺麗だった」
父さんの視線は、昔の想い出を探すように宙をさ迷っている。

「そのとき、隣にはもう一台の自転車が走っていてね。二人とも橙色の世界に吸い込まれているような錯覚を覚えたんだ。別世界にいるようで、いつもなら口にできないような台詞も言えたんだ」

僕は口を結んだまま、父の次の言葉を待った。
いくら待っても、父はその続きを話そうとしない。
口許には笑みが貼り付いたままだ。

その笑顔を見ていると、僕は急に恥ずかしくなった。いや、その表現は正しくない。嬉しいような、それでいて、知ってはいけないような、そんな複雑な感情で、僕の頬は熱くなった。
若き日の父の隣で、自転車を漕いでいたのは女の子に違いない。

「あの橙色は幸せを呼ぶ夕陽色なんだよ」
父は、ふふっ、と笑いながら部屋を出て行った。
少女のような笑い方は中年男には似合わない。少し、不気味である。
街ですれ違った見知らぬ男が、そんな笑みを浮かべていたら速攻で逃げ出すところだ。

それでも、父と同じ血が通っているせいだろう。不快ではない。
体の奥から、くすぐったいような感覚が沸き上って来るのを、僕はどうすることもできなかった。

ズボンの後ろポケットに財布を突っ込み、階段を駆け降りた。
居間を覗くと、示し合わせたように三人が顔を向けた。
みんな平静を装っているが、どこかぎこちない。
父が手にしている新聞は逆さまだし、母はフォークでカップの中のコーヒーを回している。

母が「財布は持ったの」と訊き、父が「車に気をつけろよ」と言った。
健太は、口を少し開けたまま、僕に向かって拳を握って見せた。
どうやら、僕の極秘計画は、家族全員に知られていたらしい。
もちろん、その情報源は、弟の健太だ。

僕は頬を膨らませて、三人から視線を逸らし、玄関へ向かった。
三人が付いて来る気配がないことに、口の端から安堵の息が漏れた。

音を出して玄関扉を押し開き、橙色の自転車に近づく。
まだ、新しい鍵には変えていない。
母の照れた顔を思い出しながら鍵を外し、サドルの下に巻き付けた。

秋の空は薄い雲に覆われ、その隙間から青色が覗いている。
「よく見ると、味のある自転車だよな」
振り返ると、学生服姿の小早川がニヤリと笑っていた。
彼の笑顔を見るのは初めてだ。

「気がつくのが遅いよ」僕は微笑みながら言い返した。
「今日、うちに遊びに来ないか。ゲームならいろいろあるんだ」
「ごめん、これから野暮用があるんだ。来週なら、大丈夫だけど」
「じゃあ、来週にしよう」
肌寒い風が、火照った体を冷やしていく。とても気持ちがいい。

「兄ちゃんに、手を出すな」玄関から甲高い声が響いて来た。
足音を響かせながら、口を尖らせた健太が駆け寄って来る。
健太は僕の前に立つと、顎を突き出して、長身の小早川を見上げた。

「兄ちゃんには、大事な用があるんだ」
健太は小さな体を背伸びさせ、小早川を睨んでいる。
「健太、止めないか。兄ちゃんたちは、喧嘩をしていたわけじゃないんだ」
健太の両肩を手で掴んだ。細い肩は、小刻みに震えている。

「ごめんな。こいつ、勘違いしているみたいだ」
僕は、小早川に向かって頭を下げた。
「弟か……。よかったら、来週、一緒に来いよ」
小早川は体の向きを変えると、背中を向けたまま、大きく上げた右腕を左右に揺らしながら家の中に入って行った。

「兄ちゃん、僕、はやとちりしたのかな」健太は頭をゴシゴシと掻いた。
「気にするな。大したことじゃないから」
僕は、健太の肩に載っている手に力を入れた。愛すべき我が弟である。

玄関からガタッと、何かが扉にぶつかる音が聞こえた。
両親が聞き耳を立てているのは明らかだ。

うちには、たいしてお金はない。父の設計事務所は火の車だし、母のパートでなんとか家計をやりくりしている。
僕の自転車は、父のお古だし、私立の大学に進学するのは無理だろう。
それでも、僕は幸せだと思う。そう思える自分が幸せなんだと思う。

健太は、にんまりとする僕の顔を不思議そうに眺めている。
僕は、そんな健太の頭を乱暴に撫でた。

オレンジロード21へ続きます。


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