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2020/05/03 星野源は怒らない

このあいだのことだ。マスクをして買い物に出たら、マスクをしていないおじさんが向こう側からやってきた。すると、ほとんど反射的に、自分はそのおじさんをよけてしまっていた。何となくやだなあと思ったのだ。

また、こうも思った。「おいおいこのご時世によくもまあマスクをしないで歩けたなぁ」と。これは温度は低いが、たぶん、小さな怒りでもあったろう。だが、そのように秒速で考えた自分が、次の瞬間にはこわくもなった。

待てよ。相手にもマスクが手に入らないという事情があったかも知れないじゃないか。そもそもマスクになんかそこまでの絶大な効果はありゃしないぞ。買い物かごの取っ手からうつるかもしれないし耳たぶに飛沫がとんでそれを指で触ってその後で目をこすることもあるじゃないか。何をそんなシンプルに、記号的に危険/安全を見分けているんだ、馬鹿馬鹿しい、と。

しかし同時に、ああこういう正義の面をかぶった怒りというのは、共有しやすいものなのかもなあ、と思ったりした。「あの人マスクしてない!」一人ならみんなでよけて終わりかもしれない。では「あの家族いつもマスクしてない!」ならどうだろう? そういう一家を村八分よろしく町全員で避けるようにもなるだろうし、そのような人たちに石を投げることに心が痛まなくなるかもしれない。

もちろん、昨今の状況で、入手困難という以外の事情でマスクをしないなんて、なかなかのツワモノであるには違いないが、さっきも言ったとおりマスクってそこまで万能なものでもない(感染後には大きな意味をもつが)。人が安易に危険/安全を見分けたくてそのサインとして見ているところも、少なからずあるのだ。

ところが、一度怒りの感情をもつと、人はその対象にならどんなことをしてもいいのではないか。みんなも感じているのだし、というふうに怒りと怒りを合体させ、「超合金・怒りロボ」を創り上げてしまう。この「超合金・怒りロボ」はなかなか強力で、相手をいとも簡単にぼろぼろにすることさえできてしまう。なるほど、怒りというのは恐ろしくも面白いものだなあ、とひとしきり考えた。

また、怒りには「根を問わない」という特殊な性質もある。

たとえば、ある八百屋の野菜が傷んでいたことに怒るAと、「だから前からこの八百屋はダメだと言ったろ」と言うB、「野菜とはこうあるべき」というCが、それぞれにべつの怒りを抱えているのに「八百屋やめちまえ」という同じ船に乗ることができる。

ところが、次にとなりに「腐八百屋」ができる。「あんな八百屋はダメです。うちのはそうじゃない。発酵してるだけ」という者が現れると、「野菜とはこうあるべき」という者以外の二者(AとB)は、「腐八百屋」のことを「ちょっといいかも」と思い始めたりする。

指針がなければ、怒りという共通項だけで「腐八百屋」はもとの「八百屋」の客を奪うことができる。また、八百屋にとってもじつはこれは好都合だ。なぜかといえば、しょせん売っているのは同じ傷んだ野菜。となれば、やがて客は八百屋のほうに戻ってくる率が高い。正真正銘の八百屋が登場してしまうよりは、このほうが都合がいいという面もあろう。再び腐った野菜を出してしまっても、人々は八百屋と腐八百屋の間を行ったり来たりすればよい。
「超合金・怒りロボ」は強力なパワーをもつが、そういう点で間抜けでもある。

怒りというのは、自分の立ち位置を忘れさせる危険性がある。自分が何を求めていたのか、その根幹を見失ってしまうと、似た詐欺に何度も引っかかることにもなる。いまの世の中をみていると、少しばかりそんな危険性も感じたりしてしまう。

もう少し怒りについて考える。先ほども見たとおり、指針をもたぬ人々の怒りというのは、何か一つの的さえあればいいという気すらすることがある。たとえば先日、とある芸能人の深夜ラジオでの失言が、とんでもなく炎上してしまった。炎上してしまった理由はよくわかる。あの発言自体に、私自身も問題を感じたのはたしかだ。何よりこわいと思ったのは、社会を俯瞰し、困窮した人が自分たちに都合のよい存在に代わる瞬間がくる、という話を「景気づけ」でしてしまえる環境がその周囲に整っていること。スタッフが誰も注意できなかったということだ。

ただ、しょうじきこれは謝罪騒動に発展させるべきことじゃないなとも思った。というのも、あの失言には明確な被害者がいない。もうこの国はそろそろ「社会に向かって謝罪させる」という形式をいい加減やめるときがきているのだ。

たしかに、あの失言はたいへんショッキングなものだった。この時期にあんなグロテスクなことを言うなんてどういう神経をしているんだ、と疑いたくもなる。だが、それは思っているよりも、ひじょうに小さなボタンの掛け違えの連鎖だったのかも知れない。

個人的には、深夜ラジオでリスナーのはがきに答える、という形式が心のハードルを下げたのかもなあとも想像したりする。いま40代以上の男の人だと、かならず人生のどこかでは、居酒屋で下卑た話題を振られたり、自分もしたり、という経験は、多かれ少なかれあるだろう。あれは妙なもので、やはり異性がいるときとは場の空気ががらりと変わるのだ。

公の場ではできないような話を、その空間でだけならしてもいいかな、というようないわゆる居酒屋トークが展開される。少なくとも、我々の世代くらいまではそういうものがあった。それがよいわるいではなく、確かにかつてはあったということだ。20年もさかのぼれば、かなり倫理的にもあやしい話が、いくらでもそこかしこで囁かれていたのだ。

今でも、同年代の男たちが集まるとよく「風俗に行く人間」と「風俗に行かない人間」の二種類がいるなあ、と思う。風俗に行く人間は、ディズニーランドにでも行くような感覚で風俗の話をする。たぶんその人たちにとって風俗とは夢と魔法の時間なのだろう。もはや文化制度としてできあがっており、それでご飯を食べている人もいる以上そこにお金を落とす人間も必要ではあるというわけだ。
「夢と魔法のくに」の住民に対して、恐らく彼らはその人たちがどのような人生を経てそこで働くに至ったのかをまったく想像しない、あるいは、あえて想像しないようにしているのだと思われる。

しかし同時に頭ではわかってもいよう。本当にそういう職が天職の人間か、さもなくば金に困っているのだろうな、と。この「金に困っている」というあいまいでザツな想像が曲者だ。

くだんのはがきの相談がきたとき、あの芸能人はきっと一緒に「夢と魔法のくに」の入口に立ってしまったのだろう。入口だから中ではない。それゆえに現実の世界の仕組みも見えている。ただ「夢と魔法のくに」にうつつを抜かしているので、まるで他国の話のように、きわめて他人事な発言になる。それであのようなたいへんグロテスクな発言につながったのではないか。

しかし事態はどんどんエスカレートしていった。はては番組レギュラーを全部下ろさせろという騒ぎに発展した。たしかに発言のなかには発言者の倫理観が反映されている。それはたしかだ。そしてその倫理観は、いまの時代にはまったくそぐわない古いものであり許されざるものでもあろう。

だが、それでも法的に問題がない場合は、飽くまで発言についてのみ吟味するのが民主主義的な在り方ではないかと私は思う。ある発言がある個人を侵害する場合はべつだ。その場合はプライバシーの侵害や基本的人権などさまざまな問題が絡んでくるのだが、特定の個人への中傷でない以上、やはり議題に上げるのは発言のみにしたいところだ。

人と発言を分けて考えない社会は未熟な社会だ。そういう社会は結局、発言をもとにその人物自体を許せない、とつるし上げ、謝罪させる。謝罪で足りなければ、今度は社会から抹殺するという。

アメリカはここ数年すっかり断罪社会になった。日本も謝罪社会から断罪社会へと進化しようとしている。だが、そのような問題の解決させ方は、私なんかにはきわめて原始的なやり口に見える。

出発点は「尊厳を傷つけた」とか「差別を許さない」とかとても立派なものなのだが、その着地を「議論」ではなく「人」の「公開処刑」にもっていくところがなんとも原始的なのだ。

そもそも怒りの内容すら、実際には人びとは少しずつ異なっていたりする。不謹慎という人もいれば差別に怒る人もおりそもそも風俗ネタがダメという人もいる。その人たちが、「レギュラーを下ろしてやる」という同じ船に乗って走り出す。「超合金・怒りロボ」の完成である。

私は「怒り」を茶化す気はまったくない。怒りはとても大事な感情だ。ただ、しばしば客観性を失い、根本を忘れさせる危険性のある感情ではあるのだ。

だから、安易に「超合金・怒りロボ」を作ると、とても素晴らしく高尚な、それこそ民主主義的な動機に基づく全体主義に走ることにもなりかねない。

先月からの大規模な自粛以降、私は一見現状の誤りに気づいたかに見えた人たちが容易に「超合金・怒りロボ」となってあらぬほうへとドシドシ向かっていくのを何度となく見ている気がする。これまでもあっただろうが、それがより顕著に表れるようになった。いまはどうやら、そういう時代の局面にあるらしい。

そんななかで、最近、「怒り」とはべつの「歪んだ笑い」の横行を目にした。少し前に星野源がアップしていた「家で踊ろう」の動画を上半分だけ切り取り、下半分にふざけた内容をつなげて投稿するツイートが、いくつか何度もリツイートされて回ってくるようになった。

星野源は自由に使っていいとは言ったが、それはあくまで「音楽的コラボ」の意味合いであったはずだ。つまり、発信者の意図からズレた遊びが横行しているわけだ。このような在り方は、Twitterには昔からよくある。いちいち覚えていられないくらいよくある。とりわけ芸能人の動画や画像を使ったネタは本当に多かった。

でも、その人が怒らないことに甘えているってことは忘れないほうがいい。構造だけをみれば、それはいじめと変わらないから。リツイートやいいねも基本的にはそれに加担したようなものだろう。

まあしかしそんな説教くさいことは今はいいのだ。私がこのとき思ったのは、「でもたぶん星野源はいま自宅でそういう動画みても『やめてよぉ…もう…最悪だよ…』とは思っても、その怒りを飲み込むんだろうなぁ」ということだった。

あまり表立って星野源が怒っている姿というのは想像がつかない。彼の沸点が垣間見えたのは、首相の動画に対して一言コメントしたときくらいだろうか。ある意味では、上下に分けたおふざけ動画は、まったくリスペクトもなく、音楽的な要素も関係ない「音楽への冒涜動画」という意味では首相のコラボとそれほど変わらないレベルなのだ。だから、まあ内心ではいろいろ思うにせよ、あれと同等かそれよりかわいいもんと思えば、たぶん怒らないんだろうな、と思う。

一度でいいので、星野源が腹の底から怒っているところを見てみたい気もする。怒りながら「恋」ダンスをやってほしいとすら思う。怒りは大事だ。もっと怒っていいよ、と思う。
でもそれよりも、人々が「超合金・怒りロボ」になる寸前に、星野源的な怒らなさをほんのひと匙かけることはできないか、と、そっちのほうを今は少しばかり真剣に考えてしまったりする。怒りは、根を忘れていけばただの化け物と化すのだ。

どしん、どしん、どしん……ああ、また今夜もどこかで「超合金・怒りロボ」の足音が聞こえる。その足音のなかに私はいないだろうか、あなたはいないだろうか。それはもう、各自、自分の心に問いかけてみるしかないのだ。

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