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断篇小説「はじめてのかいもの」

 少女はわずかに喉を鳴らしながら、海岸に立っている。
 弟が駄菓子屋で無事に買い物を終えて出てくるのを待っているのだ。弟にとってこれが初めての買い物になる。弟は六歳で、来年には小学一年だから、買い物くらい一人でできなきゃダメよと言った。そして少女は自分の小遣いから百円玉を与え、これで好きなものを買っておいで、と告げた。

 スカートのポケットで電話が鳴った。繁からだった。よりを戻したいという内容で、もう三度目だ。過去の二回は言われるがままによりを戻したけれども、親友と浮気されたので、もう金輪際あり得ないのだ。

 通話の途中でブチっと切ってやったが、またすぐに電話がかかってくる。死ねよ、と思うがたぶん死なないだろう。

 繁はきっと心から申し訳ないと思っているのだ。それでもまた同じ過ちを繰り返してしまう。そのへんのメカニズムについては詳しく知りたいとも思わない。べつの生きものなんだから好きにすればいい。

 でも少女は42キロの質量をもった一個体である。この個体は自分で感じ、考え、動くことができる。相手にとって都合のいい反応を返すための機械でも楽器でもないのだということを、きちんと繁に理解させてこなかったことが悔やまれる。

 少女は何度か繁とのSMプレイに付き合ったりもした。繁が少女を縛った時、少女は己が物体と化していくことへの快楽にたしかに震えた。けれど、それは額縁の中にある快楽だった。飽くまで「本当は愛し合っている者同士が、それでもプレイとして相手を物体と見做すことで興奮を得る」そういう、恋人同士でしかできない秘め事だと信じていた。

 けれど、あっさり浮気をされてしまってから、さてどうなんだろうと考えた。もしかして繁にとってあれはプレイではなくて、本当にこちらを半ばふだんは面倒くさい主体性をもっているだけの物質と思っているのだとしたら、SMプレイの時の関係こそを繁は本来の関係と見做してはいないだろうか? だとしたら、それはひどく滑稽で、間違ったことだ。けれどもはや少女は、繁にそのようなことをわからせることが難しいと思っている。なぜなら、繁にはそれは絶対に理解できっこないからだ。繁は相手を物質と見做すことによって、はじめて優雅な自己を保っていられるのだ。これは笑ってしまうほどにダサい。ダサいよ、繁。

 でもね、いまの私には弟の買い物を待つという大事な任務がある。残念だけれどあんたに三度目のチャンスをやる暇はない。仏の顔もサンドイッチよ。

 少女は煙草を取り出してそいつをくわえて火をつける。駄菓子屋はしんと静まり返っている。いやな予感がする。もしかして、駄菓子屋の中で何かがあったのかも知れない。
 
 仕方ないわね。
 煙草を棄てる。
 靴の裏で、火を消してから、駄菓子屋へ向かった。

 中に入っていくと、弟のすすり泣く声がする。
 それからしゃがれた老婆の声がする。
「なんだい、めそめそ泣いて。おまえに売る駄菓子はないと言ってるんだよ。とっとと帰りな。なんだい、このほそっこい目は。おまえはこの国の者じゃねえじゃろ。となりの国によくいる下劣な顔してるねえ。それにしょんべんくさい。ああこれも隣の国の特色だよねえ。あたしはとなりの国とかほれ、遠くのお国の黒いのとか、ああいうのが大嫌いなんだ」

 少女は腹の底から怒っている。たしかに少女の母親はとなりの国の人間で、子どもの頃からそのことで差別を受けた。でも細い目は実際には日本人である父親ゆずりだ。父は目を見開かないかぎり細く見える。弟も同じだ。人は都合のいいことは自分の側に、都合のわるいことは対岸に集めて安心したがる。少女は店の隅で息をひそめている。
 すると、一人の警官が入って来る。若い、がたいのいい男だ。
「どうしたんだね、ばあさん、子どもを泣かしたりして」
「なに、聞いておくれよ、こいつはとなりの国から来た小汚い泥棒さね。万引きしようとしたんだ。しょっ引いておくれよ」
 すると警官が声のトーンを落とした。
「何だって? それは警官として見過ごすわけにはいかないなぁ。
しっかりとお灸を据えないと」
 警官が弟をひっぱたいた。少女は思わず飛び出していた。
「おや、お嬢さん、どうかしたかな?」
「この子は私の弟です」
 すると警官は「ほう?」と言ってから老婆を振り返る。
 老婆は慌てたように言った。
「こ、この娘もグルさ。姉弟で結託してうちを襲撃しようとしたんだから」
「そんなことしてません。お金ならここに……」
 だが、警官はそんな話は聞こうとしない。
「署までご同行願おうか」
 少女は唾をごくりと飲み込んだ。そして、これから取り調べのあいだじゅう弟がお腹を空かせているだろうことを思うとかわいそうで泣き出したくなった。

 弟はおやつを買いに来たのだ。本来なら3時にはおやつなのに、はじめてのお使いをさせるということで、3時に家を出て3時半にここへ来た。
 もう弟のお腹はぺこぺこのはずだ。弟はすぐにお腹がすくのだ。

 もしもこの手に拳銃でもあれば、発砲して警官を殺して逃げたかった。でもそれはできなかった。この国で差別を受けている者がこのような行動に出ればどんな仕打ちに遭うかはわかりきっていた。「またあいつらがあんなことをやった」「これだからあの国の連中は」そんな会話がそこかしこで語られるに決まっている。

 もしかしたら、この国の人は全般に遊戯と現実の区別がつかないのかもしれない。繁もそうだった。でも繁だけじゃない。みんな、隣国の悪口を言ったり、この国にいる外国人をけなしてはいい気分になる。それはSMみたいなものだ。相手を物質とみなして優越感を得る遊戯だ。

「ごっこ」と言ったほうがいいかもしれない。幼稚園の頃にやった「ごっこ」。あの延長でしかないものを、いつの間にか現実とすり替えている。自分に都合のいい現実を遊戯で創り出して酔っている。

 この警官の目も、老婆の目も、そんな遊戯に酔っている者の目だった。相手に人間として当然あるべき感情があることなどをあえて考えない。そうすることで、確固たる敵を、物質としての敵を創り出すことができるからだ。

 しかし、だからといってこちらが同じように相手を物質と見做して棒きれのように殺せば、どのように非難をされるのか、こたえは目に見えている。いまアメリカで起こっている反差別運動による暴動が、海を越えたこの国でどのように冷めた目で見られているのかを知っている。

 差別によって法治国家にあるまじき仕打ちを受けても、それで同じように法治国家に対して革命を起こそうとすれば、無法者となる。
 弟がううう…っと唸った。お腹がすきすぎたのだ。かわいそうに。
「さあ、二人とも、表に停めてあるパトカーに乗るがいい」
 警官は弟の腕をつよく引いた。
 やめてよ、と少女は思う。
 弟は何度も腕の関節が外れたことがあるのだ。もはやクセになっている。またいつ外れるともしれないのに。
「はやく来い!」
 抵抗する弟に、さらに警官は強く腕を引っ張る。

 その瞬間、弟はがぶりと警官の脛に噛みついた。
 
 鋭い牙が、服を突き破り、脛に深く食い込み、血を流した。

 ぐわ…っと警官が悲鳴を上げる。
 少女は急いで警官の背後に回って喉に噛みついて息の根を止めた。

 すでに弟の殺気は老婆に向かっていた。ひと思いに頸動脈を噛み切るとそこらじゅうに血が飛び散った。
 少女もその弟も、ニホンオオカミを父にもっている。神社によっては神と崇められている者の血筋である自分たちが、この国の下衆どもに反対に差別の眼差しを向けられてしまうというのは何とも滑稽なことだ。
 少女と弟はそれから早めの夕食にありついた。もちろん母には内緒だ。こんなことをしたと知ったら怒られる。母はただはじめて買い物をしていると思っている。
 弟が駄菓子をいくつか選んでビニールに詰めた。
「お金はどうしようか?」
「またにしよう。はじめての買い物はべつの日に」
 うん、とうなずく弟の口元の血をハンカチでぬぐってやった。顔をきれいにしてから外に出ないと。それとも狼の姿のまま家に帰るか。それは危険が多い。
「いい? 今日は買い物に行く途中で、お姉ちゃんの彼氏に遭遇して、その人のうちに行って遊んだって言おう」
「わかった」
 アリバイにはもってこいだ。
 それに、少女も弟も、まだまだお腹はすいている。
 少女と弟は店を出ると、青い海をしばし眺めた。それから、静かに喉を鳴らした。

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