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黒猫による断篇「おそれ」



「凍ってるね」
「凍ってないよ」
「凍ってるわよ」
「あんなの凍ってるって言わない」
 彼女はこの川のことをよく知らないんだ。自分の町じゃないから、仕方ないか。僕たちがいつも並んで釣りをしていた町の川とはずいぶん形も違えば、流れの速さだって違う。凍り方だって全然違う。
冬になると、この川は鴨が滑って転ぶほどにしっかりと凍ってしまうんだから。本当だよ。いま彼女が「凍ってる」と表現したそれは、本当に薄氷未満の、まだ表面にたっぷりと潤いのある状態なんだ。
「この町の暮らしはどう? 慣れた? 引っ越して二年だものね」
「さあ、あんまりよくわからないな。僕は毎日釣りをしたり本を読んだりしているだけだから。でも、この川の魚についてはだいたいわかったよ。警戒心が異様に高いんだ。たぶん、この辺りに釣り人が多いせいだと思う。この辺には趣味じゃなくてその日の食い扶持のために釣りをしている人が結構いるんだ。だから魚も必死で逃げてる」
「そう。こわいのね……」
「え?」
「魚にとっては、釣り針は外の世界へと仲間を連れ去って、そして二度と戻してはくれないものだから」
「……そうだね」
 僕は彼女がいま考えていたであろうことを想像してみた。
「僕らの世界にそんなことがあったら、こわいよね。たとえば僕の町に、ある日空から長い、鉤型の針が振ってくる。美味しそうな料理や、あるいはお金や、グラマラスなフィギュアなんかがその針の先にくっついていて、おいでおいでをしている」
「それを見たあなたの仲間の誰かが、思わずその針に近寄って刺さる?」
「うーん……人間はそんな簡単に刺さらないよね。人間が何かに飛びつくのはパン食い競争の時くらいだから」
「そっか。それじゃあ、針はあまり意味がないかも」
「でもたとえば、すっごく好みの顔の子のフィギュアで、その子が誘っているような表情に作られていて、しかも少し自動人形みたいな感じで動いたりしたら、男だったら抱き締めるかも知れないよね。その時にフィギュアの胸から針が飛びだしてグサリッ。そのまま天上に連れていかれる──なんてのはあるかも」
「こわい。ねえ、あなたなら、そんなフィギュアに引っかからないでしょ?」
「僕? そうだな……」
 考えていちばんに頭に浮かんだのは、彼女の顔だった。でもそのことは言わなかった。
「わからないな」
 彼女のおそれと僕のおそれは、いつだってかけ離れている。でもそれは、もしかしたら同じおそれでもあるのかも知れない。彼女は見えない釣り針をおそれ、僕は見えない想いをおそれているんだ。
 その昔は、もしも断られたら、とかそういったおそれだった。でも今はちがう。彼女の考えていることがありありとわかる。
 だから動けなくなる。
 僕はいま叔父夫婦に引き取られてこの町で静かに暮らしている。父母の突然の死からは立ち直れていないけれど、魚を釣っているときは、すべてがこの川の流れのように最後は海に辿り着くのだと思える。魚たちが釣り針を受け入れるみたいに、きっと痛みのすべてを受け止めていけばいいんだって。
 でも、想いについてはそうはいかない。
 それはこの川の薄氷みたいなもの。
 そこに薄氷があることはわかっている。
触れれば、もっとよくわかる。
「帰らなくちゃ」
「泊まっていけばいいのに」
「なんで?」
「べつに」
 泊まってほしいのかどうか、自分でもよくわからない。この世界に釣り針が下りてきて、誰かを連れ去るおそれと、彼女を抱きしめることで一人の世界を失うおそれとが、並行している。
 触れれば、その心臓は震えるんだろう。
 それが、かけがえのないものであろうことは、たぶんまったく確かなんだ。
 彼女は今日、家を飛び出してこの町に会いに来てくれた。帰ったら、父親の暴力が待っている。それでも彼女は僕の隣で泣くこともなく、僕の暮らしの心配なんかをしているんだ。
 けれど、抱き締めれば、そこですべてが変わってしまう。
 彼女は堰き止めていた感情の川を僕に流すに違いない。僕はそのすべてを受け止めようとして、やがて彼女の川の中を泳ぐ一匹の魚になり、一人を失って、きっとどこかで誰かの釣り針を飲み込むんだ。それでいい、と心の声が言う。それでいい? ふざけるなよ。
「やっぱり凍ってるわよ、川」
「ちがうってば。あんなの」
「確かめてみたら?」
 それがなぜか僕にはちがう意味に聞こえた。気のせいかな。僕には彼女が僕の心のメタファーを覗き見てそう言った気がしてしまったんだ。
 確かめてみたら?
 触れてみなくちゃわからないわよって。
 いやいや、わかるよ。
触れたらもう二度と戻れない。それだけのこと。
 
 僕たちはその日、夕方までそうしてぼんやりと川を眺めてから、それぞれの家路を急いだ。その夜に完全に川が凍ったことは、僕一人しか知らない。

 
 

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