女子アナ蔑視に打たれる楔 群像に寄せた大橋アナウンサーのエッセイを読んで

群像8月号 に掲載された、あるエッセイを読んで驚嘆した。

「アンケート 自分をケアする料理」と題された企画に寄せられた1ページの文章は、気持ちにモヤモヤしたものを抱えながら帰宅し、料理をする、というシンプルなもの。

これがすごい。ざらりとした生々しい人間の手触りに満ちた底力のある文章、皮膚の切れ目から血肉が覗くように鋭く差し込まれる情景にヒヤリとする。何気ない日常の短い文章から、どろりと流れ出しそうで、留まる、想像させる、踏み入ることを許さない、リズミカルなのに重い、絶妙なバランスの文章だった。

なんだこの人は、と思う。毎月文芸誌を複数買っては読む程度の文芸好きとして、こんなすごい文章を書くひとなんか気になる一択。肩書きは「フリーアナウンサー」名前は「大橋未歩」。

え、女子アナ?と咄嗟に思う。咄嗟に思うことに驚きと、じわじわ這い上がってくる自己嫌悪

え、私は女性アナウンサーをどう思ってたの?

そもそも私は大橋アナウンサーのことを知らない。というか、テレビに出てくる人たちを知らない。テレビを観ないし、動画も麻雀しか観ない。プロ雀士の萩原聖人は打ち筋やリーグ戦の成績も分かるが、俳優の萩原聖人は存じ上げませんねという程度には世間知らずだ。 

女子アナ、という存在の「一般通念」あるいは「願望」をそのまま受け入れてはいなかったか?と聞かれればその通りで、

ここでタイトルに戻る。

私のよく知りもしない「女子アナ」に向けたイメージには、蔑視が張り付いてはいないだろうか。

そこから一昼夜あの凄まじい文章と、自分の中の「女子アナ」を悶々と検分する。

女性アナウンサーに求められる、最大公約数の好感度、清潔でコンサバで、性的ではないが女性らしく、気が利いて空気を読みサポートが上手く、笑顔で明るくハキハキ喋るが圧は出さず、予定調和のツッコミ以外の「NO」は言わない。

そして高い能力や知力を持ちながらも、それで相手を圧倒させないよう、わきまえた振る舞いをする。そこには馬鹿っぽく振る舞うことすら含まれる。

なんと憎むべき「俺たちの!」理想の女性像だろうか。最大公約数の、母数に入っているのは男と家父長制支持者だけじゃねぇか。

私は自分が「女子アナ的なもの」に忌避感を抱くのは仕方ないなとも頷く。日本で暮らす女性は、その「女子アナ的なもの」からのズレで検分され続ける。うんざりだ。あんまり見たくねぇなと思う。

じゃあ、女性アナウンサーは皆「それ」を目指し「それ」を内面化して「それ」になってしまったのか?だから私のような、表面的にしか見ない者に侮られても仕方ないのか?そんな訳がない。

最前線で印象を押し付けられて型に嵌るよう圧を受け続けることと、それを喜んでいることが同じ訳がない。意識的に迎合する者、反発する者、職業的演出として割り切る者、どうあったとしてもだ。何故なら女性でアナウンサーになりたかったら、あのスタイルを習得しなければならない、それは彼女たちの責任ではないのだから。私が抱いていた蔑視は、最悪に純粋な職業差別だと言える。

徹底的に客体化されること、コンテンツ化されることは、映像メディアの表舞台に立つ以上はついて回ることではある。でも、だからこそ誰もが一人の、人間だということを、置き去りにしてはいけないと知っていたのに、無意識に除外していた。繰り返すが、最悪だ。

それから

最大公約数の好感度を求められるポジションである、女性アナウンサーが、各々の人間らしさを以ってその能力を活かす未来を少し想像する。それはあまりに痛快で、あまりに現在とは遠い景色で、少し涙が出る。

私はテレビに反映される、この時代、この国の価値観に絶望する。だからこの先もわざわざ観たりはしない。

だけど、時代の価値観はテレビにだけ映るわけではない。私たちが今生きている、この社会そのものが地獄だ。

これからきっと、理想の客体を演じる女性たちを見るたび私は思い出すだろう。あのざらりとした手触りを。あの凄まじい文章を。それを書いた1人の、生身の人間を。




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