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孤独ということ 『あさきゆめみし』と『源氏物語』


前回の「物語との向き合い方(後編) 『平安人の心で「源氏物語」を読む』」を書くにあたって、久しぶりに『源氏物語』の研究書や資料を読んだり考えたりしたせいか、もう少し『源氏物語』について書いてみたくなった。

* * *

『源氏物語』との出会いは、大和和紀さんのまんが『あさきゆめみし』をとおしてだった。おそらく、文系大学受験者(特に女性)は、国語の古文の勉強で『源氏物語』のあらすじを知るために、読んだ人も多いのではないか。

読みはじめた当時、講談社に『mimi Excellent(ミミエクセレント)』という季刊のまんが雑誌があり、その第1号の表紙と巻頭を飾っていたのが『あさきゆめみし』だった。

『あさきゆめみし』は、すでに講談社の別の雑誌で連載を進めていたのだが、里中満知子さんの『天上の虹』などと一緒に、この雑誌に移ってきた。

『mimi Excellent(ミミエクセレント)』は、ラインナップが『あさきゆめみし』『天上の虹』でも分かるように、古典文学や古代史に材をとった作品や、高口純里さん、川原由美子さん、木原敏江さんなどの不思議な、詩的な世界観を持った作品が掲載され、少女まんが雑誌というよりは文学雑誌のようなものだった。

小学校のときの友人がすでに『あさきゆめみし』を読んでいたが、内容が光源氏と女性たちの話なので、どうしても「大人の作品」という印象があって、あまり読みたいという気がおきなかった。

中学に入ったころ、『天上の虹』がはじまった。のちの持統天皇となる少女が、母親、弟、婚約者たちの死に傷つき、父親と格闘しながら、夫(のちの天武天皇)とともに政治に関与していく生涯が描かれたこちらの方が好きだった。

だから、『mimi Excellent(ミミエクセレント)』を読みはじめたのも、『天上の虹』を読むためだった。ところが、第1号の表紙と巻頭を飾った『あさきゆめみし』に思いがけず引き込まれた。

連載はすでに、光源氏が天皇に次ぐ位につき、娘が皇太子の妃として輿入れを果たすという栄華を極めたあとの物語に入っていた。ある事情で、光源氏が長年連れ添った最愛の女性の紫の上をさしおいて、年若い姫宮を妻として迎えるところから読み出すことになった。

若い姫宮が、昔許されざる想いを抱いた女性藤壺の姪であることにつき動かされて、光源氏は妻として迎え入れたわけだが、その期待に反して、姫宮があまりにも幼く未熟であったことに失望していた。

翻って、同じように藤壺の姪であった紫の上を幼くして引き取ったときのことを思い出し、彼女の聡明さ、人柄の魅力を改めて認識した。どんな事情があったにせよ、最愛の紫の上を悲しませるような結婚をする必要があったのか、自身の立場なら断ることもできたはずだったと後悔する。

一方、幼いころから光源氏しか頼るものなく、その愛情のみを頼りに、ときには光源氏の女性関係に苦しみながらも、光源氏とともに栄華を極めた紫の上。

養女として育てた娘の輿入れがすんだことで、光源氏と二人きりで穏やかな余生を過ごすことを望んでいた紫の上は、光源氏が若い姫宮と結婚したことに平静を装いながらも、ひとり絶望の淵に落とされる。

しだいに光源氏から気持ちは遠く離れ、その絶望はからだをも蝕み、長い病の床についた。出家(尼になること)を望みながらも、離ればなれになることに堪えられない光源氏はそれを許さない。紫の上は失意のうちに臨終のときを迎える。

このような話を(途中にもいろいろな話があるのだが)、4〜5年かけて、私が高校3年になる夏まで連載していた。

これを夫婦の愛情の変化や恋愛における心変わりの物語として読んでいたわけではなく、またそんなことが理解できる年齢でもなく、それによって光源氏と紫の上の互いの心が離れ、自身すら気づかないうちに孤独に陥っていったことに、共感を覚えていた。

当時の私は、通っていた中学校になじめず、その後、進んだ高校もなじめず、やはりどこにも自分の居場所がないような感覚があり、そんな自分を『あさきゆめみし』の進行に重ね合わせていたのかもしれない。

そして、すでに私も晩年の光源氏と同じ年齢になろうとしている。紫の上が死んだ年を上回っている。

この年を迎えてみると、人生は孤独だということを実感する。若い頃に感じた「居場所がない」という孤独とはべつの孤独。

これまでの人生で実現できたことできなかったこと、愛しい人や大切な人との出会いや別れをふくめて、良くも悪くも自分の人生であり、それを受け入れるのは自分しかないという孤独だ。

そんな孤独のありようを教えてくれたのは、原作『源氏物語』にはない、『あさきゆめみし』オリジナルとしてある、紫の上臨終の場面だ。

原作は比較的さらっと彼女の臨終を描き、その後の光源氏の空前絶後の哀しみにフォーカスしていくのであるが、『あさきゆめみし』では、彼女が消えゆく意識の中で、

「たしかに自分の人生は哀しみと絶望に満ちたものだったが、光源氏に見出されともに暮らしてきたことが、果たして幸せではなかったといいきれるのか。生まれかわっても光源氏と一緒になり…」(こと切れる)
※『あさきゆめみし』の当該の巻が手元にないため、筆者の記憶による※

と、絶望にあっても自らの人生をひとり受け入れようとする瞬間を描き込んだ。

このほかにも、死期が近いことを悟り、来し方付き合いのあった人々との交流に感謝することや、生きとし生けるものを、かけがえのない愛おしさをもって眺めるなど、原作にはない紫の上の想いが描かれる。これも紫の上が自身の人生を受け入れる予兆として描かれたのだろう。

原作を超えた人物造形に賛否両輪あるだろうが、私は『あさきゆめみし』にこの場面があったからこそ、若い時分の孤独をいやすことができたし、『源氏物語』の研究を志した。そして年齢を重ねていくなかで、本当の意味での人生の孤独に思い至り、それを受け入れることを覚えた。

* * *

久しぶりに『あさきゆめみし』と『源氏物語』とを読んでみよう。これまでに気づくことができなかった自分なり人生の真理に、また触れることができるのかもしれない。





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