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いま、息をしている言葉で、『とはずがたり』を読む

Twitterで、光文社古典新訳文庫から『とはずがたり』が出版されたというのを知ったとき、あ!と声をあげた。

本書の訳者である佐々木和歌子さんには『やさしい古典案内』(角川選書 2012年)という著書があり、奈良時代の『万葉集』から江戸時代後期の『東海道中膝栗毛』あたりまでの古典文学作品の紹介と解説をしている。その中でも鎌倉時代の『とはずがたり』は出色で、解説というよりは作品そのものを読んでいるようなおもしろさがあった。

いつかこの著者による『とはずがたり』の本を読みたいなと思っていたら、先年の秋、現代語訳を上梓された。しかも古典の新たな可能性や魅力を切り開こうとしている光文社古典新訳文庫で!文庫の趣旨である「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」を実現するのに、ぴったりな人を選んだものだと感心した。


そんな本書の魅力を紹介する前に、『とはずがたり』について少し。

1200年代後半、鎌倉北条執権時代、後嵯峨天皇の皇位継承をめぐって、持明院統と大覚寺統という二つの系統に分かれたというのを、日本史で習ったことを思い出してほしい。その経緯や背景などはここでは省略するが、その持明院統の始まりとなった後深草院に仕えた二条という女性が、自身の数奇な人生を振り返って書いたのが『とはずがたり』。

後深草院は乳母であった女性から性の手ほどきを受けたのだが、その女性が忘れられず、女性が夫との間の子を身ごもったというのを聞いて、生まれた子が女なら自分が世話をしようと言ったという。

生まれた子は女児で後嵯峨院のもとで育てられ、14歳になったときに、父親の手引きで男女の関係を結ぶ。それが二条。婚姻関係にある妃の一人でもなければ、女官でもないこのときの処遇が、二条の性と生を翻弄する。

若くて父親譲りの美貌を持つ二条は宮中の男たちの好色の的となる。ときには後嵯峨院の所有物の一つとして、ほかの男の相手させられることもあれば、後深草院が気まぐれに気に入った女を手引きさせられることもあった。相手をさせられた男たちには、大覚寺統の始まりとされる後深草院の弟亀山院や、後深草院の後見で摂政関白を務めた老齢の要人などもいた。

後深草院自ら男たちの相手をするように仕向けておきながら嫉妬をぶつけてくる仕打ちに、二条はやりきれない思いに閉ざされる。特に弟亀山院に対しては、皇位継承の問題が絡んでいたこともあり、二条と亀山院との関係が世間に取り沙汰されると、不快に思うようになっていた。そこへ以前から二条の宮中内の振る舞いを快く思っていなかった後深草院の妃の一人が二条の追い出しをはかる。後深草院はそれを庇うこともなく、二条は宮中を追われた。

すでに両親は他界し、庇護者を失った二条には出家する以外に道はなかった。尼僧姿となった二条は、ずっと憧れていた西行を模して、諸国放浪の旅に出る。いく先々で歌を詠み、出会った人々と交流し、ときにトラブルに巻き込まれながら旅を続ける二条。

男の言いなりになるしかなかった都や宮中での暮らしよりたくましくなったようにも感じるが、旅の途中で出会う遊女たちに自らの人生を重ねては憂愁を深め、一方で長年ともに過ごした後深草院への慕わしさと恩愛を募らせていた。

* * *

カタカナ語あり、敬語をおさえたスピード感ある文体

この光文社古典新訳文庫の『とはずがたり』の訳文には、いくつかの特徴がある。

登場人物に対する会話文以外の敬語(尊敬語、謙譲語、丁寧語)の訳出が極力おさえられ、一文一文が短く、独特のスピード感というか緩急があるので、通常の古典の現代語訳を読むとときにつきまとう、まどろっこしさやくどくどとした感じがない。

王朝文学は、書き手(語り手)が主に中流貴族の女性であり、登場人物が天皇とそれをめぐる皇族、上流貴族たちであるため、どうしても敬語が発生する。最近、作家角田光代さんが訳された『源氏物語』の読みやすさが評判になっているが、会話文以外の敬語を意識的に抑えたというのをインタビュー記事で読んだ。やはり原文にある敬語をどこまで訳出するかは、現代語訳の読みやすさにもかかわってくるようだ。

また、一文一文が短く、独特のスピード感、緩急があるのだが、訳者が自身の解釈に基づいて意図的にそのようにしたという。どのような解釈かはこの現代語訳の“核心”でもあるので、ぜひ本書を手にとって「訳者まえがき」を読んでほしい。

特に二条が宮中を追放されるまでの文章は、その緩急によって、若くて美しく、男たちを虜にする身勝手さと、それにさえ翻弄される憂いとが、生々しくでもどこか冷めた感覚で表現されているところが、本訳文の魅力でもある。

特に私がおもしろいと思ったのは、ところどころに「コーディネート」「自粛ムード」「ノリノリ」「アンニュイ」「センチメンタル」などの、現代のカタカナの言葉が使われていることである。「イヤ」とか「ダメ」も用いられている。

参考までに「アンニュイ」という言葉が使われている場面を、代表的な現代語訳の一つでもある瀬戸内晴美(現、寂聴)さんの訳と比べてみると・・・

瀬戸内訳(『とはずがたり』 新潮文庫 92ページ)
隙ゆく駒の速さは早瀬川のようで、一度越えてしまえば元に返らない年波が、我が身に積り重なるのを指折り数えてみると、今年ははや、十八になっていました。百千鳥の囀る春の日影ののどかなのを見るにつけても、何とはなしに心に湧く物想いが忘れられる時もなく、御所の中がいくらはなやいで
いても、一向に心がひきたちません。
新訳(『とはずがたり』 光文社古典新訳文庫 129ページ)
時というものは早馬のように、急流のように、あっという間に過ぎていくもの。建治元年(一二七五)正月元旦の今日、この体に積み重なった年月を数えてみれば、私は十八になっていた。鳥たちがさえずりわたる春のうららかな陽の光を見ても私の心はいつもアンニュイで、この鬱屈した気持ちは片時も心からなくなることがない。私が仕える富小路の御所がいくら新年の晴れがましさの中にあっても、私は到底はしゃぐ気になれなかった。

出だしの一文は、瀬戸内訳が「駒」「早瀬川」「よる年波」など和歌に使われる言葉をそのまま文の中に練り込みながら、原文の息の長さを生かした文体に仕上げている。

それに対して新訳の方は、「早馬のように」「急流のように」と、その文意や言葉のニュアンスを損なうことなく、現代でも使うわかりやすい端的な言葉を重ねる。そして、時の速さと自身の年齢に対する感慨を二つの文に分けて、文末表現から丁寧語を外すことで、女性とも少女とも言えない年齢のぶっきらぼうな思考回路が表現されている。もっともこれを書いている二条は実際には50に手がとどこうかという年齢だったと思うが・・・。

私は新訳の「アンニュイ」の一文を読んだ瞬間に、「ああ、たしかに10代の春って、気候や人が明るければ明るいほど、自分のもやもやした気持ちをもてあます、けだるい季節だったな・・・」という気持ちがわきおこり、二条の気持ちにダイレクトにつながった。

瀬戸内訳の「百千鳥囀る・・・物想いが忘れられる時なく・・・」も古典を読んでいる安心感と満足感はあるのだけれど、だからこそ遠い時代の人の気持ちなんだなという気がして、身近に感じることはない。

もちろん、文章の好みは読む人それぞれだし、どちらがいいわるいというのではない。この一段落からでも、新訳の趣旨「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」が実現されていることを感じてもらえるのではないか。


半世紀を経て自身を語る言葉を取り戻した女の生

さて、先にあらすじというか、二条の人生についてざっと記したが、漫然と読んでいたときには感じなかった、胃の底がしめけられるような不快感におそわれた。おそらくこれを読む多くの女性がそうなのではないか。こんな理不尽な人生って・・・。

あらすじでも書いたように、二条は後深草院と妃の一人として婚姻関係にあったわけではなく、宮廷内の役職が与えられた女官というでもなく、貴人で身の回りの世話をする女房という扱いだった。

女房といえば、妃たちの家庭教師的な役割をになった紫式部も清少納言もそうだけれど、二条の場合、それとは少し役割が異なる。貴人に仕える女性の中には、男性貴人の身の回りの世話をしながら性の相手をする者もいて、げんに二条の母もその役割を担っていた。

おそらく、医療が発達していなかった時代の、天皇を頂点とする宮廷社会の生殖のシステムを担保する存在としてこのような女性が必要とされたのだろうが、時代とともに本来の役割が失われ、貴人の愛人として所有物のように扱われたのではないか。

だからといって女たちはそれに納得していたわけではない。二条も後深草院の思惑で男たちの相手をさせられるたびに、

私は死んでしまいたいと思った。御所さまは私をあの中年男に渡すというのか。(『とはずがたり』 光文社古典新訳文庫 211ページ)

逃れるところもなくてそのままいいようにされ、憂き世なんてこんなものなのだろう、とため息をついてみた。(同 255ページ)

となんども絶望の淵に立たされた。

そんな二条が宮中を去ってから8年後、34歳のときに出家姿の後深草院と再会を果たす。後深草院は尼僧姿の二条に向かって、女の身ではなかなか旅なんてできるものではない、誰か連れ歩く男がいるのかと問いただす。それまでは後深草院の話しをしおらしく聞いていた二条だったが、この問いかけをきっかけに、何かのスイッチが入ったかのように、あふれる思いを語り出す。

父母と死に別れたこと、後深草院に養育され仕えた日々のこと、出家後の旅のこと、仏道修行のこと、折にふれて思い出す後深草院や都の人々のことなど・・・

宮中で後深草院に仕えていたときは、どんな男の相手をさせられても、どんな仕打ちを受けても、後深草院に胸の内を語ることがなかった二条が、珍しく長広舌を繰り広げる。

ああ、二条はやっと言葉を取り戻したんだ・・・。

これを読んだとき、そう思った。

二条が後深草院に何も語ろうとはしなかったのは、深草院を幼いころから寝起きをともにした人として慕っていたのと同時に、それ以外に頼るものがなかったからだ。庇護者とはいっても身分社会では絶対服従、被庇護者は言葉など持っていないのにひとしい。

一方、後深草院がこの場面で二条に問いかけている内容から推測するに、二条が何も言わずに自分の言いなりになってほかの男たちを受け入れていたのは、二条にそのようなことを好んで受け入れる心根があるからだと思っていたからなのではないか。だから弟亀山院との関係が世間で噂されたとき、二条はやはりそういう女なんだと思ったのだろう。二条の自分を思う気持ちを聞いても納得がいかない後深草院は、そうは言っても昔の男とよりを戻したのではないかと食い下がる。

しかし、二条はそれにも怯むことなく、そんなことをしたらこれまでの仏道修行が水の泡になると(といった趣旨のことを)いってのける。出家した二条は誰からの庇護も受けられずに、両親の遺した財産を売って生活費や旅の費用にあてている。それでも、自身の足で立ち、自身の考えで旅をし、さまざまな思いに迷いながらも仏道に励んできたからこそ、このようなことを伝えることができたのではないか。

それをきいた後深草院、思うところがあったのか、やっと自分にむけられた二条の真心に思い至る。二人は近い再会を約束しながらも、これが今生の別れとなる。

十数年後、熱病を患っていた後深草院がいよいよという噂をきいて、いても立ってもいられなくなった二条は、昔想いを交わした男を頼って後深草院の寝所におもむき、その姿を目に焼きつけた。

そしていよいよ、本作のクライマックス、二条が裸足で走りながら、後深草院の葬送の車を追いかけるにシーンに突入する。王朝文学では貴族階級出身の女が裸足で走る姿など目にすることはないが、モノクロフィルムのラストシーンを観ているような、陰影のある文章が胸をうつ。このシーンはぜひ本書で堪能してほしい。

後深草院の崩御後、二条は後深草院の供養のための写経を続けながら、自身の和歌が勅撰和歌集に取集されることを願い、和歌の道に精を出す。そしてこのころ、『とはずがたり』の執筆をはじめたのではないかと考えられている。

養父でもあり、想い人でもあり、人生にさまざまな影響をもたらした男との永遠の別れを経て、自身に降り積もった半世紀の年月と向き合う二条。やっと、真に自身を語る言葉を得たように思えてならない。





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