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“所在”ないな

永遠に止まらないんじゃないかと思った。

気になっていた新刊を買おうと書店に立ち寄ったが、自力で見つけられずに丸メガネの店員さんに頼んだ。

あちこち歩き回って探してくれたその本は、あろうことに書店の1番良い場所、つまり入り口に平積みされており、「順調に売れているのだな」と思った。

そんな本を膝に乗せたまま、1ページも読まないまま、ずいぶんと長いこと眠っていたらしい。

スーツを纏った人々を多く乗せた車内は物音ひとつせず、ただAirpods越しにゴオオ、と線路を滑る音が静かに鳴り響いていた。

当たり前だけど、駅と駅の感覚は途方もなく開いている。車内アナウンスにじっと耳を傾けていないと、自分が今どこを移動しているのかがわからなくなる。

目を開いた瞬間がまさにそれで、一瞬デパートでおかあさんを見失った迷子のような心細い気持ちに襲われた。

ふと窓の外を見れば、そこには景色の代わりに寝起きの冴えない自分の顔がぼんやりと映っており、慌てて目を逸らした。

すっかり生ぬるくなってしまった本の表紙をそっと撫でる。

今週は仕事での移動がとても多くて、週のあたまには福岡に行ったし、今日は岡山と大阪に行ってきた。

はじめて降りた岡山の印象は、とても栄えていて、「東京だよ」と写真を見せられて言われたらうっかりそのまま信じてしまいそうだった。申し訳程度に駅なかで売られていた400円のきびだんごを買い、リュックに詰めた。

所在ないな、と思う。

手持ち無沙汰、やることがない、という意味で使われる言葉だけど、わたしの言う所在というのは、文字通りだ。

なんだか場所がない。

福岡も岡山も大阪も、一部を切り取ってしまえばぜんぶ同じように見えたし、それは東京の土地を踏みしめても変わらない気がした。それでもなお、みんな生まれ育った場所に背を向けて東京に向かっていく。

わたしは今、どこにいるんだろう。

どこまでも走り続けるようだと思えた新幹線はキッチリ定められた場所で止まり、機械音を鳴らした。本を脇に携えて階段を降りる。

目の前に広がる大海原のなか、人の波にうまい具合に乗っかってゆらゆらと揺られていく。

道標は手のなかに示された路線案内だけ。一瞥してポケットのなかにしまい、わたしはやっと本を開いた。

「はじめに」。

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