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自分の気持ちを、大事にしてあげなくてごめんね

自分のことを尊重してくれる人が好き。

それはもちろんみんなそうだと思うけど、尊重してくれるような関係性づくりって、案外むずかしいんじゃないかと思う。

そして尊重されるかどうかって、パワーバランスに寄るんじゃないかと気付いてしまった。

初対面の場合は、パワーバランスは均等だ。

たとえ仕事上の上下関係はあったとしても、あまり関係ない。他人だし、お互いのことをあまり知らないから。

それが、少しずつ相手のことをわかるようになるにつれて、たとえば「信頼できる部下」であれば尊重が生まれる。仮に「仕事ができない部下」も尊敬はなくても「そういう人なのだ」と一線を引くだけで、気遣いという名の尊重が生まれる。

やっかいなのは、「コイツなら、何やってもいいな」と思われる関係性だ。

ちょっと見下された瞬間に、パワーバランスが生まれる。そうすると、自ずと相手のことを雑に扱うようになっていく。

ちょっと無茶なことを言ってみたり、自分勝手な用事に連れ出したり、ドタキャンをしたり、不機嫌になってみたり。

むずかしいのは、わたしも向こうも、たぶんお互いのことを「嫌い」だとは思っているわけではないということ。

ただ、「何でも言うことを聞いてくれて便利」「何をしても嫌われない」という甘えがそこにはあるのだと思う。

このパワーバランスというものは厄介で、一度形成されるとなかなか元には戻せない。

はじめは尊重してくれていた人が、だんだん雑に扱ってくるようになっていく。

そんな様子を見るのって、結構悲しい。

言うことホイホイ聞きすぎたかな。なんかオドオドしちゃったかな。甘やかしすぎたかな。パワーバランスの調整に失敗したとき、少し自分を省みる。でも、パワーバランスは戻らない。

そして、思い返してみると、わたしはたぶん、いわゆる「パワー強めな人」の下にいたことが何度かある。

大してこだわりがなかったので、ドタキャンされても「別にいいよー」と返してきたし、冗談で軽くディスられても受け流せた。

学生のころ、「18時から観たいドラマがあるから」という理由で帰路を早歩きさせられたこととか、約束当日朝に「眠い」とドタキャンされたこととか、「寒いからドア閉めて」と言われたこととか、当時は全然なんとも思ってなかった。

「別に負担じゃないし」と思ってホイホイやっていたけど、未だにこうして鮮明に憶えているということは、心のどこかでちゃんと傷ついてたんだと思う。

ただ、今立ち戻ってみても、「わたし早歩きヤダから一緒に帰れないわ」「こちらも予定を空けてたのに残念だわ」「自分で閉めなよ」という言葉がスルンと出てくるかといえば、たぶん無理。

だから、ふとした瞬間に過去に言われた言葉を思い出すたびに、心のなかでそっと返してみる。こういうとこ、本当に根暗だなと思う。

でも、面と向かって言えない性格なのだから仕方がない。それを言ってしまったあとの、相手の表情なんて恐ろしすぎて見えない。

きっと心地よい言葉ではないことは明白である。たとえそれがその人のためであっても。

思い出すたびに、いやー、自分まあまあひどいこと言われてんな! と気付くし、なんだか申し訳ない気持ちになる。

母にはよく「ちゃんと怒りなさいよ」と言われていても、波風立てたくないわたしは、それを無視してジッとしていた。でも、今ならわかる。

ヤダって気持ちを、大事にしてあげなくてごめんね。

今は、自分のことを大切にしてくれる人としか一緒にいない、と決めたので、心はだいぶ健やかになった。人間関係を断ち切る術も得た。

それができるようになったのは、人生のなかから一つずつ「ヤダなぁ」と思うことを消していって、ワガママになれたからなのだと思う。

それでもたまに思い出すと、ちょっと心がギュッとなる。

あのころは、ちっとも気付いてやしなかったけど、わたしはまぁまぁ繊細だった。そして、「センシティブすぎるかな」「わたしが気にしてるだけかな」とか思わずに、その繊細さを守っていきたいと思った。

自分の気持ちに蓋をすることは、自分をひどく傷つけることなのだと知る。自分が思っている以上に傷つきやすい自分のことをもっと大事にしてあげたい。

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