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おばあちゃんが死んだ

 感染病COVID-19(新型コロナウイルス)の流行で私たちの生活は急激に大きく変わった。2020年3月後半から約2ヶ月の外出自粛期間中、私のなかに起こった思考の変化について備忘録をつけておこうと思う。

※備忘録「HUNTER×HUNTERでジンが教えてくれたこと」もよければご一緒にお読みください。

みんな覚悟はできていた

 2020年5月3日、久しぶりに美容室で髪を切った。サッパリとした気持ちで自転車を走らせて帰宅し、スマートフォンを見ると母からの着信履歴があった。電話の履歴だけでLINEのメッセージがないことから緊急かつ重大な連絡であることを察し、すぐに折り返すと、母は「おばあちゃんが昼すぎに亡くなりました」とあっさり言った。私は「そっか」と言い、通夜・葬儀に関するいくつかの事項を確認して電話を切った。実に簡潔なやりとりだった。

 102歳、大正から令和まで4つの年号を生きた文句なしの大往生である。帰省して顔を見るたび「今回が会えるの最後かも。今までありがとう。」と心のなかで何度となくつぶやいてきたし、毎日一緒に暮らしているわけではないこともあって、ショックや喪失感はほとんどなかった。だから、電話で母が「集まる人みんなお年寄りばかりで万が一にも感染したら困るから、葬式には来ないでね」と言ったことについても、私は抵抗なく受け入れた。私以外の東京に住む親戚も、葬儀には参加しない方針で一致した。

移動の自由

 祖母の訃報から数時間経った頃、私はつい数日前に友人から聞いた「移動の自由」という言葉を思い出していた。新型コロナウイルスの感染拡大にあたって開催された、複数の学者によるオンラインワークショップ「感染症の哲学」を受講した友人が教えてくれた話で……と書くとめちゃくちゃ難しそうな話に聞こえるが、「移動の自由」について考えることは、祖母を亡くした私にとってかなりリアルなことだったし、それは人間の根本にかかわるシンプルかつ重大な問いでもあった。

当然の自由が 当然に奪われる

 どこかからどこかへと、移動する自由。そんなことはこれまで生きてきてほとんど問題になったことがなかった。旅費が高いとか、大雪で飛行機が飛ばないとか、一時的な足止めを食らうことはあってもその程度のもの。それだけ、移動することは当たり前に保証された権利だった。
 ところが新型コロナウイルスが流行し、人びとは突然に移動の自由を奪われた。海外に行くことも、海外から戻ることもできない。日本では都市封鎖はされなかったものの、都道府県をまたぐ移動は自粛を強く呼びかけられた。「感染拡大を予防するためには当然だ」という考えはもちろん、"正しい"。

囚人レベルの制限を受け入れる私たち

 平常時の世界では、移動の自由に関する制限は囚人にしか課されないものであるという。それを認識してはじめて、「これはかなり大きな問題だ」と気付かされる。海外の封鎖を決めた都市では罰則まで伴うものとして、移動の自由が奪われている。日本では罪になることはないが、ある朝のニュースでは東京駅から帰省しようとする若者にインタビューした映像を、顔にモザイクをかけて放送していた。その扱いは、まるで犯罪者みたいだった。
 私もずっと、どちらかといえばそのニュースに出ている若者を責める側の気持ちでいた。家族のために、友人のために、なぜちょっとの間移動を我慢することができないのか?と。しかし「囚人レベルの制限を受けている」ことを知ると、感覚が少し変わってくる。

「どうしても移動したい」が叶わない世界

 幸い日本では移動によって罰則を受けることはないが、海外では厳格にルール化されている国もあり、違反により体罰を与えられている例もある(動画参照)。まあ「遊びたくて外に出ちゃいました」みたいな人はちょっと置いておくとして、何らかの理由でどうしても移動したい人の場合はどうなのだろうか、と考えてみる。

 もしも、命を賭してでも、世間に批判を受けてでも、ルールを破ってでも、ある場所に今行かなくちゃいけない事情や理由があったとしたら?

―家族の持病が悪化し、一刻も早く海外の専門医療機関を受診したい
―遠方にいる恋人が交通事故で大けがを負い「2、3日」と余命宣告された

 実際にこのような状況になったとき、厳しく移動が制限されていたらと思うと、ゾッとする。事情や理由の重みが、あらゆるリスクと天秤にかけても勝ってしまう場合を想定したとき、はじめて自由が制限されることの恐ろしさを知るのである。
 カミュ『ペスト』の登場人物ランベールも、最愛の人に会うため感染病に侵された都市からの脱出を図る。都市の出入りが例外なく厳しく禁止されているにもかかわらず、あらゆる手段を使っての移動を試みたのである。
 同じ状況に置かれても、私は「感染予防のためだから当然」と言うことができるだろうか?私にはこの自粛期間中に「どうしても移動したい」事情がなかった、ただそれだけのことだと思った。

祖母の死が教えてくれたこと

 私がこの記事で言いたいのは「祖母の葬儀に親の反対を押し切ってでも参加すべきだった」とか、逆に「私にとって祖母の死が大したことではなかった(移動に値しなかった)」ということではなく、祖母の死が私に考えるきっかけを与えてくれたということだ。葬儀に参列できないことをすんなりと受け入れた私だったけれど、それについて「コロナだから当たり前」とすぐに割り切ってしまうのは、あまりに思考停止してしまっていないだろうか?と、改めて問いかけることができた。

 囚人にしか課されないはずの大きな制限が、万人に対して当然のように適用されている状況。移動の自由が奪われていることは、かなり異常な事態なのである。それが感染予防の名の下に行われているものであっても「当然のこと」として受け入れてしまうのは危険だという哲学者からのアラートを、私は心で受け取ることができたように思う。

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