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チェンソーマンがすきなのは、ハンターハンターに似てるからじゃない

 2か月ほど前、私は『チェンソーマン』というマンガを当時の最新巻(8巻)まで一気に読んで見事にハマってしまった。私が作品に対してここまで熱を上げたのは『HUNTER×HUNTER』以来はじめてのことだ。

「HUNTER×HUNTERがすきなら」

 と、人によくおすすめされた作品が『チェンソーマン』と『呪術廻戦』。呪術廻戦は未読だが、チェンソーマンは読みはじめに「たしかにちょっと近い…?」と感じ、HUNTER×HUNTERを読むときと同じ心持ちで読み進めていった。

 ところが、それが大きなミスだった。7巻の終わりくらいから徐々に雲行きが怪しくなり、先日発売された9巻で、完全に「なんか…思ってたんとちゃう…」となってしまったのである。すごくすきになれた作品だったから、最新8~9巻にハマれなかった事態にしばらくマジでヘコんだ。

 これは決してチェンソーマンがおもしろくないという話ではなく、私の作品に対する向き合いかたの問題。私はHUNTER×HUNTERを前提にすることで、チェンソーマンという作品にピントの合わない期待をしていたのだった。

チェンソーマンを見つめよう

 そもそも、ある作品と向き合うときに他の作品に似ているかどうかで考えるのは失礼かとは思うが、まっさらな状態で何かと向き合うことができない私たち人間は、いつでも何かと比べたり参照したりしながら作品を消化する。今回はそのやりかたがまずかったな~と反省している。

 しかし、途中でハマれなくなったモヤモヤを解消するべく何度かチェンソーマンを読み直すうちに「いやびっくりするほど似てないけど最高のマンガではある!!」と思うようになってきた。

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 私自身はじめは「HUNTER×HUNTERっぽいからチェンソーマンがすき」と思い込んでいたけれど、どうやらぜんぜん違った。じゃあ私がいまこの作品に感じている魅力って一体なに……?すきなものをすきな理由なんて「なんとなく」でいいと思うけれど、今回ばかりははっきりさせねば!

 というわけで、この両作品がいかに違う方向を向いているかを確認し、すきの理由を暴くことですっきりしたい。

なぜH×Hが引き合いに出されるのか

 正直なところ「ぜんぜん違うわい」となってしまった今、何がHUNTER×HUNTERに似ていると感じさせるのかいまいちはっきりしないが、このあたりが要因かなというのをまとめてみた。

① 作品全体に漂うトーン[似てる度★★★★☆]
 かつてONE PIECEを読んだあとに、はじめてHUNTER×HUNTERを読んで真っ先に感じたことだが、作品全体にどこかジメッとした暗い空気が漂っている。チェンソーマンにも冒頭から同じニオイを感じた。

② 構図や視点が映画的[似てる度★★★★★]
 デンジとマキマが1日かけて映画を見まくるシーンがあるように、作者はかなりの映画ファン。

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 一方、HUNTER×HUNTERの冨樫先生も映画がすきで「構図や視線誘導の天才」とよく称される。私はマンガを描かないので詳しくはわからないが、おふたりは映画から多くを学んで画を作るのだろうと想像する。両作品とも、とくにバトルシーンは躍動感があってかっこいいし、純粋に一枚の絵として美しく惚れ惚れしちゃうよなあ。

③ 惨殺シーン、グロ描写が多い[似てる度★★★☆☆]
 とにかく人が死ぬ!それに死に方がグロい。しかし、重要人物までもが呆気なく死んでしまうところがHUNTER×HUNTERとの大きな違い。実は、私はこの部分で勝手にがっかりしてしまったのだ。これについてはのちほど詳しく書く。

④ キャラクターが物語を推進する[似てる度★★★★★]
 これはHUNTER×HUNTERとの大きな共通点だと思う。プロット自体も手が込んでいるが、キャラクターの力が強い。物語のなかでキャラを動くというより、キャラが物語を左右しているように見える。同じジャンプでは『約束のネバーランド』が逆に"物語ファースト"な作品だった。

⑤ オマージュらしき場面がある[似てる度 - ]
 チェンソーマンには、HUNTER×HUNTERがすきなら一瞬でピンとくるシーンがある。ここはじめて見たときテンション上がったな〜。

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 実際オマージュだとは思うが、だからといって作品全体が寄せてるような印象はない。ただ藤本先生の冨樫リスペクトが伝わってきて、グッと来るポイントだ。
 HUNTER×HUNTERが休載に入った週からチェンソーマンが連載開始したということで、一回でも2作品が同じジャンプの誌面に載ることを願う読者も多い。

 チェンソーマンがHUNTER×HUNTERに似てると感じるとか、同じ人が「すきなマンガ」として両作品を挙げることが多いのは、①②④あたりが効いているような気がする。ジャンプらしからぬ突き抜けた暗さ、映画的な美しさ、そしてキャラクターの推進力が似た空気を感じさせるのかもしれない。さて、本題はここからだ。

『ファイアパンチ』―カオス化のドキュメンタリー

 チェンソーマンを8巻まで読んだあと、すぐに前作『ファイアパンチ』を読んだ。作家や芸術家の深堀りは普段あまりしないが(したほうがいいよ)、藤本タツキという人間に底知れぬ魅力を感じた私は読まずにいられなかった。

 ファイアパンチ全巻(8巻)を読んだ直後の私の率直な感想は「ぜんぜん感想が出てこない」だった。感動して絶句するという意味ではなく、文字通り感想が自分のなかから出てこなかったのだ。映画『2001年宇宙の旅』を観終わったときと似た感覚だった。

 5巻くらいまでは「なるほどおもしろい!なるほどおもしろい!」と物語を理解・共感しながらおもしろさを積み重ねてゆくのだが、ある出来事をきっかけにどんどん複雑な展開がくり返され、説明が省かれ、話の焦点が見えなくなってくる。そうして、事実として何が起こったかはわかるが、何を伝えたいのか明確でないままクライマックスを迎えるのである。

 人がそれぞれの信念や感情にしたがって行動するうちに、世界はどんどんカオス化する。あらゆるものごとは決してひとつのお話(=誰かの主観や解釈)にきれいに収束するものではなく、ただ混沌とした事実として堆積していく。これは本来、なによりもリアルなことだ。それがひたすら美しい画で描かれていく『ファイアパンチ』は、まさに一本のドキュメンタリー映画を見ているようだった。藤本先生の作品は、情緒的な物語に軸を置いたものではないことを、私は知った。

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創造の神と破壊の神

 「起承転結」という言葉があるように、従来、物語においては一貫性や意味性が重視される。冨樫先生はかなり高度に物語を構築するタイプの作家で、ある意味"正統派"と言えるかもしれない。複雑ではあるが、すべての要素がたしかにひとつの帰結に貢献している。ひとつひとつの点を丁寧に積み重ねていって、最後には一本の美しい線になっている。それによって大きな感動とカタルシスを生みだすところが冨樫作品のすばらしさだと思う。

 それに対して藤本先生は、積み重ねてきた点をあえてひとつの線に収束させずに広げることで、読者の想像をどこまでも裏切り続け、物語のあり方を根本的にぶち壊すというパンクな作家だと感じる。そしてその破壊のようすが非常に美しく描かれるので、読者は「?!」の連続に振り回されながらもどんどん魅了されていく。ファイアパンチは、最初と最後で同じ作品とは思えないくらい物語が拡大している印象だ。たぶん、チェンソーマンにもその美学が反映されていて、7巻くらいまで丁寧に積み重ねてきた物語的なおもしろさを8巻くらいからカオス化・破壊する段階に入ったのではないか(=完結に向かう?)と思う。

 両者とも美しい作品を描く鬼才だが、冨樫先生が「美しい物語を創造する」のに対し、藤本先生は「物語の破壊によって美しさを描く」。似てるどころか、真逆をいく美学じゃん……。

登場人物の死について

 これまで書いてきたことが顕著に現れるのが、戦闘と死のシーンだと思う。チェンソーマンもファイアパンチもそうだが、藤本先生の作品内では、かなりの重要人物もサクッと死んでしまう。

 HUNTER×HUNTERのカイトのように死の確定までたっぷり時間をつかうわけでもなく、パクノダのように共感できる葛藤の描写があるわけでも、ネテロのように丁寧に人生を振り返るわけでも、メルエムとコムギのような長い長いやりとりの末にある感動的な最期、というわけでもない。
 藤本先生が描くのは、カタルシスなど皆無の、唐突に訪れる無慈悲な死だ。上でも書いたが、藤本先生の美学を自分なりに飲み込むまでは、読んでいて受け入れ難かった点である。

 HUNTER×HUNTERを読んでいるとき、私はあるキャラクターに対して愛憎入り混じる感情をたくさん積み重ねたうえで死という出来事に直面することで、大きな感動を得ていた。しかしチェンソーマンにはそれがない。キャラクターへの愛着が育ちはじめたあたりで殺され、話が次のフェーズへどんどん展開してしまい感情の行き場を失うことにモヤモヤを抱いていた。

 しかし「藤本先生の作品にとって死は破壊のポイントであって、情緒的な描写ではない」と捉えるようになったことでスッと腑に落ちた。

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9巻、このシーンからはじまりラストまで圧巻の破壊

藤本タツキはマンガの物語性を問う

 私は7巻くらいまで、HUNTER×HUNTERを投影していた。つまり、高度な物語性を期待していたのだ。だからこそ「超おもしろい〜」と思いながらも、展開の速さや重要人物がさらっと死ぬことへの違和感を覚えていた。

 しかしいまは、藤本作品の一番の魅力を「物語を破壊する瞬間の美しさ」だと思っている。藤本先生は、ひとつの物語に閉じない、いくつもの解釈を可能にした(もしくは解釈そのものを必要としない)開かれた世界を提供する。そういう意味で、映像作品にかなり近いと思う。

 マンガの常識的なフォーマットのなかで才能を発揮するにとどまらず、マンガにおける物語のあり方を問い、マンガでできる新たな表現を提示するスタイルは「かっこいい」と言うほかない。

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 もちろん「破壊」と言っても、とにかくはちゃめちゃにやるということではない。絵や構図の美しさ、絶妙なキャラ作り、言葉のチョイス、ロマンスと性の描き方、他作品からの引用など、マンガ家としてのあらゆるスキルの圧倒的な高さと稀有なセンスに支えられているからこそ、新しいことをやっていても読者はついてくるし、夢中にさせられるのだと思う。

世界を広げてくれたマンガ

 私がはじめにモヤモヤを抱えてしまった原因は「経験不足」の一言に尽きる。チェンソーマンを味わうための引き出しが自分になかっただけのことだ。

 マンガを積極的に読みはじめて間もない私のなかにある、少年マンガにおけるおもしろさの絶対的な基準がHUNTER×HUNTERだった。チェンソーマンという作品はその価値を相対化し、私の世界を広げてくれた。

 藤本作品は特にマンガだけでなく、映画や歴史の知識があったらもっと楽しめるはず。他のマンガや映画作品を経て、もう一度チェンソーマンを読んだらどれほど味わい深いか……想像するだけでテンションが上がる。HUNTER×HUNTERに似てないチェンソーマンに出会えて、本当によかった!

 作者の藤本タツキ先生や、出会いのきっかけを与えてくれた「少年ジャンプ」に心から感謝します♡

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