18_変

「いかにして楽に死ぬことができるだろうか」
と誰もが一度は思ったことがある言葉。
検索を書ければ、ご丁寧にこころの健康相談が一番上に出てくる。
その網を掻い潜って、見つけたのは宗教やらスピリチュアルやら胡散臭いもの。
「辛くとも生きるべき」だとか。
「生きた先に光がある」だとか。
自分が求めている科学的な答えは見つからないし、最近では楽に死なれては困る人達がいるのではないかと思う事も多くなってしまった。
陰謀論というのは、病んでいる時ほどとても心に響く。
それが明らかに社会的に倫理的におかしくとも、ふと心のスキマに入ってくる。
まだそれが人々の迷惑になると分かるうち、理性が働いているうちはいいが、少なくとも犯罪者予備軍であることには変わりないだろうという思考は拭えない。
そしてある時、「やってやろう」という別ベクトルが働いてしまって、あるいは「どうでもいいか」という投げやりが働いてしまって、誰かを傷つけ、あるいは殺めて、数日だけ平和なお茶の間にエンターテインメントを提供する存在になるのだろう。
それもまたいいかもしれない、という思考も微粒子ながらまた生まれてしまう。
変人はおとなしくいなくなったほうがいいと世間は誰しもが思っているはずなのに、これだけ医療が進んでいるはずなのに、いや安楽死を容認している国があるというのに、どうしてこれほどにも「いかに楽に死ぬことができるだろうか」という簡単な問いに対して、答えを教えてくれないのだろうか。
答えさえあれば、きっともっと平和で綺麗な世の中になるかもしれないのに。

と言うようなことを書いてみた。
これは私が発作が起きて、死ぬかもしれないという恐怖、実際には心臓も呼吸もできているから死ぬことはないのだろうが、上記のような思考が恐ろしいくらいのスピードで脳内を駆け巡ってしまうのだ。
働いていた頃の貯金はまだあるが、もって半年。
公的制度を利用して生活できているが、いつまで有効か。
不安の種がそこら中にある事は理解している。
それが本当に死ぬまで亡くならない事も理解している。
でも私は理解できない病のようで、先生の墨付きをもらってしまった。
お墨付きをもらっても、何も光は見えない。先は見えない。
脳に溶ける抗不安薬。とろける感覚。
それで眠ることができる。いや、それがないと眠れなくなってしまった。

私は今も生きている。
心臓は脈を打っているから生きたいと願っている。
自傷した場所が痛むので生きたいと願っている。
発作を抑える薬を飲むので生きたいと願っている。
私は今も生きているのだろうか。
「生きててありがとう」なんて自分に言ってもしょうがないだろう。

いかにして楽に死ぬことができるだろうか。
またいつか検索をするんだろう。

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