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唐組「泥人魚」

唐組の「泥人魚」を観た。
唐十郎さんの訃報は、残念以外の何ものでもなく、あまりにも思いがけないもので、今だに信じられないが、そんな折も折、何というタイミングで、この「泥人魚」は上演されたのだろうか、とその偶然に驚きと巡り合わせを思わずにはいられない。
この「泥人魚」は、諫早湾の干拓事業、通称「ギロチン堤防」がモチーフとなっている。
これまでに、いくつもの唐十郎演劇を観てきているが、この「泥人魚」のように、具体的な社会問題を直接的に作品のモチーフとして取り上げているのは珍しいのではないかと思う。
唐十郎演劇が社会問題や、日本〜アジア〜世界の社会状況と関わりがないとかそういうことではもちろんなく、より比喩的〜暗喩的に用いられることが多いという印象があるので、この「泥人魚」のモチーフの直接性に些かの驚きすら覚えたのだ。
「泥人魚」は、2002年の諫早湾の現地取材を経て書き下ろされて、2003年の春に初演をされているが、このときは観ておらず、21年ぶりに蘇った再演を初めて観た。
縦横無尽に飛び交う唐十郎の身体言語はいつものようにどこまでも飛翔し、観る(聴く)者の想像を超える次元に連れて行ってくれ、そしてまた幻惑をもさせられる。
またしても唐十郎の次から次へと紡ぎ出す魔法の言葉にがんじがらめに絡め取られ、それはもはや快感としか言いようがない。
この戯曲は書籍化されているので、事前に読んで、いわゆる予習的なことをしたのだが、活字上では、通して読んでも今ひとつピンとこない言葉の連鎖が、それが実際の上演で肉体言語化されたときには、面白いくらいに、そして恐ろしいくらいに、こちらの頭及び身体に飛び込んでくる、染み込んでくるという体験をすることが、唐演劇の醍醐味である。
これも魔法としか言いようがない。
思えば、初めて「状況劇場」の芝居を観たのは、たしか1979年の「犬狼都市」で、以来、数々の唐十郎演劇を、「状況劇場」「唐組」「新宿梁山泊」などで、断続的に観続けてきているが、それが再演であっても、毎度毎度、常に新鮮な驚きを味わわせてくれ、必ずと言っていいほど稀有な観劇体験をもたらしてくれる。
この「泥人魚」は、先週末で新宿花園神社での公演を終えて、最終上演地の長野に向かった。
ところで、「新宿梁山泊」による「おちょこの傘もつメリーポピンズ」の上演が、間もなく今週末から、やはり花園神社境内にて行われる。
こちらは、客演陣が、中村勘九郎、豊川悦司、寺島しのぶ、六平直政、風間杜夫と豪華なことが事前より大評判を呼んでいて、チケットがまったく手に入らない。
当日券も若干枚は発売されるとのことだが、こちらもおそらく手に入れるのは至難の業と思われるので、仕方ない、こちらとしては、PARCO出版から四十年ほど前に発刊された「状況劇場全記録」を眺め、「状況劇場劇中歌集」を聴きながら、後ろ髪を引かれる思いで花園神社境内での「おちょこの傘もつメリーポピンズ」に思ひをはせるとしよう。

寺山修司は、1983年の5月4日に亡くなっている。唐十郎が亡くなったのも5月4日、なんらかの因縁〜巡り合わせ以外の何ものでもないのだろうな。

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