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とある外科医の非?日常生活(連載第1回)

連載小説第2弾は医療物のSFですが、三國らしく時代物の要素もありです。
舞台はアメリカのシカゴ。主人公は公立病院に勤める外科のレジデントで、女の子とみまごう超絶美形の日本人ハーフ。心優しき時代劇オタクです。お楽しみいただけましたら幸いに存じます。〈全文無料公開〉
*ずっと以前に書いた作品ですので、科学関係の情報等が少し古びておりますがご了承くださいませ。

    プロローグ
 身体をよじろうとしたダルトは、すさまじい痛みに思わず呻き声をあげた。だが、息を止めて姿勢を固定すると、何とか痛みをやり過ごすことができた。ほっとため息をつく。
呼吸を整えながら辺りを見回して、愕然とした。
『……ここは、どこだ?』
 真っ暗ではなく、ほの明るかった。しかし、柔らかい光に浮かび上がる風景には、まったく見覚えがない。
 記憶の断片が、ぱらぱらと剥落しながらゆっくりと降ってきた。
原因は不明だが、宇宙船がワープに失敗したのだ。警報が鳴り響いたかと思うと、瞬時に避難艇に収容された。
 白い閃光と身体がひしゃげるほどの激烈な衝撃に、大声で叫んだ。それ以降の記憶は、ぷつりと途絶えてしまっている。
 どうやら、どこかの星に不時着したらしい。避難艇が、着陸のショックで壊れたのだろうか。とにかく、ダルトは放り出されてしまったものと推察された。
 大気の組成も気圧も、たまたま許容範囲だったから良かったが、そうでなければ即死していたに違いない。ダルトは思わずぞっとした。
それはそうと、仲間たちはどこにいるのだろう。急に不安と心細さが、じわじわ這い上がってくる。
 そろそろと身体を動かしてみた。無傷というわけにはいかないが、幸運なことに致命的な怪我は負っていないようだ。
 地面はそれほど硬くない。湿り気を帯びた、きめの細かい粒子と粗い粒子が入り混じったもので覆われている。
ところどころから束になって突き出ている細長い物体が、大気の流れに揺れていた。
「おーい! 誰かいないか!」
 叫んだが返事はない。あたりはしんと静まり返っている。
『まさか、ひとりだけ生き残ったんじゃないだろうな』
 もしそうだったら、見知らぬ星でどうやって生きていけばいいのだろう。事故死を免れたのは、果たして幸運だったと言えるのか。
 暗澹たる気持ちで、ダルトは空を振り仰いだ。

 第一章  JACK-O'-LANTERN
     1
――2013年10月31日――
『ドラキュラが血まみれになってちゃ、ほんと世話ないよね』
 リュウイチ・タカミザワは、患者の第五肋間中腋窩線を切開しながら、心の中でため息をついた。消毒のためにふりかけたベタジン独特の臭いが、一瞬、鼻の奥に突き刺さる。
 今夜はハロウィン。羽目を外したお調子乗りたちが大勢運び込まれ、シカゴの公立病院であるオクセンバリー総合病院のERは、いつにも増して大賑わいだ。
 第五肋骨を覆う皮下組織から鉗子を入れ、第五肋骨の上縁に向かって、チェストチューブを差し込むトンネルを作る。折れた肋骨が肺を傷つけ気胸を起こしているので、チューブで脱気する必要があった。
 挿入したチューブを皮膚にOシルクで固定した後、ソラシール(水封式の吸引装置)に接続する。
「これで呼吸が楽になりますよ」
 リュウイチの笑顔に、ドラキュラは泣きそうな顔でうなずいた。口の端に血がこびりついているのが、何とも情けない。
 リュウイチと同じ二十五歳の白人男性。酔っ払って大騒ぎをし、道路に飛び出したところを車にはねられたらしい。幸いスピードが出ていなかったため、肋骨骨折と手足の打撲、擦過傷で済んだ。
 カルテに処置と使用薬剤を書き込み、スタッフ・ドクターをさがす。カルテにサインをもらうためだ。
 リュウイチは五年目の外科レジデント。つまり、一人前の医者になって丸四年が経過したということになる。
 外科はもちろん、外傷担当としてERでもこうやってこき使われているが、建前としては、スタッフ・ドクターの監督下でということなのである。
「ブライト先生、サインをお願いします」
「喉を刺された患者が来たから、担当してちょうだい」
 ER部長のビビアン・ブライトが、サインを書きなぐりながら、天気の話をするように、事も無げに言った。
「僕は夜勤明けなんです。本当なら、お昼にあがれるはずなのに、九時間も超過勤務。明日のシフトは朝の五時からだし。他のレジデントに頼んでください」
 むっとしているリュウイチの目を、ビビアンは真っ直ぐ見つめた。アーモンドの形をした大きな目。緑色の瞳に見事なブロンド。腰に手をあて胸をぐっとそらす。
 だがこの際、美人だとかスタイル抜群だとかいうのが目の保養になったりはしない。単にむかつくだけである。ビビアンが何と言ってやりこめるつもりか、手に取るようにわかっていたからだ。
「皆、手一杯なのはわかってるわよね。この状況で患者を放っぽり出して帰れるっていうのなら、止めはしないわ」
 ずるいよ、ドクター・ブライト。リュウイチは地団太を踏んでわめきたくなった。僕がそんなことできないって知ってるくせに。
 リュウイチはため息をひとつつくと、踵を返した。いつもこうなんだから。
「外傷三号室よ!」
 勝ち誇ったようなビビアンの声が追いかけてくる。悔しいから振り返らないけど、にまっと笑ってるに違いない。くそっ! 綺麗な顔して、白衣の下に、悪魔の尻尾を隠してるんだ。絶対に。
 怒りにまかせて三号室のドアを開ける。看護師のティナが、顔を上げると同時に眉をひそめた。
「まだいたの? リュウ」
「帰らせてもらえないんだ」
 ティナに八つ当たりしてしまってはまずい。わざとおどけた表情を作って大げさに肩をすくめる。
「緑色の目をした悪魔の仕業ね」
 やっぱりという表情でティナがうなずいた。『悪魔被害者の会』の同志としては、極当然の反応である。
「尻尾をつかんで振り回してやりたいよ」
 さあ、愚痴はもうおしまい。ドラキュラの次は何? こき使われることが半ば習慣と化してしまった自分に、そこはかとない悲しみを感じながら、リュウイチは診療台の上の患者に目をやった。
「へえ、サムライの仮装だ。でもちょっと地味目だね」
 黒い髪を後ろに束ね、紺色の着物に身を包んだ男は、年の頃は四十過ぎぐらい。日系か中国系か、とにかく東洋人だ。意識はなかった。カルテをチェックする。
「道路に倒れているところを発見……犯人は逃げちゃったと。状況から、頭部打撲の可能性があるね……血圧112の68、脈拍75、酸素飽和度97%……外傷時の血液検査と頭部CTをオーダーしといて」
「了解」
 リュウイチは手早く喉の傷を調べた。長さ三センチ、深さ二センチというところ。幸い大きな血管からは逸れているため、じわじわ出血しているが、致命傷ではない。縫合して抗生物質の点滴を施し、半日様子を見れば、無罪放免で大丈夫だろう。
「あら」
 患者を病衣に着替えさせていたティナの手が止まった。
「変わった下着ねえ」
「あ、フンドシって言うんだよ。下着まで仮装してるとは、結構マニアなのかもね」
 そう考えると地味ないでたちが、かえって心憎い演出のようにも思われてきた。
「よかったじゃない、リュウ。お友だちになれば」
 ティナが鼻にしわを寄せて、意味ありげに微笑んだ。日本人のハーフであるリュウイチが時代劇オタクであることは、病院中に知れ渡っているのだ。
「検討してみるよ」
 丁寧に傷を縫合しながら、リュウイチは密かに首をひねった。中肉中背の体躯ながら、どこかが違う。骨格や筋肉のつき方、日焼けの仕方が見慣れない印象を受けた。
 どういう生活をしている男なのか。ふとリュウイチは興味を抱いた。
     2
「リュウ! 喉の刺傷患者の意識が戻ったよ」
 カルテを見ながら廊下を歩いていたリュウイチは、ティナに向かって軽く敬礼をした。
「ラジャー」
 時刻は午後十時過ぎ。信じられないことにまだ勤務は続いていた。患者は途切れるどころか、どんどん増え続けている。この調子だと、次のシフトまで二、三時間仮眠が取れればよいほうだろう。
『もうため息をつく元気もないよ』
 外傷三号室の患者は、目を開けて天井を見つめていた。眉の濃い、意志の強そうな顔立ち。切れ長の目が炯々とした眼光を放っていて、一瞬リュウイチは気おされてたじろいだ。
 気を取り直してカルテをチェックする。
「血液検査も頭部CTもOKと。ええと名前は……タカノさん。呼吸が苦しいとか、胸が苦しいとかはありませんか?」
 やはり日系かと思いながら、リュウイチはたずねた。
「いいや、大丈夫だ」
 低くて深みのある声だ。
「痛みは?」
「ない」
「それはよかった。ちょっと胸の音を聞かせてくださいね」
 男が興味深そうにリュウイチの手元を見ている。やがて胸のほうに視線が移ると同時に、皮肉っぽい微笑が浮かんだ。
「何だ、男か」
 リュウイチは苦笑した。白衣の胸につけている、ID証の名前を見たのだろう。
 肩まであるゆるくウエーブのかかった黒髪を、白字で〝龍〟と染め抜いた臙脂色のバンダナで巻いている。華奢な身体つきも手伝って、子どもの頃から、女の子に間違われるのには慣れっこだ。
 バンビみたいな黒目がちの大きな目、すっきり通った鼻筋。かなりの美形なので、露骨にがっかりされることも多い。
「経過は順調です。このまま異常がなければ、明日の朝には家に帰れますよ」
 リュウイチの言葉をさえぎるように、男はやや早口でたすねた。
「ここは、どこだ?」
「オクセンバリー総合病院のERです。あなたは喉を刺されて倒れていたところを、運ばれてきたんです。犯人は逃げちゃったみたいですけど、誰にやられたか心当たりはありますか? 警察に連絡しないといけないので」
 負傷して運ばれてきたからといって、被害者だとは限らない。強盗犯が反撃されて傷ついたということも有り得るのだ。
だからボディチェックは必須である。この男の場合凶器は持っていなかったが、どちらにしても病院としては、警察に通報する義務があった。
 男が静かにかぶりを振る。
「自分で突いたんだ。どうやら死にぞこなったようだが」
 リュウイチは眉をひそめた。自殺未遂なら、また話は別だ。精神科のドクターを寄越してもらわないと。
「俺のさっきの質問だが、場所というのは国のことだ。英語が通じるということは、アメリカか、それともイギリスか」
『ひゃー、これはまずい』
 慌ててリュウイチは、血液検査のデータを見直した。ドラッグもアルコールもシロ。ううむ。ひょっとすると、ショックによる記憶喪失かもしれない。一過性ならいいけど、そうじゃない場合、かなりやっかい。
患者を刺激しないように、リュウイチは笑顔で答えた。
「アメリカのシカゴです。今日の日付はわかりますか?」
「カエイ3年、10月30日」
 〝カエイ〟が〝嘉永〟だと気付くのに、三分近くかかった。
「嘉永って確か、ペリー提督が浦賀に来航した頃だよね。ってことは……百六十年以上前? 何でよりによって嘉永なんだろう」
 リュウイチのつぶやきに、男はぎょっとした顔で、張り裂けんばかりに目をむいた。
「何と! ここは百六十年も後の世じゃと申すか!」
 男の叫びを、リュウイチは上の空で聞いていた。突然、この不可解な状況が腑に落ちたのだ。
 わかった。おかしくなってるのは、僕のほうなんだよ。だって三十六時間以上寝てないんだもの。
 時代劇の見過ぎかも。ちょっと気をつけよう。いや、諸悪の根源は、延々と繰り返される、このクソッタレの超過勤務。
よし、ブライト先生がどんなにわめこうが暴れようが無視して、今すぐ仮眠を取ろうっと。あ、そうだ。カルテはきちんと書いておかなきゃね。
「ええと、チョーエー・タカノ、四十七歳……待てよ。チョーエーって、どこかで聞いたことが……あああっ! 必殺シリーズ第十一弾〝新必殺からくり人 東海道五十三次殺し旅〟の蘭兵衛さんっ! ええっと、つまり、その、日本の夜明けを見ないで死んじゃった、蘭学者の高野長英!」
 男はあごをなでながら、にやりと笑った。
「必殺シリーズだの何だのは知らぬが……いかにも、俺は高野長英だ」
 誰かに拳骨で鳩尾{みぞおち}を殴られたみたいに、息が詰まった。うなじがちりちりする。
 身体中の毛穴から、汗が吹き出た。足に力が入らなくなって、ふにゃふにゃとしゃがみこむ。叫びそうになるのを、あわてて手で口を押さえた。
『ハロウィンの仮装じゃなかったんだ』
 記憶を失った患者のたわごとだとは、微塵も思わなかった。目の前にいる男がエド時代の人間だとすれば、身体つきに感じた違和感の説明がつく。医者としての直感が、長英であることを証明していた。
 え? でも、何で?
 思った瞬間、口から言葉が滑り出た。
「どうして? どうしてこんなところにいるんですか?」
 途端に長英は、渋面を作った。
「それは俺のほうが知りたい」
「ですよね。すみません」
 ぺこりと頭を下げるリュウイチに、長英がふんと鼻を鳴らした。
「捕方に囲まれて観念し、喉を突いたと思うたのだが、気がついたらここに寝かされておった」
 時代劇に比べれば格段に少ないSFのアイテムを、頭の中で大急ぎでかき集める。
「もしかすると、タイムスリップしたのかも。ええと、あの……そう、何か大きな事故とかの巻き添えを食って、時空間の裂け目に吸い込まれてしまい、未来に来てしまったのではないでしょうか」
 長英の目が、興味深そうな光をたたえている。
「よくあるのか、そういうことが」
「いいえ。小説とか映画の中の話です。実際にタイムスリップしたっていうのは、聞いたことがありません」
 あわてて顔の前で手を振った。エド人に間違った知識を、無責任に植え付けてはいけない。長英が軽く舌打ちをした。〝なんじゃ、こやつは阿呆か〟と言われた気がして、リュウイチは首をすくめる。
「まあいい。大事なのは、理由は何であれ、俺は死なずにすんだということだ。それにしても、俺の名が歴史に残っているとは愉快、愉快」
 長英が白い歯を見せて笑った。子どもっぽい顔つきになる。
『ひゅー、百六十年後の世界に来ちゃったっていうのに、全然動揺してないよ。さすがはサムライ。あ、蘭学者って、サムライじゃないのかな。まあいいや。ともかく寝よう。もう限界だ。そうしないと、ほんとに気が狂っちゃう。明日は朝五時から勤務だし』
「しばらく安静にしていてください。夜が明けたらまた来ます」
 長英がうなずき、目を閉じた。やがて、点滴を調節しているリュウイチの耳に、すうすうという寝息が届いた。
『ゆっくり休んでくださいね。奉行所も、ここまでは追いかけては来ないから』
     3
『終わった!』
 カルテをかごに放り込み、思わずリュウイチはガッツポーズをした。時刻は夜の八時。四時間の仮眠で突入した今朝五時からの勤務が、たった二時間超過しただけで終了したのだ。なんという僥倖だろう。
『さあ、帰るぞ。今日は誰が何を言っても家に帰るんだ』
 もう五日も病院に泊まり続けていた。一年間洗っていないバスケットシューズそっくりの臭いがする仮眠室のベッドで寝るのは、もうたくさんだ。
 外科のロッカールームで手早く着替えてリュックを肩にかけ、エレベーターに飛び乗る。
一階に降り立ったリュウイチは、壁に張り付き、泥棒のように辺りをうかがった。ここで捕まったら百年目。昨日の惨事が繰り返されるのは、火を見るより明らかだ。特に、緑色の目の悪魔には、絶対に見つかってはならなかった。
 都合のよいことに、悪魔は何か怒鳴り散らしながら、外傷一号室にすごい勢いで走り込んでいくところ。この隙に、一気にERを駆け抜けるのだ。
 今日は運がいい。ひとりでに頬が緩む。おいしい夕飯を食べ、熱いシャワーを浴びて清潔なベッドで眠る。しかし、我ながらなんというささやかな幸せだろう。かわいそう過ぎて、思わず目頭が熱くなる。
「何をこそこそしているのだ」
 リュウイチは文字通り飛び上がった。胸に手を当てて大きく息をつき、ばくばくしている心臓をなだめながら振り向くと、着物姿の長英が、腕組みをして立っている。
『しまった! すっかり忘れてた。どうしよう』
 タイムスリップしてきたのだから、現代に適応するために知識を身につけたり、日常生活を送るための訓練も必要になるだろう。それも含めた身の振り方について相談できるように、ケースワーカーを手配しようと思っていた。それを激務にかまけて、忘れ去っていたのだ。
「すみません。あとでケースワーカーに必ず電話します。今後のことは、彼らに任せれば大丈夫ですので。もう少し待っててくださいね。僕、今病院を出ないと、上司に見つかったら最後、家に帰れなくなっちゃうんです」
「案ずるな。俺も帰る」
「どこへ?」
 ごく当然という口調で長英が答えた。
「決まっておろう。おぬしの家へ」
 長英のマイペースさが、リュウイチの警戒心をむくむくと膨れ上がらせる。
 この人とは、かかわらないほうがいいみたい。めちゃくちゃ苦労しそうだもの。家に泊めるなんて、だめだめ。かわいそうだけど心を鬼にして、ここはしっかり拒絶しなきゃ。
 わざとリュウイチは、顔をしかめて見せた。
「どうして僕が、あなたの面倒をみなけりゃいけないんです」
「まあ、同じ日本人のよしみだな」
「日本人なのは半分だけです。僕にそんな義理はありません」
 長英がすっと目を細める。
「そういう了見なら、俺にも考えがあるぞ。お前が帰ろうとしていると、上司に告げ口をしてやる」
「ふん、僕の上司が誰だか知らないくせに」
「金髪で緑色の目をした女であろう? 偉そうにしておるゆえ、すぐにわかった」
 実に意外な敵の策略に、リュウイチは言葉を失った。長英は腕組みをしたまま、にやにやと笑っている。
 嘘でしょう。何でそうくるわけ? 走って逃げちゃおうかな。いや待て。〝リュウ! どこへ参る!〟とか何とか叫ばれて、悪魔にばらされるのがオチだよ。うーん、どうしよう。
 リュックを揺すり上げながら、リュウイチは外傷一号室のドアを見つめた。今にも悪魔が現れそうな気がして、背筋がぞわぞわする。時間が経過するほど、状況は不利になる。ぐずぐずしている場合ではなかった。
 悔しいが、ひとまずここは降参するしかない。いくらささやかでも、幸せは幸せ。せっかく手に入りかけているものを、失いたくはなかった。
「わかりました。怪我もしてることだし、今日のところは、僕の家に泊めてあげます」
「悪いな」
 まったく悪いと思っていないのが、ありありとわかる顔つきなのが、めちゃめちゃ悔しい。リュックで思いっきりぶん殴ってやりたいが、騒ぎを起こせば自滅する。ここは、我慢、我慢。と、己の心をなだめにかかる。
『まあいいや、一晩くらい。明日ケースワーカーに引き渡せば、僕は御役御免だからね。それでもう、未来永劫一切関係無し……だけど、この男が素直に従うかな? やっぱり一筋縄ではいかないんじゃあ……おい待て、そんな弱気でどうする』
 リュウイチは、嫌な考えを追い払うかのように、ぷるぷると頭を振った。
     4
「ただいま」
「おかえりなさい……あら、お客さん?」
 出迎えた恋人のサラが一瞬目を見張り、慌てて髪をなでつけ、グレーのTシャツの裾を引っ張った。
「うん。チョーエー・タカノ。今晩うちに泊まるんだけど、いいよね」
 サラがにっこり笑う。
「ええ、もちろん。大歓迎よ」
「彼女は僕の恋人で、サラ・ボールドウィン」
「はじめまして」
「やあ、よろしく」
 長英が、にこやかにサラと握手を交わした。初めて見る、人の良い笑顔である。
まったくもう。調子いいんだから。リュウイチは心の中で舌打ちをした。
「チョーエーはエド時代の蘭学者でね。昨日の夜、百六十年前からタイムスリップしてきたんだ。僕が治療をしたよしみで、泊めてあげることになったの」
 口をOの字に開けて、サラが絶句した。青い目をこぼれんばかりに見開き、胸のところで両手を組んで、棒立ちになっている。エド人を家に迎えるという、めったにない素敵なイベントに際しては、極自然な反応と言えるだろう。
 ブロンドの短髪に少年っぽい凛々しい顔立ちのサラは、リュウイチより十歳年上だが、かなり若く見える。一緒に暮らし始めて三年。レジデンシーが終了する来年の夏には、プロポーズする心づもりであった。
「ち、ちょっと! それ、ほんと?」
 やっと口がきけるようになったらしいサラに、リュウイチはふんわりと笑って見せた。
「だって嘘つく理由がないでしょう」
「どうしてタイムスリップなんて」
「それはチョーエーにも僕にもわからない。まあ、詳しいことはまたあとで。おなかすいて死にそうなんだよね」
「こんな大変なことに、どうして平然としてられるの」
 詰問するサラに背を向け、リュウイチは冷蔵庫を開けて食材を眺めた。
「そりゃ僕だって、最初はびっくりしたよ。でも、本人が平気なのに、僕が慌ててもしょうがないし。事実は事実として受け入れなきゃ……よし、今夜はすき焼きにしようっと。チョーエーがいるから和食がいいよね」
 猛然と白菜を切り始めたリュウイチに、これ以上話しかけても埒が開かないと悟ったらしいサラは、長英に向き直った。
「あなたはどう思ってるの? タイムスリップしたことを」
その人、一筋縄ではいかないと思うよ、サラ。ああ、神様。どうかサラがキレて乱暴しませんように。皆で仲良く、おいしいすき焼きが食べられますように。
 勢い込むサラをはぐらかすかのように、そらとぼけた様子で、しらしらと長英が言い放つ。
「死なずにすんだからな。俺としては、万々歳というところ」
 サラがたちまち眉根を寄せた。
「それどういうこと?」
「奉行所の狗どもに追われていたのだ。やつらもまさかここまでは、もう追いかけては来れまい」
「何をしでかしたの」
「幕府の異国船打払令を批判して、永牢を申し付けられた。ちょっと脱獄してやったら、延々としつこく追い回されたというわけだ」
『確か牢名主とかやってたんだよね。チョーエー見てたら納得だな。親分肌っていうのか、それっぽいもん』
「人を殺したとかじゃないのね」
「殺したことはある」
 臆することなく、間髪を入れずに答えたのはさすがだ。
「ええっ!」
 シイタケに飾り包丁を入れながら、リュウイチがつぶやく。
「そりゃあ〝からくり人〟だもの……ってことはないか」
「追っ手を斬ったのだ。そうしなければ、俺がやられていた」
「正当防衛ってことかしら」
「まあな」
 急にサラが口ごもった。頬が見る見る赤くなる。
「ごめんなさい。私ったら、いろいろ訊いちゃって」
 長英は微笑みながら、ゆっくりと首を横に振った。
「いいや、別に。隠さねばならぬようなことは、しておらぬゆえ」
 リュウイチは、野菜と肉を大量に盛り付けた大皿を、テーブルの上に置いた。
「さあ、用意ができましたよ。サラ、鍋と電磁調理器を出して。早く食べよう。飢え死にしちゃう」
 長英が顔をしかめる。
「男のくせに、腹が減ったくらいで騒ぎ立てるとは、まこと見苦しいやつ」
 ぷっと吹き出したサラは天井を仰ぎ、嬉しそうに大口を開けて笑った。
「もっと言ってやって、チョーエー」
 リュウイチは頬をふくらませた。
「見苦しくて結構。ほっといてくださいよ。食べることが僕の生きがいなんだもの」
 あきれ果てたという表情で、長英が再び口を開きかける。しかし、リュウイチが野菜と肉をてんこ盛りにした大皿をもう一枚運んできたのを見て、ぎょっとした顔つきになった。
「いったいこんなに誰が食うのだ」
「僕です。まだ足りないかも」
「まるで馬だな。忠告しておいてやる。あんまり食いすぎると、頭のねじがゆるんで馬鹿になるぞ」
「いいんです。もうすでに馬鹿だし。僕は生まれつき頭のねじがないんだ」
 リュウイチはテーブルにつくと、電磁調理器のスイッチを入れた。牛脂の塊を菜箸でつかみ、なべ底に滑らせる。やがてぱちぱちという音がして、かすかな煙と共に、脂の焼けるいい匂いが立ち上った。
「これを幸せの香りって言うんだよね。ああ、よだれが……」
 つぶやきながらリュウイチは、牛肉を一枚ずつはがして鍋に敷き詰めた。素早く裏返し、砂糖、醤油、日本酒を加え、野菜をぶち込む。
「調味料を予め合わせたワリシタというものを使うやり方もあるらしいんだけど、うちはママがカンサイジンだから」
 長英が鍋の下を覗き込み、眉をひそめた。
「これは面妖。火が見えぬのに、なぜ煮炊きができる」
 リュウイチは肩をすくめる。
「だって、電磁調理器だもの」
「どういうからくりになっておるのじゃ」
「えっとね……サラ、説明してあげて。僕は忙しいんだ」
 急いで菜箸を取ると、リュウイチは鍋底から肉を引っ張り出して、野菜の上に並べ始めた。サラが顔をしかめる。
「急にこっちにふらないで。うーんと、確かジュール熱が発生してるのよ」
「それで?」
「それしか知らない」
 胸の前で腕組みをし、開き直るサラに、長英は舌打ちをした。
「使っておるのに知らぬと申すか」
 サラの額に、ぴっと青筋が立つ。
「知らなくても使えるのっ」
 リュウイチは向かいに座っている長英の足を、つま先でつついた。声を低めて日本語で囁く。
「しつこく聞かないほうがいいよ。怒ったら怖いんだから」
 唇をゆがめ、長英がにやりと笑った。
「ほほう、尻に敷かれておるとみえる。情けないのう」
 親切に忠告してあげたのに、何なの、それ。自覚はしているけれど、指摘されたくはない。リュウイチは思わずむっとした。
「大きなお世話です」
「ふたりとも、何をごちゃごちゃ言ってるの。日本語で話すのはやめて」
 まずい。かえってサラを怒らせちゃった。馬鹿だよね。ここは笑顔で切り抜けよう。
「ごめん、サラ。懐かしくて、つい日本語でしゃべっちゃった。これから気をつける。ほら、肉も野菜も煮えたよ。さあ、食べよう。おいしそうだなあ」
 たちまちサラの表情が緩む。鼻腔をくすぐる甘辛い芳香は、何者にも抗し難いとみえる。恐るべし、平和の使者〝すき焼き〟。
「あ、ビール忘れてた」
 いそいそと立ち上がったサラの背中に、声をかける。
「ついでに、僕のオレンジ・ジュースも取って」
「了解」
「俺にもビールをくれ。リュウは下戸か」
 チョーエーったら、もうすっかり、我が家って感じだよね。っていうか、チョーエーがエド人だってこと、忘れちゃってる自分がこわいけど。ま、いいか。
「少しは飲めるんだけどね。外科医は夜中に呼び出されることが結構あるんだ。酔っ払ってオペっていうのは、さすがにまずいよ。それはそうと、チョーエーはビール飲んじゃだめ。怪我人なのに」
 長英が、とんでもないという顔つきで、いすに座ったままふんぞり返る。
「大事無い。己の身体は、己が一番よく知っておる。それに俺は医者だぞ」
「そうなの?」
 ビールとオレンジ・ジュースを注いだグラスを運んできたサラが、目を見張った。
「うん。言わなかったっけ? 彼は蘭法医なんだ」
「じゃあ、ここにいるのは、皆、ドクターってことね」
 サラがにっこり笑う。驚いたのか、一瞬の間を置いて、長英が尋ねた。
「おぬしも医者か、サラ」
「ええ。今は会社で研究員として働いてるけど、資格は持ってるわ。じゃあ、乾杯しましょう」
「何に乾杯する?」
 サラがグラスを掲げ、厳かに言った。
「エド時代からのお客様に。ようこそ二十一世紀へ」

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小説家。2012年第24回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞。お茶大SF研OG、池波狂、時代劇オタク。神戸市出身、徳島県在住。著作に「忍びのかすていら」「学園ゴーストバスターズ」「心花堂手習ごよみ」「黒猫の夜におやすみ」など。どうぞよろしくお願いいたします。
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