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とある外科医の非?日常生活(連載第6回)

連載小説第2弾は医療物のSFですが、三國らしく時代物の要素もありです。
舞台はアメリカのシカゴ。主人公は公立病院に勤める外科のレジデントで、女の子とみまごう超絶美形の日本人ハーフ。心優しき時代劇オタクです。お楽しみいただけましたら幸いに存じます。〈全文無料公開〉
*ずっと以前に書いた作品ですので、科学関係の情報等が少し古びておりますがご了承くださいませ。

   第六章  木下やみ
     1
 リュウイチ、サラ、長英は、シカゴからサンフランシスコ経由で、関西国際空港に降り立った。約十八時間の旅である。
 さっそくバスに乗って三宮に向かう。
『とうとう日本に来たぞ』
 ずっと念願であった日本の地を踏んで、リュウイチはかなり興奮していた。やたらに喉が渇く。
 膝に乗せたリュックからミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、ごくごくと飲み干した。隣の座席でサラがにやっと笑って耳元で囁く。
「休暇をゆっくり楽しむといいわ。帰ったら、三か月間休み無しなんだものね」
 リュウイチは顔をしかめた。
「サラの意地悪。嫌なこと思い出させないでよ」
 サラと長英が日本に行くことになり、リュウイチは自分も行きたくて、気が狂いそうになった。しかし、今の勤務状態では長期休暇など望めるはずもない。一旦はあきらめたのだが、やはりどうしても思いが募る。
 とうとう意を決し、クビを覚悟で一週間の休暇を悪魔に願い出たのだ。よっぽど機嫌がよかったのか、それとも百年に一度の割合で回ってくる、善いことを行う日にたまたま当たったのかは知らないが、信じられないことに許可が下りた。
「ただし」
 ガッツポーズをし、飛び上がって喜んでいたリュウイチは、悪魔の声に凍りついた。〝いけにえ〟という言葉が、頭の中をぐるぐる回る。
「むこう三か月間、休みは一日も無しよ。いいわね」
「ええっ! そんな!」
 腰に手を当て仁王立ちになった悪魔が、ぐっと胸を反らせた。
「当然でしょう。休みの前借りをさせてあげるんだから。嫌ならいいのよ」
「あのう、せめて二カ月にしてもらえませんか」
「あら、そう。じゃあ、休暇は無しね」
「わかりましたっ! 三か月間一生懸命働きます!」
 休暇を楯に、悪魔にいいようにこき使われるだけのような気もしたが、日本旅行は抗し難い魅力だった。日本に行けるなら、たとえ悪魔に魂を売ることになろうとも、かまわないではないか。
 悪魔の姿を頭の中から追い払いながら、リュウイチは、通路を隔てた窓側の席に座っている長英をそっと見た。窓枠に肘をのせ、外の景色を眺めている。
『感慨深いだろうな。百六十年後の日本は。どんなこと考えてるんだろう』
 長英の表情は穏やかだったが、目はなごんでいないように感じられた。心は嵐の海のように、荒れ狂っているのかもしれない。故国に戻って来たが、そこでは百六十年という途轍もなく長い時が経過しているのだ。
 知り合いはすべて鬼籍に入り、生きているのは自分だけ。あたりの様子もすっかり変わってしまっている。
 家族の末路や、日本がその後辿った道など、知識としては納得し、承知してはいても、実際に目で見るのとは、また違うであろう。
『自分を責めてなきゃいいけど』
 リュウイチはひそかにため息をついた。あこがれの日本へ来られて、とてもうれしい。だが、長英の心中を慮ると、思い切りはしゃぐことなど、とてもできなかった。
 旅行に先立ち、リュウイチとサラは、日本で長英にどう接するか話し合った。ふたりとも自信がなく、不安だったから。
 結局、基本的にはそっとしておくことになった。寄り添ったり、支えたりはもちろんするけれど、それも長英が望んでいると判断できる場合だけ。
 慰めたり力になったりできると考えるのは、おこがましい。そうリュウイチもサラも思ったのだ。
 そっとサラがリュウイチの手を握った。迷子になって途方に暮れている子どもみたいに、心細そうな光を目にたたえている。
 おそらく長英のことを心配しているのだろう。リュウイチはサラの肩を抱き、髪にキスをした。
     2
 三宮から電車に乗り換え、山陽電鉄須磨寺駅で降りる。長英が顎をなでながらつぶやいた。
「須磨と申せば、源平ゆかりの地じゃの」
 駅の改札口を出たところに、小さな碑と祠がある。碑には〝平重衡とらわれの遺跡〟と記されていた。
「あ、ほんとだ。長英の言う通り、さっそく遺跡があるよ」
リュウイチは、立て札に書かれた説明を読んだ。
『平重衡とらわれの松跡
寿永三年(一一八四)二月七日源平合戦の時、生田の森から副大将平重衡は須磨まで逃れて来たが源氏の捕虜となり、土地の人が哀れに思い名物の濁酒をすすめたところ、重衡はたいそう喜んで
「ささほろや波ここもとを打ちすぎて
     須磨でのむこそ濁酒なれ」
の一首を詠んだ
のちに鎌倉に送られ処刑された』
 英訳もついているので、サラも理解できたらしく、興味深そうに碑と祠をじっと見つめている。
「平重衡って、清盛の息子だっけ」
「ふむ。確か五男になるのではないか。文武にすぐれた人物であったが、一の谷の戦いに敗れて捕らえられた。その場所がここであったのじゃな」
「さすがはチョーエー。よく知ってるよね」
「これくらいは常識じゃ」
 三人は商店街に沿って歩いた。
「お蕎麦屋さんとか、お寿司屋さんとか、喫茶店とかがある。ねえねえ、何だかお腹すかない?」
「他にもたくさんお店があるのに、どうしてそう食べ物屋さんに目がいくの。食事は、仕事を済ませてから。私は遊びに来たんじゃないの。出張なのよ」
 サラに素っ気無く拒絶されて、リュウイチは口をとがらせた。がっかりした途端、一気に空腹感が倍増する。
「えー、だって仕事が終わるって言ったら、まだ二時間くらい先でしょ。それまでもたないよ。じゃあ、あのお菓子屋さんで何か買って食べようっと」
「結局は食うのじゃな」
 小馬鹿にしたように「ふん」と鼻を鳴らす長英を無視し、盛神堂本舗と書かれた菓子屋に入った。いかにも老舗といった、歴史を感じさせる落ち着いた雰囲気の店内。ガラスケースの中には、色とりどりの和菓子が並んでいる。
「わあ、和菓子がいっぱい。何て綺麗なんだろう」
その繊細な美しさと可憐な様は、食べてしまうのが惜しいくらいであった。だが同時に、非常に食欲をそそられた。思わず生唾を飲み込む。
「どれもおいしそうだなあ。カステラもあるよ。あ、お団子。〝敦盛だんご〟って言うんだ。何かいいよね。時代劇っぽくて。これにしよう」
 緑・茶・白の三色団子を、リュウイチは指差した。
「このお団子十二本ください」
 英語でぶつぶつとつぶやいていたリュウイチが、いきなり流暢な日本語をしゃべったので、優しそうな中年の女性店員が目を見開き、一瞬言葉に詰まった。しかし、すぐ柔和な笑顔に戻る。
「日本語がお上手なんですね」
「ええ、母が日本人なので」
 まろやかな関西弁のイントネーションが母の紫苑を思い起こさせて、胸のあたりが温かくなる。
「どちらからいらしたんですか?」
「シカゴです」
「まあ、それは遠くから。おひとりで?」
「いいえ、三人連れです」
「それはそれは」
 女性が納得したというふうにうなずいた。三人で十二本なら常識の範囲内だ。
「一本おまけしておきました。どうぞお気をつけていらしてくださいね」
「ありがとうございます!」
 店の外で待っていたふたりに、リュウイチは笑顔で団子を差し出した。
「はい、サラとチョーエーにも一本ずつあげる」
「ほう、団子か。これは、なかなかにうまそうじゃ」
 懐かしそうな表情を浮かべた長英の頬が緩む。
「緑、茶、白。色によって味が違うの?」
「うん、たぶんね」
サラは珍しそうにしげしげと団子を眺めていたが、いきなりぱくっと噛み付いた。
「おいしい。何だか不思議な食感ね。それと、独特な香りがするわ」
「ヨモギという草の新芽を、ゆでた物が入っておるのじゃ」
「へえ、だからこんなに綺麗な緑色をしてるんだ」
「ヨモギの葉を乾燥させたものは艾葉(がいよう)と申す生薬で、止血作用を始めとして、多くの薬効がある」
「あ、真ん中の茶色いのは、シナモンの香りがするね」
「これも生薬の桂皮じゃな」
 歩きながらむしゃむしゃと団子を頬張るリュウイチに、サラが眉をひそめた。
「いったい何本買ったの?」
「十二本。プラス一本おまけしてもらったんだ。だからもっと食べてもいいよ、サラ」
「けっこうです。馬鹿食いの誰かさんと一緒にしないで」
「遠慮しなくてもいいのに。じゃあチョーエーは?」
「いらぬ。俺から離れて食え。知り人と思われるが、恥ずかしゅうてたまらぬわ」
「そんなひどいこと言わないでよ。ねえねえ、このお団子〝敦盛だんご〟っていうんだって。敦盛って誰?」
 ほとほとあきれたという顔で、長英がゆるゆるとかぶりをふった。
「敦盛も知らぬくせに、食っておるのか。平敦盛は、清盛の甥にあたる。一の谷の合戦のおり、十六歳で熊谷直実に討たれた。直実は敦盛を助けてやろうとしたが、敵が多すぎてかなわなんだ。後に直実は出家し敦盛を弔ったという。大変な美男で笛の名手。形見の青葉の笛が、須磨寺に残されておるはずじゃ。〝須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ〟と〝笈の小文〟で松尾芭蕉が詠んでおった。須磨寺に首塚、一の谷に胴体を祀った塚があるが、胴塚――四メートル近い五輪塔――は西国街道沿いに位置するため、参勤交代途中の大名や旅人が香華を手向けるのが慣わしのようになっておったのう」
 リュウイチは感心して、団子を持ったまま思わず拍手をした。
「長英ってば物知りなんだね。やっぱりすごいや」
「常識だと申しておろう。おぬしが物を知らな過ぎるのじゃ」
 長英の非難に、待ってましたとばかりにサラが同調する。
「時代劇ばっかり見てないで、少しは歴史も勉強しなさい。リュウは半分日本人なんでしょ」
「そうだよ。日本人の血が流れてるから、時代劇が好きなんだ。でも歴史の知識は、時代劇の面白さを半減させちゃうことがあるんだよね。突っ込みながら見るのもひとつの楽しみ方だけど、僕は気が進まないな。時代劇は虚構の物語。様式美の世界なんだから」
「また、リュウが語り出したぞ」
「いいこと思いついたわ。ここで演説すれば? まあ、誰も聞いてくれないでしょうけど」
「いや、そうとは限らぬぞ。いくら日本でも、これほどの時代劇馬鹿、そうはおるまい。珍しゅうて、人が集るやもしれぬな」
「僕が買ったお団子食べといて、よく言うよ。ふたりとも」
 リュウイチはぷうっと頬を膨らませた。長英が来てからというもの、時代劇迫害に拍車がかかったような気がする。
『一緒に謗る相手がいれば、それは楽しいでしょうよ。だけど他人{ひと}の趣味は、放っておいてほしいな。僕は誰にも迷惑かけてないんだからさ』
 やけ食いチックに団子を十一本、一気に平らげた。
「喉渇いちゃったな。自販機でお茶を買っておけばよかった」
 たちまち長英が顔をしかめる。
「腹が減っただの、喉が渇いただのと、男のくせにいちいち口にするでない」
「あっ、〝須磨霊泉〟って書いてある。ラッキー! 水が飲めるぞ」
 二メートルほどの階段を下りると、手洗い場のようなところにふたつのパイプがあり、こんこんと水が湧き出ている。水は両隅の穴から流れ落ち、左右とも近い方から〝上洗〟〝下洗〟に分けられている。
 〝上洗〟は野菜等を洗い、洗濯は〝下洗〟で行なうきまりになっているらしかった。
「あれ。この水、生で飲んじゃいけないんだって。でも、コップが置いてあるよね」
「己で責任を取る分には、かまわぬのではないか。俺は飲むぞ。ついこの間まで、ずっと〝生水〟を飲んでおって、何ともなかったのじゃから」
「僕も飲もうっと」
 まずはひと口味わってみる。
「あ、くせがなくて、まろやかだね。素直な感じ」
 ごくごくとコップに二杯、立て続けに飲み干した。口元を手で拭う。
「ふーっ、おいしい。生き返った気分。サラは飲まないの?」
「私は、あなたたちと違ってデリケートにできてますからね。絶対にお腹をこわすと思うから、やめておくわ」
「ふーん。おいしいのに。ねえ、チョーエー」
「ふむ。なかなかの名水よの。この水で立てた茶を、賞味してみたいものじゃ」
 明らかにサラの目に、迷いの色が浮かんでいる。リュウイチと長英は、顔を見合わせにやりと笑った。
「えっと、じゃあ。ひと口だけ飲んでみようかな」
 こわごわとコップに口をつけたサラが、目を見開いた。
「おいしい! ほんとまろやかだわ」
「もったいぶらずに、最初から飲めばいいのにね」
「だが、用心する奴ほど腹をこわすというのは多々あること。これでサラも〝御他聞に漏れず〟やもしれぬな」
「そこのふたり、日本語禁止!」
     3
 須磨寺大池を左手に見ながら坂道を上がって歩道橋を渡る。右方向に広大な敷地があり、建物や噴水、庭園が見えた。
「あれ何だろうね。随分緑が多い印象だけど」
「確か、須磨離宮公園って言うのよ。植物園とか、アスレチックとかもあるの」
「へえ、そうなんだ。あれ? 離宮公園って、どっかで聞いたことがあるなあ。何だったっけ」
 いろいろ考えたが、思い出せない。頭のどこかに刺さった小さなとげがちくちくするようでいらついたが、記憶はかけらも浮かび上がってはこなかった。
『思い出せないものはしょうがないよね。ああ、でも、気になる』
「さあ、ついたわ」
 サラの声で我に返ったリュウイチは、目を上げて思わず叫んだ。
「ひゃー、おっきい家!」
〝阿井〟という表札がかかった頑丈そうな黒い門扉の向こうには、アーチ形の屋根が特徴の白い洋館と、鉄筋コンクリート製のそっけない箱型をした二階建の建物が見えた。敷地を囲むコンクリートの塀が、延々と続いている。
「ここに、Slime Sheetの原料に使われてる新種の粘菌A. Hikariumの発見者が住んでるのよ。その人に会って契約の更新をするのが、今回の出張の目的ってわけ」
 サラのどこか冷ややかな口調に、はっとする。突然降って沸いた日本旅行に、リュウイチは舞い上がってしまっていた。
胸躍る楽しい計画のセッティングに、大慌てかつ夢中になっていたせいで、サラの仕事のことなど、今の今まで頭の中から消し飛んでいたのだ。
『しまった。絶対サラ、怒ってるよね。これはまずいよ。何とかごまかさなくちゃ』
「あ、そういえば、サラが日本で何をするのか、僕、全然尋ねてなかった。ごめんね。あのさ、急に日本行きが決まったでしょう。勤務が押しちゃってさ。めちゃくちゃ忙しくて、気持ちに余裕がなかったんだ」
 じろりとサラににらまれて、リュウイチの胃が、中に詰まっている団子と共にぎゅっと縮んだ。わきの下を、冷たい汗がつうっと流れる。
「嘘ばっかり。オタクプランを立てるのに必死だったくせに。どうせ私は、リュウにとって時代劇以下の存在ですよ」
 飛び切りの(だと自分で思う)笑顔を作って、リュウイチはサラの手を握った。
「とんでもない。この世で一番大切なものは、サラなんだから」
「へえ、ほんとかしら」
 サラがすっと目を細めたので、リュウイチは必死になる。
「ほんとだよ。神様に誓って、サラが一番」
「じゃあ、リュウの全財産が百ドルだとして。バーゲンで一枚だけ残ってる私の欲しいTシャツが、ちょうど百ドルでした。買ってくれる?」
「もちろんだよ。サラのためなら、全財産をはたく。明日っから、ご飯が食べられなくても平気」
「ふーん。隣の古本屋に、三隅監督が実際に撮影に使った書き込み入りの〝眠狂四郎無頼剣〟の台本を百ドルで売ってたら? それでもTシャツを買う?」
 これがサラの謀略だということは、頭では充分理解していた。〝Tシャツを買うよ。当たり前じゃない〟と言えば済むことだ。
だが、最も尊敬する三隅監督で、しかも傑作と名高い〝眠狂四郎無頼剣〟なのである。〝オタクのサガ〟が、常識の前に大きな壁となって立ちはだかった。
リュウイチは笑みを引っ込め、うなりながら髪の毛をかきむしる。
「まずは台本を買う。そのあと、一生懸命働いてお金を貯めて、もっといいTシャツをサラに買ってあげる」
「ほらね。やっぱり私より時代劇のほうが大切なのよ」
「だってさ。レア物の台本が百ドルなんて、めったにあることじゃないんだよ。しかも三隅監督だし〝眠狂四郎無頼剣〟だし。結局はもっといいTシャツを買ってあげるんだから、許してよ」
「私のTシャツだって、それ一枚しかないのよ。しかもバーゲンだし。あとで買うだなんて。しかもお金が貯まるまで待たなきゃいけないだなんて。リュウってサイテー。この、時代劇オタク」
 腰に手を当て、気色ばんで言い募るサラに、リュウイチは口をとがらせて応戦した。
「サラこそひどいよ。僕の気持ちをお金で量ろうとするなんて。しかも三隅監督を持ち出してまで。ああ、そうですよ。僕は紛れもない正真正銘の時代劇オタクだ。でも、時代劇オタクのいったいどこがいけないの。誰にも迷惑かけてないじゃない」
「迷惑かけてないですって? よく言うわよ。私がいつもつまんない時代劇の薀蓄ばっかりくだくだ聞かされてるのは、迷惑じゃないっていうの?」
「つまんないだって? 僕の大切な時代劇に、何てひどいこと言うんだよ。まったく、頭にきちゃうな。時代劇は、立派な日本の文化なんだぞ。日本人のおよそ八割が、時代劇ファンなんだからね。それに平均寿命アップの一助にもなってる。来週もまた水戸黄門を見たいっていう気持ちが、お年寄りを長生きさせてるんだ。サラのわからず屋」
「架空の話で、何をもめておる。はるばる日本まで来て、痴話喧嘩をするな。みっともない。恥を知れ、恥を。俺に言わせれば、どちらも救い様のない大たわけじゃ。甲乙つけがたい阿呆。割れ鍋に閉じ蓋。まことに釣り合いが取れておるわ」
 ふたりとも頭に血が上り、痛烈な皮肉も耳に入らない。長英が舌打ちをすると、さっさとチャイムを押した。
「はい、どちらさまでしょう」
 インターホンから聞こえてきた女性の声に、サラとリュウイチは我に返った。サラが髪をなでつけ、よそ行きの声を出す。
「シカゴのPlanariateから参りました。研究員のサラ・ボールドウィンです」
「お待ちいたしておりました。どうぞお入りください」
 門扉がするすると開いた。
「もう、チョーエーったら。勝手にチャイムなんか押したりして!」
 サラに睨まれても、涼しい顔で長英がしらしらと言い放った。
「俺は何もしておらぬぞ。おおかた、おぬしらの言い争う声が、中に聞こえたのであろうよ」
     4
 三人は、応接間に通された。革張りの黒いソファーに大理石のテーブル。壁には、黒とくすんだ赤を基調とした大胆な幾何学模様のアンティークらしいタペストリーが飾られている。
反対側の壁際には、これまたアンティークと見られる象嵌の入った、マホガニー製のどっしりしたキャビネットが置かれていた。中の食器も、おそらくアンティークなのだろう。
窓が大きいため、陽光が充分入って部屋は明るい。モダンさと重厚さが溶け合い、独特の雰囲気をかもし出していた。
阿井亮一郎と名乗った男性は六十前くらいで、白髪交じり。目尻の下がった柔和な顔つきが、少々太めの体格に似つかわしい。
亮一郎の妻・小夜子が、ケーキと紅茶を運んできた。夫とは対照的に、ほっそりしていて目が大きい。物静かな印象である。年は五十半ばというところか。
小夜子が亮一郎の隣に腰を下ろした。向かいには、ドアに近い側からリュウイチ、サラ、長英の順番に座っている。
ケーキをひと口食べて、リュウイチは驚いた。見かけは生クリームとフルーツをあしらった普通の物だが、クリームが絶品なのである。
軽やかだがこくがあった。また、カステラ部分もさっくりとしていて、クリームをよく引き立てている。
「おいしいケーキですね」
 思わず口走ったリュウイチのつま先を、サラが踏みつけた。
 小夜子が微笑む。
「お気に召していただけて、何よりです。須磨霊泉のところの交差点を、海側に下ったところにある、スイス菓子のグリンデルというお店の物なんです」
「スイス菓子! だからこんなにクリームがおいしいんですね。なるほど。納得です」
 つま先を踏みつけているサラの足に、ぐっと力が入る。これはおとなしく、ケーキを賞味するのがおりこうさんというものだ。
 亮一郎も小夜子も、どちらかというと聞き上手の方らしい。リュウイチと長英は、サラの〝足〟に口を封じられている。
ところが当のサラは、なぜか黙したままミルクティーを飲んでいる。ゆったりくつろいでいるのではない。それどころか神経が張りつめているらしく、瞼がときどきぴくぴくと痙攣している。
サラが社用ではるばる会いに来たのは、目の前にいるふたりではなさそうだった。いったいそれは誰なのか。そして、その人物はどうして現れないのか。
疑問を抱えたまま二十分ほどが過ぎた。あいかわらず皆沈黙したままだ。リュウイチは、二杯目のミルクティーをゆっくりとすすった。
いきなりドアがノックされた。亮一郎夫妻とサラの顔が、ぱっと輝く。
『え? どうして?』
 扉がゆっくりと開いた。顔をうつむけたまま、おずおずとした様子で誰かが入って来る。
 黒いハイネックのシャツに白のフリースのジップアップを重ね着し、ジーンズをはいていた。
背中の真ん中まである長い髪を、後ろでひとつにくくっているが、顔が見えないので性別や年齢は判然としない。身長は百六十センチくらいに見受けられた。
「初めまして。阿井光{あいひかる}です」
 声から判断すると若い女性のようだ。光はゆっくりと顔を上げた。
 色が抜けるように白く、華奢な身体つき。顎が細くて目が大きい。どちらかというと、母親の小夜子に似ていた。
 目がきょときょとと、落ち着きなく泳いでいる。唇を舌の先で何度も舐めているのは、緊張しているからだろう。
 ちょっとでも変わったことがあったら、一足飛びに巣穴に戻ろうと考えている臆病な野ウサギのような表情というのが、一番ぴったりくる。
『どうしてこんなに、びくびくしなきゃいけないんだろう。かわいい顔してるのに』
 光は一歩ずつゆっくりと進み、小夜子の隣にそっと座ると、大きなため息をついた。左手で、しっかりと母のカーディガンの裾を握り締めている。
 光の背中を静かに撫でていた小夜子が、急に顔をくしゃくしゃにしたかと思うと、ティッシュを目に当てた。慌てて笑顔を作る。
「ごめんなさい。この子をこうして見るのは、五年ぶりなんです」
 亮一郎がいたわしそうに妻を見やり、話を引き取った。
「光は小学校一年生のときから学校を休みがちで。出席番号がいつも一番なのが、引っ込み思案なこの子には、大変な苦痛だったらしい。小学校は家からほんの五分程の距離にあるんですが、数えるほどしか通学できませんでした」
 光は顔をうつむけて身じろぎもしない。カーディガンを握りしめている指が、関節のところで白くなっている。
「妻は小学校の教員、私は高校で生物を教えていたので、学校に行かずとも、一通りのことは学ぶことができました。私の蔵書を読んでいて粘菌に興味を持ち、研究を始めたのが十五歳の頃。それ以来、別棟のラボで過ごすことが多くなり、ここ十年は完全な引きこもり状態でした」
 落ち着いたらしい小夜子が口を開いた。
「Planariateの方が訪問されるようになってから、光の希望でこの部屋に隠しカメラをつけ、ラボから見られるようにしました。お会いしても大丈夫だと思えたら、ラボから出て来るという約束で。でも、今まで十七人の方々には無駄足を踏ませることになってしまって。私共も、ずっと心苦しく思っておりました」
 サラが、これ以上はないという慈愛に満ちた笑顔を浮かべた。
「お気になさらないでください。ヒカルさんのペースに合わせるというのが、我社の方針ですので。お会いできて光栄です。ヒカルさん」
 優しい声音になるように。きつい口調にならないように。サラが最大限の注意をはらっているのが、リュウイチには手に取るようにわかった。
「こちらこそ、長らくお待たせしてしまってすみません」
 深々と光が頭を下げる。亮一郎と小夜子の目が、みるみるうちにうるんだ。
『うわあ、五年ぶりの親子の対面。まさに感動の瞬間っていうのに、僕は立ち会ってるんだね。ヒカルも、ラボを出て他人に会うって決心するまで随分悩んだだろうけど、御両親はすごく心配でいたたまれなくて、ほんとに大変だったと思う。これがきっかけで、引きこもりが治るといいんだけど』
 泣き虫のリュウイチは感激して、涙ぐんでしまった。困ったことに鼻水まで垂れてきそうだ。
     5
「さっそくですが、契約更新の書類にサインをいただきたいと思います」
 サラが鞄から書類を取り出し、光の前に並べた。スーツのポケットに差していたペンを添える。
光の気が変わらないうちに、仕事を済ませてしまおうというのだろう。また、自分たちはさっさと退散して、親子水入らずにさせてあげたいという配慮もあるに違いない。何せ、五年ぶりなのだから。
 なぜサラに会う気になったのか、聞いてみたい気がしたが、今ここで光の気持ちを乱しては、すべてがぶち壊しになってしまう。そうなれば、サラには絶対一生口をきいてもらえなくなるだろうから、リュウイチは己の好奇心をなだめ、自粛した。
「まことにくだらぬ。何が引きこもりぞ。要するに、ただのわがままではないか。それをよってたかってほうほう甘やかすとは、そろいもそろうて皆大うつけじゃ」
 全員がその場に凍りついた。
『やっちゃったよ、チョーエー』
 リュウイチは、心の中でうめいた。おそらく長英のつま先を、サラが思い切りかかとで踏みつけているだろうが、効果はなさそうだ。
「光と申したな。年はいくつになる」
 長英にひたと見据えられ、「ひっ」と悲鳴交じりの音をさせて、光が息を吸い込んだ。大きく目を見開いている。
「二十八……です」
 かろうじて聞き取れる囁き声が、光の口から漏れ出た。身体がぐらぐら揺れている。卒倒しそうな勢いだ。
「昔ならば、もう大年増じゃ。それが親に迷惑ばかりかけおってからに。いくら世界的に名を知られた生物学者といえども、それでは人の道にもとるというもの」
『え? ヒカルって、そんなに有名なんだ。ほんとチョーエーって、何でも知ってるよね。尊敬しちゃうな……って感心してる場合じゃなかったんだ』
 サラは口を半開きにしたままで、目の焦点も合っていない。膝を握り締めた手が、ぶるぶると震えていた。
『ヒカルはもしかしたら過換気症候群かもしれないし、ご両親は高血圧とか心臓疾患とか、既往症があるかも。あとはサラが暴れて、チョーエーが怪我をすることも考えられる。もし肋骨が折れて両肺が気胸になって、一刻を争う状態に陥ったら、チェストチューブの代わりに、リュックに入ってるボールペンを使えばOK。痛いだろうけど、自業自得だよね……』
ここで誰かが倒れたら……。リュウイチは、応急処置の手順を頭の中でシミュレーションし始めた。
「チョーエー! 何てこと言うのよ! ごめんなさい。彼は、百六十年前からタイムスリップしてきた蘭学者の高野長英で、こっちの世界のことが、まだあまりわかっていないんです」
 茫然自失から立ち直ったサラが、顔を真っ赤にし、必死になって弁解した。だが、苦し紛れに言うに事欠いて、とんでもない言い訳をしたと、きっと勘違いをされてしまったことだろう。
 ヤク中かアル中ということにしておけばよかったのに。さすがのサラも、すっかり気が動転してしまったものらしい。
 無理もないことだが、人が好くて温厚な両親の目にも、さすがに非難の色が浮かんでいる。今さらながら長英の失言の重さを、リュウイチは思い知らされた。
 突然光が立ち上がった。と同時にふらりと身体が傾く。いわゆる〝立ちくらみ〟だ。
 大理石のテーブルに頭でも打ち付けたら、やっかいなことになる。リュウイチもサラも、支えようと腰を浮かせた。
 しかし先に素早く立ち上がった長英が、絶妙なタイミングで、さっと光を抱きとめた。一瞬ふたりの目が合う。
「大事ないか」
 長英は微笑んだが、光は顔を背け、長英を押しのけるようにして離れると、脱兎の如く部屋から走り出た。たぶん巣穴(ラボとも言う)に逃げ込むつもりだろう。
 せっかく状況が好転しかけたと思ったら、また逆戻りというわけだった。否、悪化したかもしれない。一生引きこもったままということも、充分考えられた。
 サラが長英を睨みつけている。視線で人を焼き殺すことが可能なら、瞬時に黒焦げになっているところだろう。
 サラがお茶を飲みながら黙りこくり、めちゃくちゃ緊張していたのは、光が今まで十七人の社員をすっぽかしていたからだ。そんな引きこもりの天才生物学者が、ラボから出てきて会ってくれた。
おそらく、天にも昇る心地だっただろう。それが一瞬の後、奈落の底に突き落とされてしまったのだ。
 光とはもちろん、両親との関係も壊れてしまったに違いない。A. Hikarium に関して、Planariateとのすべての契約を打ち切ると言われたら、サラの立場はいったいどうなるのか。
 この大変な事態を引き起こした張本人は、胸の前で腕組みをし、表情一つ変えずに平然と座っている。
 困ったことになった。暗澹たる気持ちになって、リュウイチは思わず手で顔を覆った。

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小説家。2012年第24回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞。お茶大SF研OG、池波狂、時代劇オタク。神戸市出身、徳島県在住。著作に「忍びのかすていら」「学園ゴーストバスターズ」「心花堂手習ごよみ」「黒猫の夜におやすみ」など。どうぞよろしくお願いいたします。
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