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とある外科医の非?日常生活(連載第4回)

連載小説第2弾は医療物のSFですが、三國らしく時代物の要素もありです。
舞台はアメリカのシカゴ。主人公は公立病院に勤める外科のレジデントで、女の子とみまごう超絶美形の日本人ハーフ。心優しき時代劇オタクです。お楽しみいただけましたら幸いに存じます。〈全文無料公開〉
*ずっと以前に書いた作品ですので、科学関係の情報等が少し古びておりますがご了承くださいませ。

  第四章  外科医受難
     1
「ジョージ・クロフォード二十六歳。交通事故。胸部と腹部を打撲。酸素飽和度94%、血圧112の68、脈拍75」
 患者をストレッチャーで運び込みながら、救急隊員が半ば叫ぶように報告した。
「よし。患者を移そう。一、二、三!」
 リュウイチは聴診器のキャップを耳に差し込みながら、診察台に移動された患者を観察した。へその少し上に力を込めて、ゆっくりと息を吸い、そして吐く。
『いいか、落ち着け。慌てるんじゃないぞ。いつもの通り、まずABCDEだ』
 ABCDEとはAirway(気道確保と頚椎保護) Breathing(酸素投与と換気) Circulation(外出血のコントロールと循環維持) Disability(意識状態の評価) Exposure(着衣を取る)の頭文字をとったもの。
ABCDEによる治療と評価はprimary survey(一次査定)と呼ばれている。どんなときでも決して忘れてはならない、救急医療における鉄則である。
リュウイチはこれを、医学部三年生の実習の初日にサラから習ったのだった。学生はひとりずつレジデントにつくのが慣例で、評価も彼らがつける。リュウイチの面倒を見てくれたのが、三年目のレジデントのサラであった。
     *
「このABCDEはね、どんな重傷患者が運ばれてきてパニクってても、絶対に忘れちゃだめ。たとえ地球が割れちゃっても、絶対に忘れないこと。いいわね」
 地球が割れたら治療もへったくれもない気がしたが、サラの剣幕に気おされて、こくこくとうなずく。雛鳥のようにくっついて歩きながら、メモ帳を引っ張り出して書き留めていると、サラが突然走り出した。
 慌ててメモ帳を白衣のポケットに突っ込み、急いで後を追う。重傷患者が搬送されてきたらしい。
『もしかして、あの人が僕の最初の患者……よしっ。がんばるぞ』
 患者は、交通事故による胸部と腹部の打撲だった。スタッフ・ドクターのユージン・クラーク(赤毛に茶色の瞳の持ち主で、百九十センチ、百七十キロの巨漢)が素早く気管内挿菅し、アンビュー・バッグを装着した。
「リュウ! バッグして!」
「はい!」
 頭の中でカウントしながら、リュウイチはゆっくりとバッグを押さえ、そして放すことを繰り返す。
ユージンが患者の胸に聴診器をあて、眉をひそめた。
「両側呼吸音減弱……チェスト・チューブを入れる。32フレンチとテンブレードを」
サラはセントラルラインを入れていた。まず、鎖骨下静脈に狙いを定めて三十度から四十度の角度で針を突き刺す。
続いて針にガイドワイヤーを通し、ゆっくり血管内に挿入する。今度は針を抜いて刺入部をメスで切開し拡大する。
さらに皮下組織を広げるために、ガイドワイヤーの上にダイレーターを挿入。最後にカテーテルを血管内に通しながら、ダイレーターとガイドワイヤーを抜く。
ナイロン糸で皮膚にカテーテルを固定すれば終了だが、言うは易く、行うに難し。なかなか大変な手技である。
「セントラルラインが入りました!」
サラの声を待ちかねたように、ユージンから指示が飛ぶ。
「Oマイナスを四単位。ラピッドインフューザーにつないで!」
モニターでバイタルサインをチェックしていた看護師が叫んだ。
「140の頻脈!」
「パドルを準備して!」
除細動装置のパドルを両手に握ったユージンが怒鳴る。
「さがって!」
 胸に入れたチューブからの出血量は一向に減らず、輸血も効を奏していない。患者の危険な状態にリュウイチの心臓はばくばくし、喉がからからになった。足が小刻みに震えて止まらない。バッグしかできない役立たずの自分が、つくづく情けなかった。
「血圧が出ない。開胸セットを」
ユージンの言葉に、サラがさっとアシストにつく。
「肺動脈がずたずただ。肺門部でクランプしよう。吸引して……2―0のシルクとピックアップ……くそっ! 細動だ! パドルを30にチャージ!」
心臓に直接体内パドルを当てて除細動をしても、まったく効果がない。電圧を上げてさらに三度、トライしてもだめだった。
〝ピーッ〟という音が治療室に鳴り響き、リュウイチは飛び上がった。モニタを見ると、心電図の波形がフラットになってしまっている。
「午前十時十六分……」
死亡宣告したユージンが、悔しそうに唇をかみしめながら、血に染まったグローブを脱いでディスポーザーに放り込んだ。
『死んじゃったの? 嘘でしょう? こんなにあっけなく? まさか、そんな……家族だって、誰も来てないのに。ひとりぼっちで……』
 口の中に金気くさい味が広がる。ああ、唇を噛みしめすぎて、切れちゃったんだ。馬鹿みたい……。まるで地球の裏側で起きた他人事のように、ぼんやりとリュウイチは思った。
「リュウ、バッグをやめなさい」
 サラが痛ましそうに見つめている。
「で、でも……」
 ゆっくりと、しかし毅然とした声でサラは繰り返した。
「バッグをやめなさい。もう患者は亡くなってるの」
「……僕は……僕は……」
 言葉が、喉のところでひっかかる。次の瞬間、頭の中で白い光が爆発した。
「うわあーっ!」
 治療室のドアを、ほとんど体当たりするようにして開け、廊下に転がり出た。そのまま一目散に走る。
「リュウ! どこへ行くの! 待ちなさい!」
 エレベーターホール横の階段を駆け上がった。上へ……ともかく上へ行くんだ。
 息が苦しい。心臓も破裂しそうだ。膝が痛い。足が上がらない。汗が流れる。
 とうとうリュウイチは立ち止まった。階段に座り込み、壁にもたれてぜいぜいと息をつく。
『僕は生きてる。患者は死んじゃったのに』
 突然ぽとりと涙が階段に落ちた。「あっ」と思った瞬間、ぶわりと涙が溢れ出る。
泣きながら、リュウイチはまた、階段をゆっくりと上がり始めた。あごを伝い落ちた涙が、白衣に染みを作る。一部は汗と混じって首を濡らした。
今自分が何階にいるのか、まったく見当がつかない。だが上り続けていれば、いつか到達するだろう。
やがて、屋上に通じるドアが見えた。
『鍵がかかってたら、笑っちゃうよね』
 ノブを回すと、ドアはそっけなく開いた。
     *
「飛び降りたりしないでね。掃除が大変だから」
屋上の手すりにもたれてぼんやりと景色を眺めていたリュウイチが振り向くと、サラが腰に手を当て、しかめっ面をして立っていた。
「すみません」
 頭を下げるリュウイチに、笑顔でかぶりをふる。
「ユージン先生なら大丈夫。彼はとても面倒くさがり屋さんなのよ。事を荒立てたりはしないはず」
サラがリュウイチと並んで、手すりにもたれた。柑橘系の爽やかな香りが、ふわりと鼻にとどく。
『先生らしい香りだよね』
「あなたは、どうして医者になろうと思ったの?」
〝患者が亡くなるのは当たり前よ。いちいちショックを受けてちゃだめ。そんなことでは医者としてやっていけないわ〟などと小言を言われるのだと思っていたリュウイチは、意外な質問にとまどった。サラの表情を見ようにも、隣に立っているので、まさかのぞきこむわけにもいかない。
「十五歳のとき、母が亡くなったのがきっかけになりました。飲酒運転の大型トラックと正面衝突して、即死だったんです」
「そう……お父さんは?」
「母はシングル・マザーで、父親は精子バンクに登録したどこかの誰かです。おまけに母は孤児だったから、僕は一応立派な天涯孤独ってやつです」
 サラがはっと息を飲む気配がした。しゃべり過ぎたかもしれないという、ちょっとした後悔が、ひそひそと背中を這い上がる。
「……ごめんなさい」
 予想通りのサラの言葉に、慌てて笑顔を向ける。
「あ、いえ別に。僕こそ気を遣わせてしまってすみません」
サラが、まるで秘密を打ち明けるかのように、声をひそめた。
「屋上に、私もときどき来るのよ。病院の中では、ここが一番空に近いから」
 ある予感を抱きながら、リュウイチは尋ねた。
「先生も、どなたか近しい人を亡くされたとか?」
 サラがふわりと微笑む。綺麗だなあと、唐突にリュウイチは思った。
「医学生のとき、付き合ってた彼が喧嘩の仲裁をして、刺されたの。救急車が来る前に、彼は私の腕の中で亡くなったわ」
恋人を抱き締めて涙するサラの姿が、頭をよぎった。腹に重いパンチを食らったような気分になり、思わず言葉がこぼれ出る。
「……あのとき、ドクターもナースも警察の人も弁護士さんもみんな、〝ママは苦しまないで安らかに亡くなった〟って。子どもだった僕は、それを鵜呑みにしてましたけど。そうじゃなかったってことが、医学部に入ってからわかったんです。さっき同じ交通事故の患者さんを見てたら、もうたまらなくなってしまって……僕は何もできずにただ突っ立ってただけで……あんなに突然、あっけなく命の火が消えちゃうだなんて、信じられない……あの人だってこれからまだまだやりたいことがあっただろうし、家族だっているだろうに……甘いってことは充分わかってます……でも、僕は……」
急に喉が詰まって、鼻の奥がつんとしたかと思うと、視界がぼやけた。目を拭って笑おうと努力したが、すぐに無理だとわかった。涙が止まらない。
サラが見て見ぬ振りをしてくれているのがありがたく、また、とても恥ずかしかった。
『どうして僕はこう、泣き虫なんだろう。先生に軽蔑されちゃっただろうな。あーあ、最悪』
「気にしなくていいわ。泣き虫はね、優しさに裏打ちされてるものなのよ」
まるで自分の心を読んだかのような言葉に、リュウイチは飛び上がるほど驚いた。そっとサラの顔を見たが、優しい笑顔を浮かべたままである。
「これからは、命をひとつ救うたびに癒されるわ。亡くなったママも……そしてリュウ、あなたもね」
サラはまぶしそうに空を仰いだ。
     2
 リュウイチが手術前の手洗いをしていると、外科のスタッフ・ドクター、グレン・ハウが入ってきた。五十歳になる中国系のハウは、ひょろひょろと背が高く、分別くさいと言うのか、どことなく仙人ぽい顔つきをしている。
 その仙人が、意外そうな表情を浮かべた。
「今日はERカバーじゃなかったのか、リュウ」
「そうなんですけれど、手が足りないって外科から呼び出しが」
 ハウがリュウイチの向かいで手を洗い始めた。ブラシで爪の間を丁寧にこするとき、神経質そうに額に縦じわを寄せるのは、いつも通りだ。
「しかし、よくあのビビアンが承知したな。ERも相変わらずごった返してるだろう。リュウを寄越すなんて、いったいどういう風の吹きまわしだ」
「〝借りは必ず返してもらうわ〟って言ってました」
 一瞬ハウの手が止まり、顔を盛大にしかめた。
「おいおい、やめてくれ。何かとてつもない要求を突きつけられるという、確信に近い予感がする。ううむ。想像しただけで、背中がぞんぞんしてきたぞ。これは悪魔祓いをしてもらわんとな」
 ビビアンの求めるであろう埋め合わせというのは、外科の予算をERに回せだとか、小難しい会議で自分の味方をしろだとか何だとか、どうせその辺りだろう。リュウイチのような下っ端には、関係のない話である。
ハウのぼやきをBGMに、せっせと手を洗う。これから重患のオペなのである。
ハウほどのベテランならいざ知らず。五年目といえども、レジデントのリュウイチの気合がひとりでに入るのは、ごく当然のことと言えた。
 子どもがいやいやをするように、ハウは首を振りながら手を洗っていたが、突然、ぽんと手を打った。
「そうだ。いい考えがある。悪魔の気を静めるには、いけにえが必要不可欠。君がその役目を果たせ、リュウ」
 いきなり自分に矛先が向き、リュウイチはびっくりして、にやにや笑いを浮かべているハウの顔を見つめた。
「なぜ僕が?」
「君が勤務を抜けたのが、そもそもの原因なんだぞ。何だその目は。何事にも犠牲は付き物。男らしく覚悟を決めろ」
 口の中が、じゅっと音を立てて干上がった気がした。言葉がもつれ、舌をかみそうになる。
「か、覚悟って、いったい何の?」
 ハウが肩をすくめた。
「私が知るわけないだろう。〝すべては悪魔の御心のままに〟だ」
 そんな馬鹿な。どうして僕が、犠牲にならなきゃいけないんだ。抜けたくてER勤務を抜けたわけじゃないぞ。呼び出されたんだ。いったい、ドクター・ブライトに何をやらされるっていうの? 雑多な考えが、くるくると頭の中を回るが、答えは出るはずもなかった。
「……おい、聞いてるのか? だらしがないなあ。悪魔と一夜を共にするくらいで、動揺するんじゃない」
『えっ? やっぱりそれなの?』
「だから、患者の容体を聞いてるんだ」
 一気に身が引き締まる。顎を引き、背筋を伸ばした。
悪魔のことは、この際忘れよう。
「あ、すみません。古い倉庫の屋根が崩落して、その下敷きになったらしいです。肋骨、骨盤、右上腕骨、肝臓がつぶれてます」
     *
「ほほう、これは見事な血の大海だな。吸引してくれ」
患者は三十七歳の黒人男性だった。
「肝臓にグレード四の裂傷。ラップパッドを。リュウ、セグメンタル静脈を分離しろ」
「はい。ボビーとピックアップをください」
「血圧78に低下」
「まずいな。肝後方の下大動脈を損傷してる。クランプしよう。Large Angle Satinsky」
看護師が叫ぶ。
「除脈です!」
『来た!』
医学生の頃のように、ショックで目の前が真っ白になったり、足が恐怖で震えたりすることは、さすがにもうない。だが、うなじがちりちりする。アドレナリンが、さぞかしどっと放出されたことだろう。
「リュウ! 遊んでないで、心停止する前になんとかしろ! 今クランプをはずすわけにはいかない。大出血する」
「最高血圧60! 心拍58に低下!」
看護師の言葉が、鋭い矢になって耳に刺さった気がした。頭が高速で回転し始める。患者の容体と自分の腕を計算し、一瞬の判断で最善の方法をとらなければならない。
『よしっ! これでいくぞ!』
決断したら、もう迷わないこと。おまじないのように、心の中でつぶやく。
「アトロピンを1ミリ! 開胸して、大静脈シャントを入れます。スターナルソーをください!」
リュウイチはスターナルソーを使って、一気に胸を開いた。半ば予想していたことが起こっている。折れた肋骨が、心臓を傷つけていたのだ。
「くそっ。心臓から出血してる。傷を縫合しないと。2―0をお願いします」
「心室細動!」
「さっさと縫合しろ!」
充分わかってますから、皆怒鳴らないでよ。手縫いは時間がかかるんだ。ミシンがあればいいのに。
「損傷が大きいんです。ちょっと待ってください」
落ち着け、落ち着くんだ。でも、急げ。
「終わりましたっ!」
 息をつく暇もなく、看護師に差し出された除細動器の体内パドルを握りしめる。
「30にチャージ!……さがって!」
心臓さん。いい子だから、暴れないで。止まらないで。どうかお願い!
「同調律!」
ピッ、ピッという規則正しい音を、モニターが刻み始める。
「やった! 心臓に血がたまりだしたぞ! 血小板と新鮮凍結血しょうをあと二単位お願いします」
天国に旅立とうとする患者を、あぶないところで引き止めることができたのだ。湧き起こった歓喜は大きく膨れ上がり、リュウイチの身体を駆け巡った。
     3
 手術が成功し、何とか命を取りとめた崩落事故の重患は、ICUへと移された。
 白いあごひげが似合いそうな笑顔で、ハウがぽんとリュウイチの背中を叩く。
「よくやったぞ、リュウ。私の中国四千年の秘術にはまだ遠く及ばないが」
「ありがとうございます」
 オペルームを出たリュウイチを、安堵と疲労が襲った。急に身体が重くなったように感じられる。
その場に座り込んでしまいたい衝動に駆られたが、そうもいかない。五メートルほど離れた壁際のベンチに座った。
足が靴の中で膨れ上がり、存在を主張している。脱いでベンチの上であぐらをかいた。背中を壁にもたせ掛け、目を閉じる。
時刻は午後四時前。五時間近い手術は、夜勤明けの身にはかなりこたえた。ベッドにダイビングして、そのまま寝てしまいたい。
「ヨガでも始める気か」
 ハウの声がして目を開けると、鼻先にミルクティーの入った紙コップがつきつけられていた。受け取って礼を言う。
 隣に腰を下ろし、ハウがコーヒーをすすった。仙人ぽい顔つきのお陰で、霊験あらたかな、特別な飲み物のようにに見える。
「最近眠ったのはいつだ?」
「一昨日の夜に六時間ほど。昨日の朝七時から、ええと……連続三十三時間勤務です」
 ハウは慈悲深い笑みを浮かべ、気の毒そうに目をしばたたいた。
「相変わらずこき使われてるんだな。かわいそうに」
「そうなんですよ。昨日は風邪で倒れたレジデントのピンチヒッター夜勤で。こんな生活を続けてたら、そのうちきっと過労死しちゃいます」
『そのせいで、サラにチョーエーを頼むことになっちゃったんだよ。ごめんね、サラ。チョーエーどうしてるかな』
「そうそう。さっきのオペ患の経過観察は、君に任せる。手術記録もきちんと書いておくように」
「そんなあ」
 ふかふかのベッドが、時速百キロで遠ざかって行くのが見えた気がした。
「不服そうだな」
「……いいえ」
「執刀医がフォローするのが常識だろう」
「はい」
『僕が一緒にオペをしたのは、いったいどこの誰だったんでしょう。ひょっとして幻とか?』
 急にミルク・ティーを、紙コップごとゴミ箱にぶち込みたくなる。中国にも、悪魔はいるのだ。
「そういえば、君の恋人はPlanariateに勤めてるんだったな。前ここのERにいた、サラ・ボールドウィン」
 さりげなく叩き込まれたカウンターパンチに、リュウイチの怒りはいっぺんに吹っ飛んだ。
「どうしてそんなこと、ご存知なんですか」
 声が上ずってしまったのが、自分でも情けない。
「君のことなら何でも知ってるさ」
 リュウイチは大きく息を吸い込んで、目を見開いた。今の言葉は、深く考えないことにしよう。いや、考えたくない。
「例のSlime Sheet いよいよすごいのが売り出されるっていうじゃないか。臨床試験に入ってるんだろう? これからの外科医は大変だぞ。私はもう、先が見えているから関係ないが」
 一瞬息がつまり、のどがぐっと鳴った。立ち直る間を与えぬ、心理的な波状攻撃。さすがは悪魔(メイド・イン・チャイナ)。
できるだけ考えないようにしていた現実をいきなり突きつけられ、リュウイチは泣きたくなった。いったい僕に何の恨みがあるっていうの。
 〝Slime Sheet のすごいの〟というのは、先日発表された新製品のことである。外傷治療に特化したもので、縫合する代わりに貼り付ければよい。
 たとえばさっきのオペの場合なら、肝臓の裂傷にぺたり、心臓の穴にぺたり。はい終了ということになるのだ。個々の細胞から始まって、筋肉・血管・神経等の組織に至るまで速やかに再生されるのだという。
 中国四千年の外科医の技術もへったくれもない。医学生に毛が生えた程度の腕で充分間に合ってしまう。
 医学部を卒業するのが二十六歳として、一般的にレジデンシーが五年から七年。だが、それ以降もフェロー・シップをとって修行を続ける者が、外科の場合は非常に多い。多岐にわたる手技を完全に自分のものにするには、かなり時間がかかるためだ。
だから、自他共に認める押しも押されもしない一人前の外科医になれるのは、順当にいって三十五歳くらい。経済的には困窮するし、他にも苦労や犠牲は多いが、技術を習得するのに長い年月を要するということが、また一方で外科医のプライドになっているのも現状と言える。
ところが、その外科医の心のよりどころ――自惚れの源――が必要とされない、画期的な治療用素材が発売されるというのだ。外科医はみんなショックを受けているはずだ。今まで厳しい修行に耐えてきたのは、何のためだったのかと。
だが患者サイドに立ってみれば、これほど大きな福音はないというのが、また皮肉である。医者の腕に左右されない治療というのは、ある意味理想的なのだから。
またアメリカでは、公的な医療保険が高齢者や低所得者に限定されている。そのため国民の大部分が、民間企業が販売している医療保険に加入しているのだ。
企業というものは、利益を上げなければならない。だから、できるだけ医療費を払わずに済まそうということになる。
患者の医療費をどこまで払うかは、それぞれの企業によって決められる。したがって治療によっては、保険でカバーされないケースが出てきてしまう。さらに、持病があったり、経済的理由などで、保険に加入できない人々が五千万人も存在し、大きな社会問題となっていた。
もともと診察費(技術料)・人件費――施設あたりの医療従事者の数が多い――が高いため、他の先進国に比べて医療費がかさむ。それに加えて〝訴訟大国アメリカ〟では、医療訴訟も多く、そのための医療損害保険料の高騰、防衛医療(訴訟を怖れるあまり、過度な検査などを行う)などが医療費を押し上げる原因となっていた。その結果国民は、途轍もなく高額の医療費を請求される羽目に陥っているのだ。
リュウイチが勤務するオクセンバリー総合病院も、他の公立病院と同様、貧困者や保険に加入していない人々が数多く訪れる。貧富の差が医療の差に直結しているこの国の現実を、嫌というほど思い知らされていた。
医療費の面でも、Slime Sheetによる治療は救世主足りえた。従来の治療法より、ずっと安価なのである。
外科医としてはかなり忸怩たる思いをすることになるであろうし、また、自分の将来は、あまり光の差さないものになるかもしれない。それを思うと、奈落の底に落ちていくような絶望感に苛まれる。
だが、患者が被る恩恵を考えれば、Slime Sheetを歓迎せざるを得ない。
『参っちゃうけど、しょうがないや。だって大勢の人が助かるんだもの』
これがリュウイチの、正直な気持ちだった。
現在治療に使われているSlime Sheet は、周辺組織と同化することにより、結果的に傷の治りを早めるという作用がある。救急絆創膏として一般家庭に普及しているのも、このタイプのものだ。
これらは、生きている粘菌をシート状にしているわけだが、商品化に際しては、その〝品質〟を維持する必要があった。おそらく麻酔をかけたような状態にしているものと推察されるが、詳細についてはもちろん公表されてはいない。
 新商品のSlime Sheetは、同化の速度が速い個体を選別し、その能力を飛躍的に高めたものだという。こちらも肝心のところは全部伏せられている。
もっとも、粘菌の使用権と商品のパテントは、すべてPlanariateが独占しているため、企業秘密というのも無意味と言えるかもしれないが。
医者として、当然粘菌及び粘菌商品について興味はあるが、踏み込んで尋ねたことはない。機密を守らなければならないサラに、嫌な思いをさせたくないからだ。
また、リュウイチの夢 (腕ききの外科医になって多くの患者の命を救う)を粘菌が阻むであろうことから、サラはリュウイチに対して負い目を感じているふしがある。。
もちろんリュウイチには、サラを恨みがましく思う気持ちなどまったくない。だが、かえってサラを追い詰めてしまう気がして、口にするのははばかられた。
要するに、粘菌の話題は避けているのが現状なのだ。お互い気を遣い過ぎて、がんじがらめになっているとも言える。
特にここ最近は、相手の思いやりが心の負担となり、ふたりの間に微妙な影を生じさせている。ひょっとしたら、微細な亀裂が生じているかもしれない。認めたくはないけれど……。
ハウに気付かれないように、そっとため息をつく。すると思いがけなく、古い記憶がひょっこり顔を出した。
 あれはそう、一緒に住みだして三ヶ月くらいたったころだったな。あれ以来粘菌の話はしてない気がする。
 リュウイチはもぐもぐと、そのときのやりとりを反芻した。
「ねえ、サラ。粘菌の性質って、人間に都合が良過ぎて何だか怪しくない?」
「陰謀の臭いがするとか」
「サラもそう思うの」
「誰かが作ってばらまいてたりして」
「だよね」
「でも何のために?」
「世界征服」
「若いって素晴らしいわ、リュウ。大胆な発想をどうもありがとう。安心して。どこの国だって、そんな高度な生物工学技術は持ってない」
『サラが笑いながらおでこにキスしてくれて、僕はぎゅうっと抱きしめて。それから……』
 甘い記憶のあたたかい海にたゆたうリュウイチを、ハウの声が現実という名の岸壁に引っ張り上げた。これを〝いらぬお節介〟あるいは、〝小さな親切、大きなお世話〟と言う。
「粘菌による臓器の複製も、かなりコストダウンした。内臓保険も、金持ちの間では来年あたりには実現するだろう。技術力が上がってもっと廉価になって、庶民にも手が届くようになれば、がんや心筋梗塞なんかの治療もころっと変わる。こっち方面でも、外科医は受難だな」
 ハウの言う通り、複製臓器が一般化すれば、患部を切除し、すげ替えるだけですむ。QOLが低下することもない。
小難しい○○切除法とか○○吻合術だとかは、まったく用済みになるだろう。それどころか、断端を新製品の〝Slime Sheetのすごいの〟で巻けば、縫合さえ必要ないという状況になることも予想された。
外科医がメスを武器に、技術を縦横無尽に駆使して治療に腕をふるう時代は、今まさに終焉を迎えようとしているのだ。
ハウが唇の端をゆがめて笑う。
「夢の再生医療は、外科医の不幸の上に成り立つというわけだ。君のところは特に、サラが開発に関わってるときてるから、もっと皮肉だな。まあ、別れることになったら、私の胸で泣けばいい。いつでも歓迎するぞ」
     4
「た、ただいま……」
 やっと家に帰れた。リュウイチはほとんど倒れ込むようにして、リビングのソファーに座った。
 重患の経過観察をしながら二ラウンド目の夜勤をこなし、切れ切れに取った仮眠四時間で通常勤務に突入。疲労の極限状態からくるかなしいハイテンションと、母から受け継いだであろう浪花のど根性とで、何とか乗り切った。
 夕方六時過ぎ、風邪で倒れていたレジデントが出勤してきたので、ようやくバトンタッチすることができたというわけだ。
「俺、まだ熱が三十八度近くあるんだよね。身体もめちゃめちゃだるいし」
 餌を仲間に横取りされた、やせっぽちの野良犬のようなうらめしそうな目をして訴えるのを振り切り、悪魔に交渉して丸一日の休暇をゲットしたのは、我ながら大いに賞賛に値する。
「ひゃっほー! 明日は休みだ!」
 ソファーにうつ伏せにひっくり返り、手足をばたばたさせる。
「まるで童じゃの」
「疲れ過ぎててハイテンションなの。発狂の一歩手前とも言えなくもないわ。まあ、そっとしておいてあげて」
 頭上から降ってきた声に、身体を回転させる。
「……チョーエー! どうしたの? その格好」
 ジーンズをはき、白いTシャツの上に、赤とグレーのチェックのウールシャツを羽織っている。
「サラが買うてきてくれたのじゃ」
「さすがはサラ。どうもありがとう」
「どういたしまして」
「それにしても、よく似合うね。チョーエーって、かっこよかったんだ」
 リュウイチはソファーの上で正座をし、あらためて長英の姿をながめた。圧倒的な存在感と眼光に、手も足も出ない気がする。
着物を着ているせいだと思っていたのだが、見慣れた服装をしていても、それはまったく失われていない。いや、むしろ一層強力になっているように思われた。
「そうそう。ただ者じゃないって感じよね。さすがはサムライ」
 サラもどうやら、同じようなことを感じているらしい。だが、単にサムライというだけでは、こうはいかないだろう。
当時の日本で随一の学者だからこその、なせる技というところなのではないか。
『なんせ、教科書に載ってる人だもの』
 この四日間、殺人的な忙しさにかまけて、ろくすっぽ物を考えることもなかった。しかし、暇になってようやく、自分が歴史上の人物と一緒にいるということが実感されたのである。
 もう少し感慨に浸るべきかもしれなかったが、リュウイチには、先にしなければならないことがあった。最重要案件である。
「さて、おいしいものを食べて、シャワーを浴びて、ゆっくり眠ろうっと」
「俺がこの家に来た日も、確かそのようなことを申しておったな。おぬしにはそれしかござらぬのか」
 にやりと笑う長英に、リュウイチは口をとがらせた。
「そういう失礼なことを言う人には、パエリアを食べさせてあげません」
「パエリア作ってくれるの? うれしい!」
 歓声を上げ、リュウイチに抱きついてキスをするサラに、長英は眉をひそめた。
「パエリアとは、そのように大仰に喜ぶほどうまいものなのか」
「スペインの炊き込みご飯。うちのママは〝かやくご飯〟って言ってたけど。〝炊き込みご飯〟が一般的だと思う。ええと、つまり具をいろいろ入れて炊いたご飯ね」
「リュウのパエリアは、すんごくおいしいの。あ、そうだ。ワインを冷やしとかなきゃ。チョーエーはどうする?」
 サラがうれしそうにはしゃぎながら、目をくるくるさせて尋ねた。パエリアはサラの大好物なのだ。
長英が、酒場でよく見かける飲兵衛の顔つきになる。酒飲みというものは、〝酒〟という言葉が耳に入ると、古今東西、人種を超えて、同じような反応をするものらしい。
「ワインを少々。あとは酒だな。冷やでいい」
『なーんか仲いいなあ、ふたりとも』
 リュウイチは微笑んだ。見かけは元気そうな長英だけど、心の中はどうなんだろう。
 やっぱり、そっとしておいてあげるしかないか。
結局サラに二日間も面倒みさせちゃって、悪いことしたなあ。あとで謝っとかなきゃね。パエリアは、リュウイチのせめてものお詫びの印なのだ。
 パエリア鍋にたっぷりオリーブ油をそそぐ。まずみじん切りにしたにんにくを炒め、次にたまねぎを投入し、甘味が出るまでじっくり炒める。さらにピーマンを加えてさっと炒め、鍋の端に寄せておく。
 鶏肉とエビ、イカ、アサリ、ムール貝を白ワインと胡椒を加えて炒める。トマトの水煮の缶詰とスープストック、サフラン、パプリカ、塩、胡椒、米を加え、火にかける。
 あとは、火加減に注意しながら三十分ほど炊けばOKだ。
 待ちきれなくなったらしく、サラがいそいそと様子を見にやって来た。
「おこげはまだ?」
「もうそろそろだよ。ほら、パチパチ音がしだしたでしょう」
「ほんとだ。むふふ、いい匂い」
「あと五分くらいだね」
顔を見合わせ、微笑む。
『愛してるよ、サラ』
 今さらながら、サラが側にいてくれる幸福がしみじみとしみわたり、胸のあたりがあたたかくなる。きっとでれでれとだらしのない顔をしているに違いない。
『でも、まあいいや。サラしか見てないし』
ふと、ハウの意味深な笑い顔が、頭に浮かんだ。慌てて振り払う。
 炊き上がったら火を止めて、鍋に新聞紙をかけ、十分ほど蒸らす。
「お待ちどうさま。完成です」
 リュウイチは、テーブルの真ん中にパエリアをでんと置いた。
「なかなかに壮観。これはうまそうじゃ」
 長英が相好を崩す。
「あと、キャベツとニンジンのコールスローサラダも作ったからね。野菜もたっぷりとらないと」
     5
「ああ、お腹いっぱい。幸せ」
 リュウイチは、ソファーにもたれて天井を仰いだ。向かい側に腰を下ろした長英が、小馬鹿にしたようにふふんと鼻を鳴らす。
「パエリア八人前のうち、俺とサラで三人前として五人前か。あと、サラダも山ほど食っっておった。腹もくちくなるだろうて」
「あっ、いけない。ドーナツ買ってきてたの忘れてた」
 ソファーに放り出したままになっている上着の下へ、リュウイチが座ったまま手を伸ばす。
「まだ食うのか」
 あきれ顔の長英に、リュウイチの隣で、サラが鼻に皺を寄せて同調する。
「リュウは、デザートは入るところが違うんですって」
「へえ。ってことは、食べないんだね、サラ。残念だなあ」
 リュウイチが差し出したドーナツの箱を見て、サラが叫んだ。 
「クリスピー・クリーム・ドーナツ!」
ひったくった箱を、いそいそと開ける。
「これが一番好きなの! オリジナルグレイズド! 外がかりっ、中がふわっ、口の中でしゅるーって溶けて」
 ため息をつきながら、長英が目をこする。
「やれやれ。どうやら、おぬしも別腹の口じゃな、サラ」
 ドーナツの甘い香りが鼻腔をくすぐり、口の中によだれがあふれた。
『うー、早く食べたい』
 リュウイチは、急いで立ち上がった。
「じゃあ僕、ミルクティーをいれてくるね」
「俺は酒がいい」
「なんだかんだ言って、チョーエーもしっかり食べるつもりなんだ」
 くすくす笑うリュウイチに、長英は昂然と胸を反らせた。
「悪いか」
「ううん、別に。でも、ドーナツって甘いお菓子なんだよ。お酒のつまみには、ならないと思うけど」
「それが生憎、俺は饅頭を肴に酒を飲む男でな」
「うええ、それって何かまずそう」
 味を想像して顔をしかめるリュウイチに、サラが微笑む。
「真性の大酒飲みは、甘いものでお酒が飲めるのよ」
「ふーん。奥が深いね。お酒って」
     *
「リュウがドーナツを六つ腹に収めたは、もはや何とも思わぬが、サラが三つというのには、いささか驚いたのう」
「ほっといて。明日からはちゃんとダイエットするからいいの」
「まあおそらく、その〝明日〟は、永遠に来ぬじゃろう」
「何ですって」
 サラがにらんだが、長英はそ知らぬ顔で、マグカップに注いだ酒をうまそうに飲んでいる。リュウイチは、つま先で長英の足を軽く蹴った。
「知らないよ。正拳突きを食らっても」
「日本語でしゃべらない!」
「あ、それはそうと、チョーエーの傷、経過は順調?」
 わざとらしい話題転換は、余計に怒らせることになるかもしれないと、リュウイチは一瞬危惧したが、サラは真顔になった。
「いけない。今日はまだチェックしてなかったわ」
「案ずるな。もう抜糸した」
「ええーっ、いつ」
 リュウイチとサラが、同時に叫んで目を丸くする。
「ふたりとも、そのように驚かぬでもよいではないか。リュウなど、見開いた目が、今にもこぼれ落ちそうじゃ。昼食{ちゅうじき}の後、暇だったのでな。ちょちょいのちょいと、洗面台にあった小さな洋鋏で鏡を見ながら」
「もう。無茶しないでよ。はい、ちょっと傷を見せて」
 テーブル越しに手を伸ばすリュウイチに、長英が不服そうな表情で胸を反らせ、拒絶した。
「俺は蘭法医だぞ。傷の縫合や抜糸なんぞ、嫌というほどやってきておるわ」
「それはそうだけど。チョーエーは一応僕の患者だからね」
 もぞもぞとソファーに座りなおす。医者のサガとしては、押さえつけてでも傷を診たいところだが、自粛した。
 自分の心の奥底にある、傲慢な気持ちに思い当たったからである。医者としてのキャリアは、自分よりも長英のほうがはるかに長いのに、現代医学を笠に着て軽んじるなんて、とても恥ずかしいことだった。
「しかし、傷を負うてから丸四日で抜糸がかなうとは、Slime Sheet の威力は、なかなかのものじゃのう」
「あ、Slime Sheetのこと話したんだ」
 サラの頬に、微妙な表情が浮かぶ。うなじのあたりが、さわりとした。
『その話題は、僕とサラには鬼門なんだけど。うーむ、やばい』
 重々しく、長英がうなずく。
「いろいろ聞いたぞ。今は手や足の再生が研究されておるそうではないか。この調子じゃと、いずれ外科医を廃業せねばならぬのう、リュウ」
 痛いところをつかれて、リュウイチはうなりながらソファーに引っくり返った。自分の心に、一メートルくらいの鉄の矢が、深々と突き刺さった気がする。
きっとサラも同じだろう。ひびが入っているっぽい自分たちの関係が、これでぱっくり割れてしまうのではないか。目の前が暗くなった。
サラが眉をひそめる。
「ちょっと、チョーエー。リュウをいじめないで」
「ほう、麗しき夫婦愛か。否、結婚しておらぬと申しておったな。いやはや、ほとほと甲斐性のない男よ」
「リュウ、気にしないの。チョーエーは悪酔いしてるんだから」
 一生懸命慰めてくれるサラの優しさに、リュウイチは涙が出そうになった。それにしても、デリカシーに欠けるこの男、何とかならないものだろうか。むくむくと腹が立つ。
 気色ばんでいるサラに、長英はにやりと人の悪い笑みを返した。
「これしきの酒で、俺が酔うものか。サラ。おぬしは、たとえ好いた男が医者として立ち行かぬことになろうとも、研究をやめとうはないであろう。だが、それでよいのじゃ。リュウはサラを恨みに思うたりはせぬ。それどころか、再生医療の進歩を喜んでおるはず。心苦しゅう思う必要はない」
 いきなり心の奥底に踏み込まれ、リュウイチは驚いて起き上がった。サラと顔を見合わせる。
出会ったときからのマイペースぶりとはまた、少々趣を異にするようだ。突然舞い込んだ、このエド時代の蘭学者は、いったい何が言いたいのだろう。
「リュウもサラも、患者の命を救うことが一番大切だと考えておろう。それが医者というものじゃ。ゆえに、お互いいらぬ遠慮はせぬこと。度を越した気遣いは、かえって不和の元ぞ」
 どうやら、自分たちの仲を思いやってくれているらしい。ふたりが置かれている極めて微妙な状況を、短期間で正確に把握してしまっている長英に舌を巻く。
〝度を越した気遣いは、かえって不和の元〟ってところが、身にしみるよね。だけど、サラのことだけを思って、Slime Sheetの話題を避けてたんじゃない。
サラのためっていうのは、単なる自分への言い訳だった気がする。ほんとはこわかったんだ。関係が壊れて、サラに捨てられちゃうのが。
これって、すごく卑怯だよね。自分の気持ちを、もっとちゃんとはっきり言わなくちゃ。
リュウイチは、にっこり笑った。
「チョーエーの言う通りだよ、サラ。研究をやめたりしないで。僕、全然平気だから。それよりごめんね。気を遣わせちゃって。それと、あのさあ、あの……僕のこと、捨てないでね」
 ゆっくりと、サラがかぶりを振った。
「私こそ、ごめんなさい。とっても、こわかったの。リュウが出て行っちゃうんじゃないかって」
 リュウイチはサラを優しく抱き締めた。
『なあんだ。ふたりとも、同じことを考えてたんだね』
髪に顔を埋める。嗅ぎ慣れたシャンプー。幸せの香りだった。
 百六十年前から、突然タイムスリップしてきてしまった長英。家族の辿った悲惨な末路と、日本のその後を知り、大きなショックを受けたことは想像に難くない。また、これからどうしようかと、思案に暮れてもいるはずだ。
 リュウイチやサラよりずっと深刻な境遇にあるというのに。傍若無人の陰に潜んでいた思いがけない細やかさは、完全に想像の範囲を越えていて、大きな驚きと感動をもたらした。
『チョーエーの大切な人は、皆、もうこの世にはいないんだよね』
鼻の奥がつんとしたと思ったら、あっと言う間に視界がぼやけた。
「抱き合うている場合ではないぞ。知識も技術も薬も、無きに等しい状態で、患者を死なせてしまうことがどれほど辛く、苦しいことか。とうていおぬしらにはわかるまい。今は格段に医術が進歩し、以前は手の施しようが無かった人々も、治療することがかなう。己のちっぽけな事情でくよくよ悩むなど、まったくもって言語道断。私情を捨て、患者を救うためにひたすら邁進するが、医者の本分ぞ。思い煩う暇があったら、ひとつでも多くの命を救え」
 背中を平手で思い切りどやしつけられ、からりと目が覚めた気がした。長英の気持ちを、厳粛に受け止めなければ。急いで姿勢を正す。
 医者になろうと決心してから今日まで、いろんな人々の言葉を心の糧にしてきた。全てがリュウイチの大切な宝物になっている。
だがその中で、今長英が言ったことが、もっとも重く、そして深く、心の奥底に響いたのだ。
町医者として市井の人々を救おうと、奮闘努力していた長英の実感がこもった、シンプルだが力強い言葉。
『この人は蘭学者だけど、根本は医者だったんだ』
 意外に感じる一方で、リュウイチはとてもうれしくなった。国の行く末を憂慮していたのも、医者としての思いがそうさせたのではないかということに気がついて。
『そうだ。外科医が用済みになっても、僕は医者。自分にできることをやって患者を助けられれば、それでいい。人の命を救うことが、僕の生きがいだったはず。何でこんな簡単で大切なことが、わからなかったんだろう。ぐちゃぐちゃ考えたり、暗くなったり、ほんと馬鹿だよ』
 目の前が、ぱっと開けた気がした。長い間重く垂れ込めていた黒い霧が晴れ、頭上に高くて青い空が広がっている。
もうこれから、決して落ち込むことはないだろう。喜びが胸の中で膨れ上がる。
「よーし、今夜は飲むぞ!」
 拳を突き上げるリュウイチに、サラがうれしそうに拍手をする。
「そうこなくっちゃだわ」
「まこと単純なやつらよのう。なりは大きいが、まだまだひよっこじゃ」
 はしゃぐふたりを横目で見ながら、長英はそ知らぬ顔で酒をマグカップにつぎ、ぐいっと一気に飲み干した。
その唇の端から笑みがちらりとこぼれたのを、リュウイチは見逃さなかった。

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小説家。2012年第24回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞。お茶大SF研OG、池波狂、時代劇オタク。神戸市出身、徳島県在住。著作に「忍びのかすていら」「学園ゴーストバスターズ」「心花堂手習ごよみ」「黒猫の夜におやすみ」など。どうぞよろしくお願いいたします。
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