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主をおそれ、主に信頼する

なんの権威によってこれらのことをしているのか。
と尋ねた祭司長と律法学者たち。

イエスは彼らに一つの質問を投げかけた。
ヨハネのバプテスマは天から来たのか、人から来たのか。

祭司長、律法学者は、自分たちの権威は神からのものである、
と言う自負があった。

しかしイエスとのやり取りで、
彼らは群衆を恐れていたことがことが聖書に記述されている。

彼らの考えていた主をおそれること。
どこか曲がっていたようにも思う。
それでは、どこが曲がっていたのだろうか。

ヘブル語のおそれるを意味する単語が初めて出てきたのは、
創世記3章、アダムとイブが神を恐れた時。

あなたはどこにいるのか。と問う神。
自分たちを隠すアダムとイブ。

私たちが問わなければならないのは、
果たしてイチジクの葉と木々で神から隠れることができたのかということ。

神の及ばない領域はない。
ヨナも神によって連れ戻された。

心の奥深くに隠したとしても、神はそれをみている。
全ては神に見られている。

また心のどんな深くに隠したとしても、
逃れることのできない主をおそれることを、聖書は命じている。

パリサイ人たちは、律法の行いによって、地位によって、
隠そうとした。

では、私はどうだろうか。
主を主としておそれているだろうか。

全てが見えていて、全てがわかっている主がいて、
神と対話しているアダムの姿。

奉仕をすることで、祈ることで、人の評価、社会的地位、
それによって自分の醜さを隠そうとしていないだろうか。

自由になるどころか、イチジクの葉を背負うことになる。

本当に主を主として見上げるなら、
私たちは何かをしようと思えないはず。

この方に頼る以外、憐れみを受ける方法はない。
神に帰るならば、豊かな赦しを得ることができる。

私たちは立派なイチジクの葉を用意する必要はない。
むしろあってはならない。

主の前にそのまま進み出る時、喜んで励まし、慰め、喜びへと導いてくださる。
汚れていても良い。欠けだらけでも良い。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
(マタイ11:28)

あまりにも重いくびきを追っているように感じる時でも、
主はあなたを休ませることを約束する。

モーセは、主の憐れみを何度も体験した。
人間業ではないと思われるような躍進を見せるモーセ。
彼は主に信頼していた。

私の弱さに同情する主イエス。
全てを曝け出して、世の中は冷たく突き放すかもしれない。

しかし我々の大祭司、主イエスは、全てを知っているのにもかかわらず、
同情してくださる。

主が主が任せてくださるくびきを負って生きていきたい。

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