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幸いな人生を送る方法

幸いなことよ、で始まる詩篇。

詩篇は大きく分けて2つのことを教えている。
それは、「幸いなこと」と「幸いではないこと」についてである。

1-3節では幸いな人生について、
4-6節では幸いではない人生について、語っている。

物事を意識して、神経質になっている生き方を強いられているようにも聞こえる。

1いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず

2主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。

3その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

4神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。

5神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

6神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。

詩篇1:1-6

幸いな人とは、御言葉を喜ぶ人のこと。

教えを口ずさむとはなんだろうか。
これは、主の御言葉を思い巡らす、ということ。

主はこの場面で何を求めておられるのか。
あのときのデボーションで語られたことは、どう活かすべきか。

そのように、黙想して歩む、ということである。

予期しない事態に取り囲まれたとき、
喜ばしい事態が展開されたとき。

御言葉の教えを思い巡らすという心を
なくしてしまっている事が多いのではないだろうか。

私たちの毎日の生活というのは、黙想から離れてしまっている、
そういうことの連続である。

ある一つの方向に物事を進めようとするとき、
思想がどこかに飛んでいってしまっていることが多いのではないだろうか。

あのときに信仰を持って、自覚して深く思い巡らせればよかった。
深く主のみ心を思い出せばよかった。

そのような私たちのことをはじめからご存知である主が、
御言葉を喜びとし、教えを口ずさむことを始めてみよ、と導いている。

その人の生活はどのように変えられていくのか。

2主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。

3その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

詩篇1:2-3

「水路」これは、自然にできた川のことではない。
意思を持って計画的に築いていくものである。

植えられた木も、原生林のことではない。
その土地の人間がよく考えて、移植した結果のもの。

アフガニスタンで働いていた中村哲さんは、
病人を生み出さない仕組みを作らなければ、
根本的な解決はできないと考えた。

彼は灌漑に活路を見出し、水を引き、緑を増やした。

自分たちで管理できる環境にする。
彼はカトリックの信者であった。

彼は同じキリスト教信仰を持っている人だけに手を差し伸べるのではなく、
イスラム教徒の人々にも、同じ助けを与えていた。

ここで抑えておくべき大切なこと。
水路を作ることも、木を植えることも、計画的な作業であるということ。

多くの努力を強いられるもので、
簡単に継続できるものではない。

私たちの意思的で計画的な努力が求められている。
キリスト者が行っていくべき努力と生き方とはなんだろうか。

それは、毎日のデボーションの中で、示された御言葉から、
何を教えられたかを思い巡らせて、その日に活かして生きるということ。

毎週の説教で聞いた御言葉を思い巡らせて、
実際の生活で実行しながら生きるということ。

御言葉を生きてみることが最も大切だkが、中々実行するのは難しい。
マルティン・ルターは、生涯が悔い改めの連続と語った。

私たちは知らずしらずのうちに、
日曜日だけのクリスチャンになっていることはないだろうか。

そうであれば、計画的に水路を作ることから離れてしまい、
木を植える事も忘れてしまっている。

時が来ても実をならすことはできず、
葉を少しずつ枯らしてしまうことになる。

幸いではない生き方とは、放棄する生き方。
幸いである生き方とは、応答する生き方。

この態度を保つには、努力が必要。
それは自然にできるようになることではない。

それができるようになったとき、
毎日、毎週、新しい人へと変えられる生き方となり、
新しい歌を歌うことができる。


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