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二人のみこちゃん~表現における「独創」と「再現性・共感」について

 私はnote二つ分けて運営しています。

 今ごらんいただいているこのnoteは、小説とエッセイnoteです。もう一つは、マーケティング関係のnoteです。

 書いている内容からしますとこのような分け方になると思います。

  二つも書いているとなると「大変だね」と言われることもあります。でも、当人としては二つに分けたほうがむしろ楽なのです。

 なんでかといいますと、二つのnoteは「目的」と「ターゲット」が違うので「文体」が違うからです。

つまり、「表現力豊かな文章を書く技術」と「伝わりやすい文章を書く技術」は別モノだということです。

 なんか、めっちゃかっこいい区別の仕方でしょ(^o^)。

 もちろん私が考えたわけではありません(爆)。

 ↓ そのまんまのネタ元(;^_^A


 最近noteにもちょくちょく遊びに行っている高尾トンビさんのこのツイートで、私は自分でもはっきりとは意識してなかったことに気がついたのでした。

 自分の中では、この二つをどうしても分けないと書くものも書けなくなっちゃうんですよね。

 意識的に二重人格してるとも言えます。

 パクってばかりいても申し訳ないので、私も高尾トンビさんにならって、もう少しこの違いを考察してみました。

 その結果、私はこの文学note(みこちゃん)では「独創」を追求し、もう一つのマーケティングみこちゃんでは「再現性・共感」を追求しているのだと思い至りました。

「独創」というと天才のアイディアみたいなものを思い浮かべるかもしれません。…が凡人のみこちゃんはそういうことが言いたいわけではありません。

 それは「優越感とは別の真の自信」と言い換えてもいいと思います。

 うくー(><)。

 めっちゃかっこいい表現でしょ!

 もちろん私が考えたわけではありません(爆)。

( ̄ー ̄)


 今度は我らがイチオシマガジンの編集メンバーでもある「洋介パパ」のnoteからパクりました(^o^)。

 ちなみになんで「洋介パパ」かといいますと、私が感銘を受けたこの記事のコメント欄でこんなやりとりがあったからでした。

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 というわけで、決して「パパ活」をしたわけではありません。( U_U)

 凛とした文体の洋介さんのお考えはこの記事をご覧いただくとして、ここでいう「優越感とは別の真の自信」とは、もう少しみこちゃん流の俗な言い方をすると「個性」「その人らしさ」とも言えると思います。

 これが私の言うところの「独創性」の定義です。

 独創というよく聞く言葉は、けっこう深遠な哲学的含蓄のある言葉だと思うんです。人は独創的であろうとすると、人と違う自分、人より優越した自分をイメージしがちです。

 ところが、このありがちな「独創」という観念を洋介さんのこの記事は見事に粉砕しているのですね。

 私の愛読する小林秀雄がこんなことを言っています。

 さほど親しくもない人が「あいつは変わり者だね」、こういうとなんだか、空気読めないやつだねと同じです。でも、長年連れ添った古女房が「うちの人は変わり者だから」と苦笑交じりでご近所で口にする時、これはとっても上質の惚気(ノロケ)になっているという趣旨でした。

 私はこの小林秀雄のエッセイを、洋介さんの記事を読んだ時に思い出しました。

 つまり、みこちゃん本体noteでめざしたいのは「みこちゃんは変わり者だね」と皆さんに暖かく苦笑してもらうnoteなのでした(^o^)/。

 これを私は「独創」と名付けます。天才の所業でもなく、そもそも天才の所業など目指しません。自分は天才じゃないからというネガティブな感情ではないのです。

 仮に「みこちゃんは天才だね」と誰かが間違って言っても、私は「みこちゃんは変わり者だね」と皆さんに暖かく苦笑してもらう方が好きなのです。

 だって、私の定義する、目指したい「独創性」とは「優越感とは別の真の自信」の別名に他ならないからです。


 一方で、「インターネットマーケターみこちゃん」noteでは、意識的にこの「独創性」を排除した文体を駆使しています。

 人間の生きる営みには、霽れと褻(ハレとケ)があると思います。非日常的な祝祭と普段の日常生活ですね。

 これは生きていく態度としては、個性を十分に発揮する側面と、つつがなく丁寧に日常生活をおくることだといいかえることができるでしょう。

 どちらも大切なはずです。

 毎日三食高級フレンチ、銀座の寿司ではそのうち成人病になります。やはり朝はスクランブルエッグとか、納豆卵かけご飯とかがいいわけです。

 また、毎日誕生日というのは、まるでキャバクラのケータイ電話の営業みたいです。「ねぇ、今日私の誕生日なのぉ。一緒に同伴出勤して💖」はキャバ嬢に任せましょう(笑)。

 たまにハレの日があるから日常生活もまた楽しいしわけです。

 そして、この日常生活を楽しむ知恵の一つが「再現性・共感」だと思うんです。

 例えばです。

 お母さんが子供に、折り紙で鶴を折ってあげたとしましょう。初めて折り鶴の制作過程を目撃した子供は衝撃ですよ。自分のママは魔法使いかと思うでしょうね。

 もしこのママが洋介パパの言う「優越感とは別の真の自信」を全く理解していなかったらどうでしょうか。

 ママは子供の羨望の眼差しに優越感を持ち、子供が「僕も作りたい!」と目を輝かせても、決して教えてくれないでしょう。

 さすがに現実のお母さんで、こどもにこういう優越感を持とうとする毒親は珍しいと思います。

 でも、私達はこれと同じことをついつい、職場で、学校でやってしまいます。自分の優位性を確保し、自分のポジションを確保するということが主な目的だとは思います。それは居場所の確保という点で必要になる場合がある(時にはかなり切実な、その場所で生き残る知恵である場合もある)ことも十分わかります。

 でも、私はここで自分を戒めたいのです。

 「再現性・共感」です。

 折り鶴の再現性を惜しみなく息子に伝えること。それは母親の優位性を脅かすことなどではありません。

 同様に、職場で、学校でおしみなく自分のノウハウの「再現性・共感」を与えること。これもまた自分の優位性を脅かすことなどではない、私はそう思います。

 なぜか。

 人はひととつながっているからです。

 こころから、自分のノウハウを、その「再現性・共感」を人とのつながりの中でシェアすれば、今度はシェアされた側が、自分の「再現性・共感」を私に快く提供してくれるからです。

 いまうっかり「提供」といいましたが、これはもはや「提供」ではないですし、「ギブアンドテイク」ですらありません。

「ギブアンドテイク」は損得勘定をオブラートに包んで表現しただけですよね。無償の愛はどこまで言っても無償の愛のはずです。

 だってその愛を感じた息子は、ママの誕生日の日にこっそりとお小遣いでためたプレゼントを用意したくなるのですから。「こっそり」ほど見返りを求める下心から遠いピュアな心はないでしょう。


 こうしてみると「再現性・共感」に必要な「ノウハウ」というのは、単なるハウツーでないことが分かります。

 ハウツーというと高尚な学問に比べて一段低いものだとみなされる傾向があります。私はこれは間違いだと思っています。

 ハウツーとは、自分がほんの少し先に進んだこと、自分がかつて悩み、苦しみ、今はそれができるようになったことを最大限の混じりけのない愛を持って「再現性・共感」として表現することのはずです。

 ハウツーとは子供に折り鶴の折り方を教えることに他なりません。


 つまり世界で初めて折り鶴をあの形で創案した折り紙の天才と、それを習得してノウハウとして息子に提供するママとは、どちらが優れているなどという比較をすること自体が愚かなことなのです。

 天才と凡人。

 この二項対立は間違っています。

 人は誰しも天才であり、誰しも凡才なのです。

 だって、人間は誰しも個性的なその人の大切な特別な日を楽しむ人あり、同時に人は誰しも再現性を共感をもって楽しみ、何気ない日常生活の中にこそ幸せをかみしめる生き物だからです。


 以上のようなことを、私はここでご紹介させていただきましたお二方に気づかせていただきました。

 ありがとうございます。



 そして、折り紙の話を書いている時には、イチオシマガジン編集メンバーのYuri Hasegawa/ユウリハセガワ さんのことを思い出していました。

 Yuriさんは折り鶴のプロではなく、お料理のプロですね。でも私が例に出した折り鶴を折るようなこと「僕も作りたい!」を、お子様たちといつも楽しんでらっしゃいます。

 今日は三連休でもありますので、3つもnoteを紹介してしまいました。

 ぜひ休日にお楽しみ下さい(^o^)。

 読み終わってまだ時間があったら、いよいよ推理小説らしくなってきたみこちゃんの「真夏の死角」もよろしくどうぞ!



*このnoteは【共同マガジン】これが私のイチオシnoteだ!寄稿作品です。
*マガジンの内容は充実して参りました。フォロー頂けると嬉しいです。



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