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「書く前に考えていたことだけを書いた文章は、失敗である」という考え方に共感した話

最初に変化球からです(^o^)。
小野田官房長の「杉下の正義は時に暴走するよ」というセリフは、ドラマ『相棒』の中でも、私が一番好きなシーンです。私は右京さんよりも、小野田官房長官が好きです。

自分ではほどよい正義を身に着け、着実にキャリア官僚の道を進んでいるのに、暴走する正義を未だ封印していない杉下右京。このセリフには小野田氏が彼に対して持つアンビバレントな感情がさりげなく込められています。

いい加減おとなになれよ、という友人に対する気持ちと(友人と思ってなかったら小野田氏はもともとこんな感情抱く人じゃないもんね)、暴走する正義を忘れない青臭さに対する容赦ない軽蔑と、わずかな憧れでしょうか。

私にとって文章は制御効かない暴走する生き物だあ

正義が暴走するというのは、感覚的には正義という概念と無縁の私にも想像ができます。私の魂の中にも、どうやら「正義」という出口にはなっていないようですが、強烈に暴走する何かがあります。

時にそれは、文章を書く時に目を覚ますようです。

私は文章を書く時に7割くらいの構成を決めておきます。より正確には7割くらい頭の中で完成しないと、キーボードを打つ筋力が出てこないので、キーボードに向かいたいと思った時が7割という感じでしょうか。

書き始めの時に、私はその文章の結論がどうなるかまったく分かりません。なんとなく、こういう方向で書きたいなという漠然とした言語にならない感触はあるのですが、やり始めてみないと結論が出てこないので、書きながらそれを見つける感じです。

相棒発見

私と同じ人を知っています。本の中でですけど…。

ほとんど文章術というたぐいの本に魅力を感じない私なのですが、この本は愛読書です。なんども読んでます。実のところを言うと、ライティング技術的にはあまり役に立たない本です。

でも、随所に、思わず座っている椅子を蹴って立ち上がりたくなるレベルのことが書いてあって、私は、自分の文章に迷いが出た時に必ず手にします。つまり私にとっては名著中の名著というわけです。

当然のごとく真の名著中の名著は、その運命として著者がお墓に入らないとベストセラーにはならないという法則があります。したがって、この名著は現在絶版中でAmazonでもプレミアム価格になっています。

例えば「立ってみたくなる日本語」はこんな箇所(さっき読んでました)。

 自分の文章が楽しい。書いていて、楽しいし、あとから読んで楽しい(中略)。あとで読んで、これ、おれが書いたのか、よくこんな表現思いつくよな、と思えるとすごく楽しい、日常生活で使っている頭の部分で見ると、よく知らない人が書いているものに見える。それが、書いていて、おれにとって、いい文章。    前掲書P159

どうですか、立ち上がりましたか?(笑)

この引用の直後に、断定的におっしゃってますね。

「書く前に考えていたことだけを書いた文章は、失敗である」

両方とも私の昔から(おそらく小学生の強制的な国語の作文授業から)の私の実感そのもので、いつかこういう感覚を文章にしたいなとずっと感じていたのです。これ以上の文が書けそうもないので、引用するだけになっちゃった。うらみますよ、この本書いた人。

でも、この本が読めて心から嬉しいです。

思うに、用意された結論をつつがなく書くというのは、「文章」を書いているのではなくて「文書」を書いているのだと言えると思います。職業柄そういうのも書きますが、仕事を離れて私がnoteで書きたいのは文章です。

結論部分は、いつしかきわめて高い社会性を帯びるから不思議

この結論を用意しないで書く書き方の面白いところは、それが決して自己の言いたいことをダラダラ垂れ流すような安易な構成と結論を許さないということです。

書いていくうちに、一つの文章が次の文章を生み出すような感覚がありますので、当然、まとまってくると最初の方と文章表現上の整合性に無理が出てきます。

そこで書いている途中で推敲します。そうすると、その推敲の力学作用で、また微妙な方向性の修正要求が出てきて、直しながらさっきのまだ何も書いていない部分に到達した時には、新しくバージョンアップされた自分が、空白を埋めていくという感じになります。

これを繰り返しますので、当然最初から結論など用意しても無駄になります。だって歩いている本人がどこ向いて歩いているのか分からないのですから。

しかし、この感覚は「やりたいようにやる」「書きたいように書く」とは程遠いものです。だらだら自由気ままに書くのとは違って、ある種の強烈な「力」を感じます。

この力は、杉下右京さんであれば「正義」というような絶対的な方向性的縛りとなります。

正義という規範がお手本のように立ちはだかっているのでは、けっしてありません。内面的促しに従ってやりたいようにやっていたら、人には決して理解されないような(正確には世界で唯一人小野田官房長官にだけは理解できる)正義となって、警察官僚機構と世間一般や仲間さえも敵に回してしまい、人生を棒に振ってしまうような出口、結論がそこに待っていたという感じでしょうか。

小野田官房長官は、それを「杉下の正義は時に暴走するよ」と言ったのでしょう。奇をてらった反社会的な小説を書こうとしても、みみっちいちっぽけな自分が暴露されるだけです。革新的な犯罪小説はもっと鳩の足取りでそっとやってくるものでしょう。書き手の良心ではどうすることもできない「力」となって、時には作者の身を滅ぼす力となって。

これを、なんとか暴走で終わらせずに手綱をうまく制御するのが、文章術の極意であると思います。その制御がうまく行けば、内容的には正義は暴走し、また、内容的には犯罪の擁護としか見えないことが書かれてあったとしても、最終的な出口の重い扉を開くと、そこにはひとりの小野田官房長官が必ず現れると思います。

出口で待っていたのは反社会的な犯罪者仲間ではなくて、正義を暴走させた連合赤軍の残党でもなくて、社会性の代名詞であるような警察庁長官候補のエリート官僚さんです。

この種の社会性は、「最初から誰もが知っている結論」からは生まれません。都合よく小野田官房長官は現れません。

筆者自身をも何度も裏切りながら、書いている本人が思ってもいないような言葉で、ある方向(方向としか言いようがない)に誘導し、そのぼんやり見えかかった結末の恐ろしさに、社会性を持って人生を歩んでいる小心者の自分がおののく。

そしてそのおそれとおののきを、純粋な暴走の理念の純粋性をそこなうことなく、社会性に着地させるのが、文章を書くことだと思えます。

「文書」を書く人と「文章」を書く人

暴走の純粋性の美学を、自己を消し去ることにとって純化すると、おそらく逆説的な社会性を帯びた強烈な力を持つ文章が生まれます。

私はまだまだそんな境地には達するどころか、その入り口すらも、今書いたようなことでいいのかなと、ここでもまた結論がぐらつく始末です。

しかし、文章を書く時に結論は決まっていなくてもいいのだ、というプリンシプルは静かに実感として自分の中に定着しているようです。

そうでないと「文章」はいつしか「文書」になってしまう。だから小野田官房長官はせっせと世間に「文書」を書いて出世をし、杉下右京は世界に対して正義という「文章」散文を見出すのでしょう。正義は求めなかったのに、少なくとも小野田官房長官にとっては、杉下の暴走はイコール純粋すぎる正義の権化である。

文書も文章も人間社会には不可欠だ。

……。

あれ、おかしい…。
ここにきて、小野田官房長官と杉下右京さんに、銭形警部とルパン三世を連想した。

そんな連想が最後にやってくるとは思わなかった。
いま、ひとりでなんだか満足している。

私は今、読み返して自分が楽しくなる文章がかけただろうか…。

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