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承認欲求 は捨てるつもりがないので 嫌われる勇気 も必要ないわたし

なかなか読み進められない大ベストセラー『嫌われる勇気』ですが、やっと自分のペースがつかめたように思いますので、読書ノートを書いてみようと思います。

『嫌われる勇気』がなかなか先へと読めなかった理由

今は憑き物が落ちたので、やっとすらすら読めるようになりました。その私のページをめくるスピードを阻んでいたものが何であったかなのですが、これでした。

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「自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。」P147


「確かに嫌われることは苦しい。できれば誰からも嫌われずに生きていたい。承認欲求を満たしたい。でも、すべての人から嫌われないように立ち回る生き方は、不自由極まりない生き方であり、同時に不可能なことです。 自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由のコストとは、他者から嫌われることなのです。」P162-163


幸せになる勇気には、嫌われる勇気も含まれます。p165

言っていることは斬新で、すごいことだと思うのですが、どうも感覚的についていけない感じがするのです。これらについて、少々自分の気持ちを整理したいと思います。

1.他人の評価は他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話はそうは思えない

「自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。」P147

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単純に考えてこれは、そう思えません。例えば大学不合格という評価(この大学で勉学するに値しないという評価)がいったん下された場合は、私にはどうすることもできません。

でもこれは、決定されたことに対してであると思います。すなわち正しくはこうなるはずです。

すでに決定された 他人の評価は他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話

これならわかります。
九州の太宰府に飛ばされた菅原道真も、会社で不倫がばれて北海道に飛ばされた商社マンも、どれだけ訴えてもその人事が覆ることはほとんど望み薄でしょう。

しかし、まだ決定されていない他人の評価は、それこそ自分の課題ではないでしょうか。

家族に料理を作ってみました⇒おいしい!という評価の言葉が出るかな。

フィギュアスケートの選手が血のにじむような努力をして本番でうまく滑りました⇒最高点という評価は出るかな。

大学受験の合格発表日に良い結果が出るように受験勉強に打ち込んできた。⇒合格という評価は出るかな。

これらの他者の評価は、決定を下されるまではあくまでも自分の課題でしょう。そしていろいろな意味で生きていくうえで尊い課題であると思います。

私にはアドラーの他者評価の扱い方は、アドラーが懸命に退けようとした決定論そのものにも見えてきてしまいます。


2.大切な人から嫌われずに生きていきながら承認欲求を満たすことは可能であるし、自然なことである

最初にアドラーさんのロジックを分解して確かめてみましょう。

「確かに嫌われることは苦しい。できれば誰からも嫌われずに生きていたい。承認欲求を満たしたい。」P162-163

このロジックは誰からもという極端な前提条件を脇に置けば(この場合脇に置くというのは、妥協することではありません。こっちの方がおそらく現実的)、嫌われることを苦しまずに、承認欲求を満たすことが可能です。

最初の要素 確かに嫌われることは苦しいです⇒同意します。

二番目の要素 できれば誰からも嫌われずに生きていたい⇒同意できません。
好きな人には嫌われたくありません。嫌いな人には無理して好かれたくもありません。

三番目の要素 承認欲求を満たしたい⇒同意します。

このように二文目の「誰からも」という強い前提条件を否定してしまえば、これに続く文章は(少なくとも私にとっては)一気に説得力がなくなります。

でも、すべての人から嫌われないように立ち回る生き方は、不自由極まりない生き方であり、同時に不可能なことです。 自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由のコストとは、他者から嫌われることなのです。P162-163

私はすべての人から嫌われるようにも、すべての人から好かれるように生きることにも、両方とも魅力は感じません。つまり、嫌われる勇気というコストをかける必要性も感じません。

自分を承認してくれる(甘やかすとか、その方が自分に都合がいいという意味ではなくて)本当の意味での他者は生きていくうえで必要不可欠な支えだと思います。

ただし、どう努力しても歩み寄れない人に無理して好かれようとすることもないと思います。つまり、すべての人ではなく、特定の人には好かれたいということです。

ごく自然な感情だと思います。

3.「幸せになる勇気には、嫌われる勇気も含まれます」は当たり前すぎて覚悟もいらない

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幸せになる勇気には、嫌われる勇気も含まれます。p165

というわけですので、これは何の困難も感じません。

幸せになる勇気には、嫌われる勇気も含まれますというのは、その通りだと思います。どうしても不正が許せなくて上司を告発した報復として九州や北海道に飛ばされたら、それはかなり不自由です。しかしそんな奴に逆恨みされて嫌われることなど、へのかっぱ。

嫌われる勇気の行使に躊躇はありませんので、この言葉は、意外な警句でもなければ、はっとさせられる新しいものの見方にも映りません。

でも、家族がいたり婚約中だったりするとためらうかな、やっぱ。自分勝手はしたくない。親と付き合ってる人と友達と仲間には事前に相談しよう、とは思う。

しかし、なぜなら、彼らは私の承認欲求をサポートしてくれる存在あるからです。

つまり、原則としては飛ばされちゃったら、そらそうだわなということです。逆恨みの感情は残念ながら人間集団の普遍的な心理現象です。

次の人事で僻地に飛ばされることは覚悟しないといけない、というケースもあるでしょう。よく使われる言葉でいえば、対決したのは自己責任です。嫌われてもいい覚悟ができていれば、これは大丈夫です。

しかしその覚悟は、誰かにきっちり相談して、そのような決断を下した私への肯定的な評価(承認欲求の受容)という、いやなヤツを嫌ったことによる仲間内からの対価があれば、覚悟するほどのものでもないかもしれません。

八方美人で誰からも嫌われることを避けることで、逆に優柔不断なポリシーのない奴だという評価を得るかもしれません。しかし、僻地に飛ばされればもしかすると、一生の戦友ができるかもしれません。

だれからも嫌われるのは嫌です。私が社内告発をすることで、私のことを今よりもっと好きになってくれて評価をしてくれる、そんな暖かい他者からの承認欲求があれば、私は嫌われてもいい人に対して、嫌われる勇気をことさら深呼吸して確認することもありません。

つまり、私にとって大切なのは承認欲求

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ここで、私が嫌われる勇気などことさら必要ないと言い切れるのは、私のことを今よりもっと好きになってくれて評価をしてくれる承認欲求とそれを受け止めてくれる可能性を期待できる、他者からの承認 のおかげです。

ネット界ではなぜか承認欲求が悪者になっているのですが、私にはさっぱりわかりません。承認欲求おおいによろし!こう思うのですがダメですかね…。

というわけですので、承認欲求に肯定的な価値を感じている私にとっては、アドラー心理学はとてもエキサイティングな学説ではありますが、読む分には楽しくても、私個人としてはあまり実践には使う機会がなさそうです。

でも、考え方自体は面白いので、自分のペースで最後まで読もうと思っています。

私は恐らくアドラーマイノリティもいいところだと思います。
ベストセラーなので、『嫌われる勇気』は読まれた方も多いと思います。ぜひ感想を聞かせていただけたら、うれしいです!

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