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フェルナンド・ボテロ、その引っかかり

美術館の広報統括という新しい仕事でやけに瞬発力とスピードを要求されるので(メディア共催の大型企画展の間だけだと思いたい)、noteでは完全オフ。スルスルとは書けない小さな引っかかりを、ゆっくり書いておく。本日はコロンビア出身の画家、フェルナンド・ボテロをめぐって。長文です。
※6/21、構成を大幅に変更しました。

バブル終焉後の、久々のボテロ展

2022年4月から12月まで、フェルナンド・ボテロの個展が東京・名古屋・京都を巡回する。画家本人が構成したものだという。私は4月に東京展(Bunkamura)に行った。

追記:名古屋会場の公式サイトはこちら↓


2018年に封切られたドキュメンタリー映画も公開中だった。キュレーターの娘(展覧会の章解説は彼女によるもの)をはじめ、ファミリーも総出演。淡々としている割にちょっと身贔屓なつくり映画、ではあるが、そうした雰囲気も含めて、作家の生きる世界を知るには良かった。


自分の勤め先にもボテロ作品は2点ほどあるが、国内では久しく注目されていない。それがどういうわけで今、メディア主催の大型展に?

と思ったら、今年は生誕90年。節目の年というのは何かとやりやすい。加えて「人生100年時代」を感じさせる企画は今、注目もされやすい。

日本での個展は1995年以来26年ぶりという。国内初の大個展は1981年の西武美術館(大阪市美にも巡回)。公立美術館が各地で続々と生まれる前後の時期にあたる。ちなみに95年展は新潟県立美術館、いわき市立美術館などを巡回。東京会場は、今はなき三越美術館。カタログは、ぷっくりとしたモナリザが表紙だった↓。

私の勤務先も含め、公私さまざまな文化施設がボテロの作品を買ったのは、おそらくその81年〜95年頃の間に集中しているだろう。つまりはバブル期だが、その終焉とともに、少なくとも日本では個展という形での紹介が途絶えた作家、ということになる。同時代の美術、いわゆる「現代美術」のトレンドや文脈にはまる作品ではなかった、ということは大きいだろう。

古典的な絵画職人、ボテロ

さて、そんなボテロはどんな作品を生み出しているのか。上のぷっくりモナリザが典型的なイメージだが、特設サイトの紹介文も引用しておこう。

ボテロ作品を特徴づけているのは、あらゆるかたちがふくらんでいるということ。彼のモチーフは、人物も動物もふくよかで、果物は熟れきっているかのように膨らみ、楽器や日用品さえも膨張しています。ボリュームを与えられた対象には、官能、ユーモアやアイロニーなど複雑な意味合いが含まれ、観る人のさまざまな感覚に力強く訴えかけます。

「ボテロ展 ふくよかな魔法」展紹介文より

大型の作品が多いことも特徴だろう。本展の出品作品は、点数でいえば70点程度。え、それだけ? と思われるかもしれないが、「ふくよか」で「熟れきっている」ような対象が、厳格にコントロールされた構図で、そしてしばしば、西洋美術史上のポピュラーな名画を参照しつつ、しかも縦横2メートル級の大画面として、次々に迫ってくるのだ。かなりの満腹感。動画による会場の紹介も参考にどうぞ↓

もうひとつ、作品をたくさん実際に見てわかるのは、絵の具など画材の扱いが巧みなこと。油彩も水彩も素描も、上手い。総じて、手練れの安定感が大画面から放出されている。ボテロはいわば、真正なる「絵画職人」の系譜に連なる画家なのだ。

映画の中では、現代美術業界で著名な批評家ロザリンド・クラウスがボテロ作品を「ドーナツ屋の人形」などとこき下ろすシーンが出てくる一方、ギャラリストが「彼の絵はどんな不況にも関係なく売れる」と語っていた。ボテロ礼賛映画ゆえ、クラウスはギスギスした感じの悪いインテリという位置づけ。そこは苦笑しつつ、「売れる」という事実にはとにかく納得である。ボテロはクラシカルで、かつポピュラーな絵画職人だ。

ポップ・アート創成期とボテロ


さて、気になることその1。
今回の巡回展でも触れられているが、ボテロが知られるようになったのは、ニューヨーク近代美術館、通称MoMAが作品を買ったから、ということになっている。今では明らかに現代美術の「枠外」扱いのこの作家は、どういう経緯でモダニズムの殿堂に目をつけられたのだろう。

MoMAが購入したのは《12歳のモナリザ》という1959年の作品だ。

1959年のサンパウロ・ビエンナーレに出品され、MoMAに入ったのは2年後の1961年。同館のデジタルアーカイヴでは、一部の作品画像はもちろん、関連資料もいろいろ見ることができる。

https://www.moma.org/collection/works/79379?artist_id=693&page=1&sov_referrer=artist

同作品を含む「新収蔵品展」(1961年12月19日〜1962年2月25日)のプレスリリースがあった。タイプライター打ちの文書。読むと購入の文脈がわかる。面白いのでプリントアウトしておいた。

それによると、この年はアートの動向が「ひとつの潮流におさまらない」ことを示す方針での収集だった。

なるべく多様な国・地域の作品に目配りし、過去数年の新収蔵品展に比べて圧倒的に若手作家が多く(88作家の4分の1が35歳以下)、そして抽象的な作品と、半抽象あるいは具象作品とが半々であることが特徴だ、とされている。

1940-50年代に全盛を誇った抽象表現主義はそろそろ色褪せ始めていた。「半抽象あるいは具象作品」が半分を占めるというあたりに、そんな過渡期を感じさせる。

ボテロの「ふくよか」様式はまだ出来上がっていなかったが、ダ・ビンチやベラスケスなど古典的な巨匠の傑作を参照する具象絵画を描いていた彼は、過渡期ゆえの収集方針によって拾われたわけだ。ちなみにニューヨークには1960年に移住していた。

プレスリリースにはさらに興味深い情報も載っている。美術館側が作家に対して行ったアンケートで得た回答の抜粋を紹介しているのだ。《12歳のモナリザ》については、ボテロ自身の言葉としてこんなものがあった。

「レオナルドのモナリザはあまりに有名なので、もはやアートじゃないんじゃないか。映画俳優かサッカー選手のような存在。そんなわけで、そこは自分の絵画でも明らかに風刺的な要素だ…」

「新収蔵品展:絵画と彫刻」12月19日〜1962年2月25日
アーティストの言葉からの抜粋」より、ボテロのコメント

「もはやアートじゃない」、「映画俳優かサッカー選手」。ポップ・アートの旗手、アンディ・ウォーホルを即座に思い起こさせるような言葉ではないか。

そのウォーホルがキャンベルのスープ缶の作品を発表したのがまさに1961年。翌62年はマリリン・モンロー作品が登場し、またアメコミをモチーフとするロイ・リキテンスタインなども個展を開き、ポップ・アート創成期となる。

西洋古典絵画の系譜を念頭に戦略的に具象絵画を手がける一方、29歳のボテロ青年はポップ・アート路線にも目配りし、MoMAに向けて巧みに発言していたのである。狭い業界だし、もしかしてウォーホルとも知り合いだったりしただろうか。年齢で言えばウォーホルはボテロの4歳年上、1961年当時は33歳である。

なおMoMAはその後、ボテロの作品を数点だけ収集している。《12歳のモナリザ》の次は、ベラスケスを参照しつつ、いかにも中南米的な権力ネットワークを描いたように見える油彩画《大統領一家》(1967年)。

購入ではなく寄贈だが、こういう作品ならMoMAでも使いやすいのだろう。実際、本作はその後「20世紀のラテンアメリカ作家たち」展(1992年、ヨーロッパにも巡回)など、「ラテンアメリカ」括りの展示には出品されている。

https://www.moma.org/calendar/exhibitions/397

それ以外でこのボテロ作品を活用し得ためぼしい展覧会としては、21世紀を迎えるにあたりMoMAがいわば自己批判を展開してみせたモダニズム再考展「Modern Art Despite Moderism」(2000年)あたりだろうか。でもそれで打ち止め、という感じがなくもない。


要するにMoMAは、ポップ・アート方面に展開するかも知れなかった若手作家としてボテロを買い、そのあとはラテンアメリカ的な状況を風刺する当事者アーティストという括りで受け入れた。が、本人はそのどちらからも外れ、かつ「ポップ」に爆売れしてしまったのだった。

「素朴画家」、ボテロ?

気になることその2。
そんなボテロが日本で最初に紹介された頃は、なぜか「素朴画家」という括りに入れられていたのだった。一瞬ではあるけれど。

ただその理由がわからない。ともかく「素朴派」コレクションを持つ美術館に勤める以上、それが一瞬であったにせよ、見ないふりはしたくないものだ。

西武美術館での日本初個展が華々しく開催される以前、60年代末のことである。30代後半のボテロがすでに「ふくよか」様式を確立していた頃の、『芸術新潮』1969年7月号。

その巻頭特集「今日の素朴画家」。トップが、ボテロである。

『芸術新潮』1969年7月号の特集「今日の素朴画家」。カラーページ冒頭はボテロの《家族》(1967年)


せっかくなので、少々詳しく特集自体の紹介をしておこう。編集部が書いたと思われる巻頭のテキストを引用しておく。

すべて現代人はあの無垢な素朴さを過去のものとしたのだろうか。悪霊の存在を信じ、恐れおののいた古代人が、仮面を発明しトーテムをつくり、象徴の木や石を設定して霊をそのなかに閉じこめたように、素朴な心情は恐ろしいものにおののきながら、それを造形して己れを解放することは児童画にもみられる。素朴画家といわれる人々の造形意志は、おそらくこうした古代人や児童のようなものであろう。[後略]

「今日の素朴画家」『芸術新潮』1969年7月号

無垢なもの、「素朴」なものに対する現代の大人の憧れを語る手がかりとして、古代人と子どもを引き合いに出す。ロマンティックだ。「素朴」派が語られる際の定型フォーマットというべきものだが、それはいいとして、ボテロがその「素朴画家」の一員…? 

という疑問を抱きつつページをめくる。フランスのセラフィーヌ・ルイ、アンドレ・ボーシャンの名が目に入る。これは納得、職場の「素朴派」コレクションの一角をなす定番の画家たちである。

1920年代後半、ピカソらと親交のあったドイツ人画商・批評家のヴィルヘルム・ウーデが、アンリ・ルソーも含む彼ら、つまり独学の人々の作品を並べて「聖なる心の画家たち」というグループ展を開いた。教育や文化に毒されていない「素朴画家」なる(幻想の)まとまりが仕掛けられ、認知されてゆくひとつのきっかけであるが、特集にはそこまでは書かれていない。

右:セラフィーヌ・ルイ 左:ミヨ・コワチッチ

他にも、旧ユーゴスラヴィアのミヨ・コワチッチ、ヨシップ・ゲネラリッチも紹介されている。こちらはパリ帰りの画家たちが1930年代に故国で起こした、フォークロア絵画再発見という文脈での芸術教育運動の中から出てきた人々。その後のこの地域の「ナイーヴ・アート」隆盛は、当時の社会主義的体制も背景にした独特の生産システムの構築の上に成立しているようなので、勝手に「無垢」とロマン化できるものではない。ただ時代の制約もあるし、そこはおいておく。

右:アンドレ・ボーシャン 左:ヨシップ・ゲネラリッチ

こうしたカラー図版に続いて、ルソーのジャングル作品をモノクロであしらった宇佐美英治のエッセイが続く。宇佐美は詩人・仏文学者・美術評論家として多くの優れた仕事を残しているが、「素朴」についても書いているとは意外。

ルソーは稀代の天才だから例外、という扱いのもと、宇佐美は、一般に「素朴画家」たちは「集団的な無意識」を源泉とする想像力によって描いているとし(ユング心理学が流行った時代だった)、そうした作品は魅力的ではあっても「対象との闘い」(=自覚的な近代画家ならこれが仕事、という前提がある)がないゆえ、見る側としてそこに惑溺して良いものか、と警鐘をならしている。

今読むと、硬派な近代美術論として懐かしささえ感じるエッセイ。そしてますますわからないのが、なぜボテロ? という点である。宇佐美自身は、文中でボテロには触れていない。むしろそれでまっとうだとも思う。図版のトップにボテロをもって来た編集部は、何を元ネタにしていたのか。

ボテロはコロンビアで専門的な美術の訓練を受けていないし、その後奨学金を得てスペインやイタリアを遊学するが、それも「独学」ではある。

しかし、万一それだけの事実によって「無垢」な「素朴画家」に括られたのだとしたら、ずいぶん乱暴な話になる。宇佐美のいう「対象との闘い」という点にしても、ボテロが相当な格闘の上で自覚的に様式を構築していることは、図版を見ればわかる。あるいは「南米」出身ということが影響してしまったのか。いや、さすがにもう少しまともな根拠があったと思いたい。

図版の下に記載されたボテロの略歴の最新事項は、「1967年第5回パリ・ビエンナーレ代表」。35歳以下の若手作家限定のパリ青年ビエンナーレのことだが、ここで主催者フランス(またはフランス目線を意識したコロンビア)側によって、戦略的に「素朴」というキーワードとともに紹介された、とか…?いやいやいや。 

なおこの第5回パリ青年ビエンナーレには、いま東京国立近代美術館で個展開催中のゲルハルト・リヒター(ボテロと同年の1932年生まれ)も登場している。リヒターと違い、現在のボテロは決して「現代美術」作家とは括られない。にしても、当時だってさすがに「素朴」はないだろう。

ちなみにリヒターは自身の公式サイトに詳細な出品歴を公開しており、同ビエンナーレの出品作や関連記事ももちろん載っている↓。他方、今回のボテロ展のカタログの略歴や文献リスト(かなり詳しいものだ)には、何も載っていない。95年のカタログも確認したが、記載なし。これもささやかな謎である。


引っかかりが多い、ボテロ

気になっていることはまだあるが、キリがないのでもうやめておく。最後に個人的なメモを。

2008年の暮れから年明けにかけて、友人を訪ねてコロンビアのメデジンを訪ねたことがあった。

今回の展覧会でも紹介されているとおり、メデジンはボテロの故郷で、地元のアンティオキア美術館には「ボテロ展示室」もあった。美術館前の公園では、テロリストが弾薬を仕掛けたために破壊されたボテロの鳩の彫刻(の残骸)を見た。少し前までテロが日常だった大都市のリアルは強烈だった。公開中の映画にもその公園が出てくる。

当時もらってきたパンフレットを久々に取り出して思い出したのは、作家の故郷で見る作品たちの表情は、なんとも言えず掴みどころがなく、うっすら不気味にも感じられた、ということである。画面の色は美しく、ふくよかな人々や果物や動物が堂々と鎮座している。でも誰も笑っていない。パンフのレイアウトも、笑っていない顔を強調して見せている。

2009年、メデジンのアンティオキア博物館でもらった印刷物2種。
右はフロア案内図。「ボテロと海外の美術」というフロアがあり、「フェルナンド・ボテロ展示室」が
大きな面積(①〜③、フロアの約半分)を占めていることがわかる。左はボテロ展示室のパンフレット。
ボテロ展示室のパンフレット。

メデジンでのやや座りの悪い出会いから14年経ち、2022年に再会したボテロの世界は、印刷物や公式サイトのヴィジュアル、会場の造作、また「ラテンアメリカ」色強めの構成も相まって、親しみやすさが前面に出ていた。メデジンでの自分の印象がむしろイレギュラーなのかと、ちょっと怯む。

映画の中では、手練れの「絵画職人」は職人らしく、ただただ描くことを追求していれば幸せだという好々爺に見えた。とはいえ、美術史から周到にネタを取ってくるといった戦略は一貫して持っている。その周到さが大衆受け方向であるために、ストイックな現代美術の理論家をイラつかせる。そこも折り込み済みの手練れだとすると、なかなかである。

無駄な深読みなのかもしれない。作家にも作品にも、謎らしい謎なんて最初からないのかもしれない。でも引っかかる。一筋縄ではいかないラテンアメリカ出身の作家のことを考えるのは、なかなかめんどくさいのだ。こんなに煮え切らない文章を公開するのも我ながらどうかと思いつつ、いずれ続編でも書く、かも、とも考えて、ひとまずの区切り。お付き合いありがとうございました。


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