母の日

個人情報保護法なるものの施行にともない、いや、たとえそうでなくとも一般に女性の年令は公にされるべきではない。
と言うのは表向きの理由であり、実は私は母の正確な年令を知らない。誕生日も知らない。もちろん聞けばわかる。と言うより、いままで何度か聞いたはずなのだが憶えていない。どうも人の誕生日を憶えるのが苦手である。従って彼女の誕生日にプレゼントをした事がない。その点「母の日」は便利である。とは言うものの、母の日が正確にいつなのかも知らない。5月だったような6月だったような、まあそんなものであるが、実際その頃になると電車に乗っても街を歩いてもそれと知らせてくれるので大体わかる。今度の母の日にはカーディガンでも贈ってやるか、そんな気になるのだ。
いや、これは今、それほど重要ではない。

年令はともかく彼女はいわゆる「戦中派」である。
モノの無い時代に育った人の常として、口癖は「もったいない」である。
もちろん、この「もったいない」という感覚はたとえモノの溢れる時代に育った私にとってもとても身近なものと言える。
タクシーチケットをもらって乗ったにもかかわらず、上がっていくメーターが気になって仕方がなく、家の路地に入る前に「あ、ここで結構です」と言ってみたり、プレゼントに貰った白いハイネックシャツを「白はすぐ汚してしまうから」と言ってまだ一度も着てなかったり。
しかし彼らにとっては使うのがもったいないのではなく、捨てるのがもったいないのである。
今でこそ両面に印刷されている新聞の折り込みチラシも、昔は白紙の裏をメモ用紙にするため取っておいたものだ。しかし、たとえ一生かかったってそれら使い切る事など到底出来ないだろう。知り合いの母君に至ってはそれを取って置くために一部屋つぶれたというのだから一体どっちがもったいないのかわわかったものではない。
いや、これも、今それほど重要ではない。

彼らに見られるもう一つの傾向が「質より量」だ。
「本当に良いものを少しだけ」という考えはごく最近のものではないだろうか。彼女の世代にとって、まず原則として「大きい~事はいい事だ~」であり、こと飲食に於いては今なお「デッカイ何々」といううたい文句がよく見られる。

そして「中身より見た目」だ。
私は今まで何度となく私の楽器についていくぶん不躾な質問を浴びせられたものである。
曰く「いくらするのか」から始まり「何年使っているのか」挙げ句の果てには「こんなボロボロな楽器でよくあんな良い音出しますね」とまで言われる。口では皆、「随分と年季入ってますな」と言うが、つまり彼らにとっては「光っていて初めてサックス」と言う訳だ。
しかしながら観察深いオーディエンスなら御存知の通り、いわゆる新品の楽器を吹いているジャズサックス奏者、とりわけテナー奏者はほとんどいない。その理由をここで述べるにはいろいろと差し障りがあるので割愛するが、要するにロクな物がないからだ。
結果としてプレーヤーは皆いわゆるヴィンテージと言われる古い楽器を探す。値段は当然新品より高い。にもかかわらず上に述べたような不当とも言える扱いを受ける。
ならばその時代の物でありながら見た目の程度が良好なものはないのか。ない訳ではないのだが、しかしこれはバカバカしいほど高い。そのバカバカしいほどの楽器を私は持っている。いや、持っていたと言うべきか。つまり今となっては見た目上の扱いは上に書いた通りである。
要するに手入れが悪い。もっとも、同業者に言わせると私は「食生活を変えた方が良い」らしい。手にかく汗が酸性だからだそんな風になると言うのだ。
いや、これも、今それほど重要ではない。

とにかくその時、私は仕事で大阪に来ており、母の日のプレゼントを渡すために僅かな時間をさいて実家に帰って来たのだ。
母はどれほど嬉しかっただろう。贈られたサマーカーディガンを手にして目に涙を溜めていた。
私はここぞとばかり楽器のケースを開け、誇らしげに買ったばかりのテナーを取り出した。楽器は申し分ない程に光っている。
私はただ心配をかけつづけてきた母親を安心させたかったのだ。

「お母さん、御覧の通り僕は素晴らしい楽器を手に入れたのですよ。これは以前あなたが買ってくれた楽器の何倍もするものなのです。」
彼女は私の楽器をじっと見つめこう言った。確信と教示に満ちた口調で。

「そう言われてみれば前のより少し大きいかしら」 

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