『ゆたかさ』は『幸福度』と似ている気がする
こんにちは。呂彪《ナガトラ》です。
本日は、『ゆたかさとは何か』私なりに考えたことを書いていきたいと思います。
『ゆたかさとは何だろう』最初に浮かんだこと
考え始めて最初に浮かんだのは、私の生まれた家についてでした。
一言で言えば『貧しい』と思われるような家だったんです。もう、見た目からしてボロアパートというか、兄弟三人いるのに四畳半と六畳の二間しかない狭さとか、例を上げたらきりがないほど。
想像がしやすいように言うなら。
世間一般的に自宅にお風呂がある時代に生まれた私ですが、自宅にお風呂がありませんでした。
毎日、銭湯です。
雨の日も雪の日も、晴れの日も、です。子どもの足で徒歩十分くらいで行ける銭湯がなくなってからは、自転車です。雨の日や雪の日は自転車では行けないので、徒歩です。
なんていうか、いいお散歩ですね。
そんな生活が嫌だったかというと、嫌ではありませんでした。
何ていうか、私にとっては『生まれてからずっと』この生活なので、これが『普通』でしたから。
確かに、学校に通うようになって、一般的にはお風呂が家にあるものだと知ってからは、
「便利そうだな」
と思ったことはあるものの。
物心つく前から男湯にも女湯にも入って、男女問わず裸体の大人たちに囲まれて、ときには異性のクラスメイトにばったり遭遇して、なんて貴重な体験……多くの人はしていないんだと思うと、なんだかすごいというか。
何と言っても、広いお風呂!
銭湯でしか会わないおじいちゃんおばあちゃんとの会話!
子どもながらに憧れるマッサージチェア!
そして、禁断の夜の散歩。
確かに、寒い日は湯冷めしないようにと着込んで、でも凍えながら帰って来て。
暑い日はせっかくお風呂でいい汗ながしたのに、汗だくで帰って来て。
「自宅にお風呂があれば便利だな」
と、思ったことは何度もありますけれど。でも、人間って、ないものねだりというか、ないものに憧れるじゃないですか。
私にとっては、そういうものでした。
あ、今はもちろん、自宅にあります! お風呂。スーパー銭湯大好きですけど!
お風呂が家にない生活が終わったのは、高校二年生のときです。アパートが壊されることになりまして、引っ越したんです。
引っ越した先は、私にとって、
「これが憲法の定める最低限度の生活ってやつなのかー!?」
という衝撃でした。
ええ、憧れのLDKという響き! 且つ、一般的なフローリングで、スイッチひとつで電気がつくし、なによりもお風呂がある! と、感動しまくったのを覚えています。
ボタンひとつで湯が沸いたり、お湯をはるお風呂……には結構な衝撃でしたが、まぁ、それだけ『文明』に憧れていたのは確かです。
お風呂でゆたかさを考えてみる
お風呂にも、色んなお風呂があります。
幸いにも、と言っていいのかわかり兼ねますが、私、色々と引っ越しもしていまして。
一時、友人たちに、
「呂彪《ナガトラ》、お前……引っ越し貧乏になるぞ』
と、言われたほどです。多分、両手では足りません。
それで、私の出会った色んなお風呂たちがいるので、紹介します。
まず、家族で高校生のときに引っ越した先のお風呂。ボタンひとつで温度調整やら、お湯はりやらをしてくれる賢いお風呂です。もちろん、シャワーが出ます。お風呂が沸くとお知らせしてくれます。……なんて利口なの。いきなりこんなお風呂に出会えたのに、私の感想は……
「自宅のお風呂って、狭いな」
……なんて奴なんだ!(涙)
次に、その実家を出て一人暮らしをしたときのお風呂。ボタン? ありません。シャワー? ありません。そのお風呂は、『バランス釜』と言われるタイプでした。私の感想は……
「床のタイルが視覚的に苦手だけど、『お風呂がある』だけで便利だからいい」
……このアパートは持ち主が変わって家賃が高騰すると通知が来たので、退去しました。お隣のおじさんとお話したら、家賃の差があったものの、おじさん宅はシャワー付きだったらしい。やっぱり、シャワーほしかったな……と贅沢を思うようになった私でした。
その後もいくつか……実はルームシェアも経験して、その後に結婚したんですけど。
結婚してから会社の寮に入ったんです。そのときもバランス釜のお風呂と出会って、私は……
「あ~、これ、使い方知っている。しかも、ちゃんとシャワーあるじゃん」
と、文句なしだったんですけど……配偶者はかなりご不満だったようで。湯が出る、シャワーがある、私にとって自宅のお風呂に求める基本レベルがここなので……配偶者よ、ごめん、となりました。
あ、余談ですが。今は社宅から出ています。
さて、ここで私と配偶者に『ゆたかさ』の差が出てきているように思うのです。
いい、悪い、ではありません。
このときのお風呂を見て、お風呂があるからそれでいいと私はゆたかな気持ちになっている。つまり、私は『満足』している。
かたや、配偶者はどうでしょうか?
心が潤っているような感覚がないように思います。つまり、『不満』に思っているのかなと。
ちいさな不満は蓄積されていきます。そうすると、幸せとは離れていきます。ええ、幸福度は下がる一方ですね。
なので、私は『ゆたかさ』は『幸福度』と似ているなという考えに至ったのです。
『幸福度』とはなんぞや
『幸福度』とは、どれだけ幸せと感じているかの度合いだと思っています。
人は満足していれば幸せ、幸福なのかというと、そうでもありません。なかなか難しいものです。
逆に不満があれば。それは蓄積して簡単に『幸せ』と感じる割合は下がっていくと思います。
そう、下げるのは簡単なんです。
……そう考えると、下げるのは割と何事も簡単な気がしますね。
では、上げるにはどうしたらいいのでしょうか。
『お金があれば幸せになれる』という考えもあるようですが、どうも私はこの考えは好きではありません。
理屈はわかります。簡単です。
お金では多くのものを買うことができるので、お金を多く持っていれば買える範囲も広がりますし、行動範囲も桁違いに広がるのでしょう。
ほしいものを手に入れられるのは、すてきなことです。それがいいというのを否定する気はありません。
ただ、私は、お金があればなんでも、という考えを好まないだけです。
例え話をします。
私は野球が好きなので、ベイスターズが好きなので、試合を見に横浜スタジアムに行ったとします。
もちろん、試合を観戦しに行くには、お金も時間も必要です。けれど、それらは日常で工面できる範囲なので、『お金がすべて』という考えではありません。……伝わりますかね?
この日はデーゲーム。あ、夜ではなくて、昼間に試合が始まるってことです。一応。みんなが野球に使われる言葉を知っているわけではないという前提で書いています。
そこで、試合が始まる前に私は配偶者と昼食をとりに行くことに。横浜スタジアム周辺を通りかがったとき、とてつもない偶然が!
横浜スタジアムの駐車場に入る車を運転しているのは──あれは! アレックス・ラミレス監督ではないか!
「ラミちゃん!」
私がベイスターズの監督を愛称で叫ぶと、運転席の窓を開けていたラミちゃんこと監督は……手を、手を振ってくれたぁぁぁぁああああああ!
……はい、これ。実話なんですけど。
めちゃくちゃ幸せでした。
偶然ですが、これ、お金では買えないものです。ですが、涙が出るんじゃないかというくらい感動しましたし、今、思い出しても興奮します。
わかりやすいかな? と例を上げましたが、ここまで極端なことではなくても、人が『幸せ』と感じることって結構あると思うんです。
例えば、
「あ、今日は晴れていて気持ちがいいな。洗濯できるな、ラッキー」
だっていいし、洗濯が洗車だっていいと思うんです。
とどのつまりは、ちいさな幸せでも積み重なっていけば、心がゆたかになっていくんじゃないかな! と私はそんな結論です。
お金を絡めないで考えたい理由
お金をあんまり絡めたくない理由としては、お金を絡める話はちょっと殺伐とするというか、お金って結構怖いものです。
お金で苦労したこともあるし、助けられたこともあるんですが、だからこそ、敢えて言います。
「お金って、結構怖いものです」
追い詰められるのも、救済されるのもお金であることが多いですし、人がもめる原因に最もなるものだと思っています。
なんていうんですかね。
『酒は呑んでも呑まれるな』
って言葉があるじゃないですか。それと似ているような気がします。
必要なものではあるけれど、支配されてはいけないもの、そんな気がするんです。
なので、私は『ゆたかさ』は金銭的なものではかりたくないなと思っているのかもしれません。
奥が深い『ゆたかさ』
私は『ゆたかさ』を『幸福度』であると考えましたが、人は幸せだと心にゆとりを持てます。
心のゆとりは人を許せたり、励ませたりできる、すてきなものです。そこから人の繋がりも生まれるかもしれないですし、活力をもらえることもあるかもしれません。
『ゆたか』な心で過ごすと、『ゆたか』が広がって、増えていくようにも思えます。
今年、スーパーから様々な物が一時、消えました。
トイレトペーパーがなくなったとき、私はTwitterで流れて来たある呟きに心が洗われた気持ちになりました。それは、
「奪い合えば、無くなる。分け合えば、余る」
というような言葉でした。
この言葉に、『ゆたかさ』の極意がぎゅっと詰まっているように思います。
何かを『もっと』と求めず、ある分で『ありがとう』と感謝する。
そうすれば、『ゆたかさ』を感じることができるのではないでしょうか。
以上、私の『ゆたかさとは何か』でした。
それでは、またお会いできることを願って。
応援して頂けると励みになります!٩(ˊᗜˋ*)و”