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翻訳者の守備範囲

昨日、翻訳者の守備範囲を再考するきっかけがありました。

先月下旬に実務翻訳のお仕事をよく振ってくれるヨーロッパのクライアントから「〇〇というメーカーの専属翻訳者かレビュワーの有償トライアルを受けないか?」というお話がありました。

有償トライアルは珍しいし、そのメーカーの製品が面白そうだったので、翻訳者として受けたい旨と、〆切地獄の真っ只中だったので地上に生還する時期も伝えました。

その後、何の連絡もなかったので他の翻訳者になったのね…と思っていたら、一昨日同じクライアントから突然「大急ぎで校正して!」というヘルプ要請があり、300ワード程度だったので気軽に受けました。

ところが「何かのトラブルなのか、翻訳支援ツールに訳文がアップされていない」と、文面からPMの慌てようが読み取れるメールが届き、その夜の作業は一旦キャンセルに。

コトの流れを説明すると、これが例のメーカーの有償トライアルの翻訳文で、最初に有償トライアルを行った翻訳者が翻訳文をアップしておらず、再アップを依頼しようにも連絡が一切取れなくなり、他の翻訳者に翻訳を再依頼し、その翻訳者が完訳した時点で私が校正するという、バタバタな状況。最初の翻訳者、仕事放棄して音信不通って大胆ですね。

翻訳者の守備範囲を再び考えたのは、2番目の翻訳者の翻訳文の校正中。

この人、これまで何度か校正しているのですが、いつも直訳寄りな翻訳をする人で、読点が原文のまま、さらに原文通りの受動態が目白押し。誤訳が少なくて意味は合っているのですが、日本語としてけっこうビミョーです。

以前も述べていますが、翻訳を生業にする場合、「ただ訳す」ではプロとは言えず、「その翻訳文が登場する場面に相応しい言葉を使う」ことが求められ、翻訳時にオリジナル言語の資料が提供されます。これは文章、文字のフォント、色使いなどからその書類のトーンやスタイルを読み取るため。

そういう資料がなくても、今の時代、特定の分野や書類に登場する言葉遣いはインターネットで調べたらすぐに分かるわけで、それが文章に最適な言葉遣いに整えるところまで翻訳者に求められる大きな理由です。

雑誌や書籍の場合、かつては専門用語を調べて翻訳文を整えるのは編集者の仕事でした。今では翻訳者はアーティスト名のカタカナ表記から作品の邦題まで調べるように言われます。wikipediaは使うなと釘を刺されるのですが、最近はwikipediaで確認するしか手段のないアーティストやバンドが圧倒的に多いのが実情です。名前もユニークすぎてカタカナにできない人も多いし……。

そんなこんなで、情報収集に便利な世の中になったおかげで翻訳者の守備範囲は地味に、でも確実に広がっていて、実務翻訳者と言えどもライターのように文章を書き分ける時代なのです。一つの翻訳スタイル、一つの文章スタイルしか持たない翻訳者にとっては少し厳しい状況かもしれません。柔軟な思考で要求に最適なものを出す能力は一朝一夕で得られないですから。

ちなみに文芸翻訳の場合、記事や書籍のタイトル、文字の分量、レイアウト、デザインなどは基本的に出版社の担当者が決めるので、翻訳者がここに関与することは稀です。ここは翻訳者の守備範囲外と言えますね。

長年、出版社の海外コーディネーターもしていた経験から言うと、書籍翻訳の場合は「オリジナルに忠実に作る」という出版契約がほとんどです。ただし、文化に起因する言語の響きや印象の違いから、日本人読者に響きやすいタイトルや表紙に置き換えられることは多々あります。オリジナルに忠実がすべて良しというわけではないのが、ちょっと面白いですね。



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