200618 はみだしている

 上半期の終わりを目前に、会社仕事が爆発的に忙しくて引き続き目が回っている。原稿仕事の方をどうにか減らしたというのに、その分で浮くはずだった時間に会社仕事が雪崩れ込んできているのでどうしようもない。仕事に関しては、どうにもこうにもエントロピーの総和が変わらないようである。しかもあと二週間の間にコラムを一本仕上げないといけない。
 といういつもの愚痴はともかく、映画「若草物語」が面白かったり、「クィア・アイ」のシーズン5を見始めたりしているおかげで精神生活的にはハッスルしている。
 少し前からようやくまた一人でコツコツ文章を書くことのできる精神状態になってきていて、書き始めたいくつかのことと、「クィア・アイ」がつながって面白かった。
 「クィア・アイ」の第一話のゲストはゲイの牧師である。出自はゲイフォビアが激しいことで有名なバプティスト系教会にあり、当然ながら激しい葛藤を抱えて成長した。今はオープンリーゲイの聖職者としてとある教会を守っているが、長い間カミングアウトできず、セクシュアルマイノリティの人々の戦いを傍観してしまったことに罪悪感を抱いている。
 番組内では、いつも通りファブ5がファビュラスに彼を変身させ、教会コミュニティのリーダーとしてふさわしいメンタリティへと導く。と、その流れ自体はいつもの良い話なのでそれでOKとして、私はこれを観てからしばらく、ことあるごとに「超保守的なクリスチャンの世界観に、同性愛者として生きていたら」という想像をしては辛くなっていた。
 これは私にとって、かなり昔から関心のあるテーマである。「伝統宗教の教義からはみ出してしまった者はどうすればいいのか」。私が俗にいうスピリチュアル、新宗教の分野のウォッチをずっとしているのもつまりこの関心からくる。
 考えをもっと広げたくて、今日はジェフリー・S・サイカー編・森本あんり訳の『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』を読んだ。訳書は2002年、原著は1994年に出たものなので議論としてはかなり古いものになる。前から知っていたし、読みたかった本だ。しかし、どうしても「受けいれられないの、知ってるし」といじけてしまい(同性愛当事者じゃない私がいじけるのは不適当、と思われるかもしれないがそうとしか言いようがない)、怖くて読めなかったのである。
 この本には、同性愛に対して否定的な論考と肯定的な論考が合わせて掲載されており、異なる意見を見比べつつ、自分で考えを深めることを促されるようになっている。
 とりあえず、今日は第一章だけ読んだ。一番目、神学者リチャード・B・ヘイズの論考は、聖書がいかに同性愛を否定しているかを論じたものだ。彼は、容認派がしばしば持ち出す「姦淫は禁じられていても、生来の性指向としての同性愛は裁かれないはずだ」とか「割礼のような現代にそぐわない文化が記されていたりするのだから、同性愛の禁止も時代に合わせて受け取り方を変えていいはずだ」とかいった理屈を、聖書に準じてきっぱり否定する。そして、同性愛自認のキリスト者の救いの道は「禁欲」か「異性愛結婚」にしかないと断じる。
 冷静な書き方で、必要以上に攻撃的でも差別的でもないのだが、だからこそ読むのに消耗してしまった。サイカーは異なる意見に耳を傾けることを「冒険を企てる」ことに喩えているが、まさに私は危険を感じたし、読み終えたあとは疲弊した。ただ、「人間は同性愛(罪)によって裁かれる(罰)のではなく、同性愛自体が神に背いた結果(罰)なのだ」という理屈にはなるほどなと思う。筋は通っている。
 頑張って読み進めていこうと思うが、やはりこの分野の、20世紀の読み物はつらい。「昔の人の書いていることだから」とさっぱり割り切れるほど古い時代のことではないので、どうしても心がひりひりしてくる(もちろん私たちが作った本も、そのように思われる日がくるもしくはもう来ているのかもしれないけれど)。
 なお私が今日一番沈んだ気持ちになったのは、前書きの「ゲイの男性は、教会では同性愛者であるがゆえに反発を受けるが、レズビアンの女性は、まず女性だということで反発を受けるので、同性愛指向だから反発を受けるという意識は薄いようである」という一文を読んだときだった。94年だからね、という話ではない。これと似たようなことは、私だってこれまでにあらゆる局面で見てきた。
 映画「キム・ジヨン」の醸している物議を見ていても思うことだが、この部分は永遠に負け戦だ。慰めは、少なくとも前進はできる負け戦だということである。

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