200527 自然体

 ひさしぶりに渋谷の美容院に行く。
 担当のN氏は私と同世代の陽気な男性である。貸切状態のフロアで、二人でずっと新型コロナの影響の話をした。店はこの自粛期間中も営業を続けていたが、先月の売上は平均の半分程度だったらしい。N氏はずっと「厳しいッスね」を連発していたが、私が最近あった良かったことを話したところ、すぐさま「わ、そーいう話が聞きたかったんスよ!」と笑ってくれた。
 美容院のあと渋谷を歩く。百貨店などはのきなみ閉まっているが、それでもたくさんの店が営業しており、人出もかなりのものだった。ロフトで文房具やを買い、ZARAで靴を見る。レターセットのコーナーにあじさいや朝顔をあしらったデザインの一群があり、そういえば初夏なのだとしみじみ思う。今年は本当に季節感がないまま時が過ぎていく。せめてもの慰めに、夏の花の描かれた封筒を買った。
 地元に戻ってからファミレスにこもる。漫画の原稿を進めるはずがたいしてできなかった。集中力がもたない。体調コントロールのために飲み始めた低用量ピル(今話題の)の影響も少なからず感じる。体がむくみっぱなしで落ち着かなくて、普段の生理前の状況がずっと続いている感じなのだ。遅くとも2〜3シート以内には収まるという話だけど、最悪あと2〜3ヶ月はこれが続くのかと思うとやや憂鬱である。
 そのまま会社のSlackを見て、やらなければならないことの多さに突っ伏した。

 亡くなった木村さんについては私が言えることなど何もない。私がずっと考えているのは、「本当にみんな、リアリティ番組に『リアリティ』を、そして面白さを感じていたのか?」ということだ。
 私はあの番組にリアルもリアリティも感じていなかったし、出演者の言動、スタジオの芸能人たちのコメント、視聴者の感想、どれをとっても「生」に見えたことはなかった。そしてそもそも、「生」でなければいけないとも思わない。だけど世の中には、「生」であること、とりわけ「そう見える」ことが、「作り込まれた物語」であることよりも重要であるという価値観があるように見える。
 このことから思い出すのは、小劇場演劇の芝居だ。
 私が小劇場演劇に関わっていた10数年前は、局所的に「自然体の演技」が流行っており、「芝居らしい芝居」が忌避される傾向にあった。それで一部の演出家は盛んに「演じるキャラクターの気持ちになりきれ。そうすれば芝居臭い芝居ではなく、自然な動きができる」と言い、私も一度役者として出た舞台では先輩にそのように指導された。
 しかし私はまったく納得できなかった。「キャラクターの気持ちになりきる」というのは、意識の表層的な部分の話である。その気持ちのみをベースに動いたところで、身体は「自分の人生が作り上げた癖」で動くだけだ。つまり私がどれだけ跡部景吾の気持ちになりきろうと、私の体は小池みきのシステムでしか動けないということである。
 跡部を例に出したのは極端だが、私がこのとき演じていたのは実際に男性キャラだった。20歳の女が、30代の男性の役をやっていたのである。しかも女性だけの劇団の男役というわけではなく、リアル男性の役者に並んでの男役だった。この状態で、「キャラになりきった気持ち」で演じたところで「自然」に見えるわけがない(だから「なりきれ」系のアドバイスは無視した)。
 私はその手の「自然体」信仰が嫌いだった。「自然」は「作り物」より価値が高いという無批判な思い込みのことはほとんど憎悪の対象だった。自然とは何か、現実とは何か、「人間がそれをリアルだと思うこととは何か」、について真剣に考えていたら、「気持ち」にばかり拘れるわけがない。
 ある種のリアリティ番組にも、そういう疑問を感じてしまうところがある。「ナマっぽい」こと、「むき出しっぽい」こと、そんなイメージに合致する画を作り上げるためのさまざまな工夫、努力。人が罵り合っていたり、泣いたり、嫉妬を顕にしていたりすれば「現実の人間ドラマ」の雰囲気が醸せるという判断のすべては、なんらかのイメージをベースにしていると思う。
 そういうイメージの源もまたフィクションであり、リアリティ番組の提供している快楽とはつまり、「イメージと、目の前の『現実』もどきが合致する」ことではないかと思ったりもする。
 そういう快楽があってもいいとは思う。だけど私は、自分のイメージを超えるものが好きだ。

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